深夜に受信した、のは
仕事が終わり、タクシーで帰宅をしたのは時計の針が真上を向く少し前のことだった。この仕事をしているとよくあることなのでそれ自体は珍しいことではない。ただ、この日の彼女はとても疲れていた。電気を点けて鞄をその辺りの床に投げ捨てると、リビングにあるソファへと倒れ込む。同居人が居るのであればもう少し音を立てないようにと気を遣うところだが、彼とはこの半年間、顔を合わせた記憶がほとんどない。実際、その回数を数えたところで両手で足りる程度にしかならないのだからそれも当然のことだろう。どちらも国内を飛び回る仕事をしているため、家で顔を合わせることの方が少ないのは今に始まったことではない。ただ、今回ばかりは少し特殊だった。ペシ区、ヤッカラ区、プラネッタ区と続けて回り、 2日前に彼はバードン区に戻ってきていたはずだ。はずだ、というのはそういう予定になっているということを聞いただけで、彼女自身がそれを確かめたわけではないからだ。彼が戻ってくる日に、彼女は入れ違うようにペシ区へと行っていた。そして彼女がバードンに戻ってきた今、彼はフラワウ区に行っている。見事なすれ違いだった。
こうも長く顔を合わせない日々が続くのは 13年間に及ぶ同居生活において初めてのことかもしれない。そこまで考えたところで、彼女は胸中を占めるこの感情について考えを巡らせる。寂しい。浮かんでくるのはその一つだった。こういう時に、彼に寄り掛かってしまっている自分が居ることを彼女は自覚する。そしてその度に、この生活の目的を履き違えてはならないと自分を戒めるのだ。「おかえり」と出迎えてくれる声も、用意されている温かい食事も、どうしようもなく疲れている時に寄り掛かることを許してくれる胸も、彼女のためのものは一つもない。彼の全ては二人のためにある。そのことを決して間違えてはいけない。言うまでもないことを再確認したところで、気分は落ちていくばかりだった。今日は長時間のフライトが多かったため、体も疲れを訴えている。メイクを落としてシャワーを浴びるよう促す声も今日はない。幸いなことに明日は休みであるため、今日はもうこのままここで寝てしまってもいいのではないか。そんな考えに身を委ねて彼女が眠りに落ちようとした正にその時に、投げ捨てた鞄から着信を告げる電子音が鳴り響いた。日付を越えたこんな深夜に掛かってくるような非常識な電話など、本来であれば無視をしても構わないはずだった。ただ、何故かその電話には出なくてはいけない気がした。鳴り止まない音に急かされるようにソファから体を起こすと、拾い上げた鞄の中から発信源である携帯を探り当てる。液晶に表示された名前を見て、彼女はそれを意外だとは思わなかった。
「……もしもし」
『……起こしたか ?』
「まだ寝てなかったから、大丈夫。今はフラワウだっけ ?」
『そっちは今日ペシから戻ってきたところか、疲れてるところ、悪いな』
「ん。それより私に用件あるんでしょ。でなきゃこんな時間に電話なんてしてこない」
『……話が早くて助かる』
「前置きはいいから、その電話口でも分かる死にそうな声について私が聞くのを堪えてる内に言った方がいいよ」
掠れるような声と荒い息遣いは受話器を離したところで誤魔化しきれるものではない。隠し通すことの上手い彼がそれを感じ取らせてしまうということは、それだけのことが起きたということなのだろう。ただ、彼がこうして連絡をしてきているということで、少なくとももう一人の友人は無事であることは彼女にも分かった。
『……お前に頼みがある、
』
「それはあなたの「仕事」に関することで ?」
『そうだ。本当ならお前を巻き込むべきじゃないのは――』
「いいよ。それで、私は何をすればいいの ?」
食い気味に返答した彼女に驚いたのか、受話器の向こうからは僅かに息を飲むような声がした。彼の「仕事」を知ってからも彼女は深く追求をしようとはせず、適度な距離を保ったままこれまでの通りの友人という関係を続けてきた。それは彼に対する拒絶などではなく、むしろ現状を維持していく上での最善の判断であった。だからこそ、ここにきて彼女がその一線を易々と飛び越えたことが彼には意外だったのだろう。
「初めてでしょ、ニーノが私にお願い事するの。それもこんな時間に電話してきて。きっと、それだけのことなんだと思う。だから、聞いてあげる」
『……お前、いい女だな』
「あら、今更気付いたの ? 15年も一緒に居たのに」
『……ありがとう』
「どういたしまして」
それから彼の言う「頼み事」の内容を聞いて、ニーノとの通話を切る頃には時刻は深夜 1時を過ぎていた。彼の体調考えて手短にと言ったにも関わらず、通話時間は優に 30分を越えていた。いつになく饒舌に学生時代の話などをしていた気がするのは、彼にも色々と思うことがあるからなのだろう。明日は休みだから良いとしても、 1週間ほど休暇の申請を出さなくてはいけない。やることは山積みだった。クローゼットから二人分の服を選びながら、やるべきことを順序立てて考えていく。その一方で、彼女は昔のことに思いを馳せていた。先ほどの電話で話題になったからではない。最近仕事をしている中で耳にする噂、彼らの様子、そして今回のニーノからの「頼み事」。繋げて考えれば嫌でも見えてくるものがある。遠からず訪れるであろう未来を思えば、彼女が昔を振り返る理由としては十分だった。
+++
彼女と彼ら二人が出会ったのは、やはり高校に入った時だった。当時、一人で居ても目立ってような彼らが二人で居るのだから余計に目立っており、ジーンとニーノはクラスメイトからは無闇に遠巻きにされていた。後に聞いたところ、彼ら自身は「浮いていた」と思っているようだが、単に恐れ多くて迂闊に話し掛けられなかった、というのが真実である。そんな彼らと彼女が知り合ったきっかけとなったのはカメラだった。
の家族に写真家がおり、彼女にとってカメラとは幼少期から馴染みのあるおもちゃだったのだ。だから彼女がニーノが入学式から持ち歩いているカメラに興味を示し、クラスメイトから遠巻きにされていた彼ら二人に思い切って話し掛けるまでそう時間は掛からなった。「ねぇ、カメラ見せてもらえる ?」という彼女の第一声は今でも時々酒の席でからかわれる定番のネタになっている。入学からそう時間も経たぬ内にその容姿からニーノにはファンが多く居たため、そんなファンから睨まれたくはないけれどもカメラは見たい、という
からしてみれば、考えた末の言葉だったにも関わらずだ。名乗れば媚びていると言われ、同じ趣味なのだと伝えればアピールをしていると思われる。そうした複雑な事情を渦巻く女子社会を知らない彼らには、一生理解できないことだろう。ただ、勇気ある声掛けの甲斐もあってか彼女が彼らと仲良くなるのに時間は掛からなかった。理由は単純、カメラを好きだという
の気持ちに嘘がなかったこと、そして気が合ったから。これに尽きる。
「ねぇニーノ、カメラ触らせてお願い。ちょっとでいいから」
「駄目。壊されたら困る」
「壊さないってば。これだけ頼んでるのに貸してくれないってひどいと思わない、ジーン ?」
「うん。
は諦めた方がいいんじゃないかな」
「もう、そうやってジーンはいっつもニーノの味方ばっかりする」
「そうでもないと思うけど、この間はお前の味方した気がするよ」
「ジーンは公平だよ。そういう
こそ、俺の味方すること少ないよな。大体ジーンの方につく」
「そうかな ? んーそもそも二人あんまり喧嘩とかしないから、そんなに意識したことないんだけど。言われてみればそうかも ?」
「そうだよ。ま、いいけどね」
パシャと不意に響いたシャッター音はニーノではなく、
の手元から発せられていた。ニーノの持つカメラよりは手頃な大きさをしたカメラを構え、続けて何枚か撮ると彼女は満足そうにファインダーから目を離す。今し方撮影したものを液晶に表示させて確認すると、彼女は手元のものを隣のジーンにも見えるように差し出した。あまり感情表現が豊かではないと言える彼が、それを見て思わず手で顔を覆ったのだからさぞかし面白いものがそこには写っていたのだろう。机を挟んで向かい側からそんな二人を見ているニーノに対して、
は意地の悪い笑みを浮かべてみせる。聡い彼のことであるから彼女のカメラに写っているものについても想像に容易いだろう。だから、無言で向けられたレンズが彼からの返答に他ならなかった。
「そういえば
、また別れたんだって ?」
「うん、そうだけど。誰から聞いたの ?」
「聞いた、というか耳に入ってきた。教室でも話題になってる」
「また振られたのか。これで何回目だっけ ?」
「3回目、かな。でも今回は続いた方だと思うよ」
「それでも3ヶ月だろ。原因、お前も分かってるんじゃないか ?」
「まぁ……。けど私としては変えるつもりないところだから、それで付き合えないなら仕方ないかなって思うんだけど……駄目かな?」
「それでお前がいいなら俺らからは何も。な、ジーン」
「
の好きなようにすればいいんじゃない」
「ありがとう、二人とも」
ただでさえ人気のある二人と一緒に居るのだから、当然女子からのやっかみがなかったわけではない。それを直接的に言われることがなかったのは
の性格の賜物と、二人とは別に恋人が居たことが大きい。彼らとはあくまで「友人」なのだという何よりの証明になっていた。もっとも、その多くは長続きしないという難点があったが。原因は言うまでもなかった、何せいつも同じ理由で彼女は振られるのだから。暫くすると相手が必ず聞いてくる質問、「俺とあの二人と、どっちが大切なの ?」彼女からしてみればそれは比べるようなことではないから、そのまま思った通りを伝えていた。でもそれは相手の望む答えではなくて、程なくして破局。いつも同じだった。けれども、今のジーンとニーノとの関係が変わってしまうくらいなら、変えなくてはいけないくらいなら、恋人は居なくてもいい。それが
の結論だった。取り立てて刺激に溢れているわけではない、何気ない平穏な日々の繰り返し。それでも三人で過ごすこの時間を彼女は割と気に入っていたのだ。口には出さずとも彼女の思いは二人にも伝わっていたのだろう。友人の恋が長続きしない原因が自分たちにあることを理解しつつも、彼女自身の意志を尊重した上で、敢えて距離を置くようなことはしないでいてくれる。
にはそれが何よりも有難くて、嬉しいことだった。
2017/05/15