求めても仕方ないから求めない

 天候の変化の少ないバードン地区にしては珍しくその日は雨が降っていた。それも夕方からの突然の雨であり、今朝出掛ける前に今日は傘を持っていった方が良いと声を掛けてくれた母に対しては心の中で感謝をする。道行くすれ違う人々を見ていても、傘を持っている人の方が少なく、雨避けのものを掲げながら足早に目的地を目指しているか、近くの軒下で雨宿りをしている人の方が圧倒的に多い。それくらい、今日の雨は予想外のものであったということなのだろう。がその人の気が付いたのは、そうして道行く人々を観察しながら歩いていたからだった。まず目に留まったのは友人を想起させる青い髪だった。ドーワー、コロレー、スイツには濃淡の違いこそあれ青髪が多いと言うが、このバードンでは珍しい部類に入る。さほど広くはない軒下の狭いスペースがより一層狭く見えるすらりと伸びた身長、そして上着で包み込むようにして雨水から守っているもの。あの人も雨宿りかな、などと思いつつ、そのまま通り過ぎようとしていた気持ちは既にの中からなくなっていた。その人が佇む軒下の前まで行くと、彼女は思い切って声をかけた。

「あの、ニーノのお父さんですよね? 違っていたらごめんなさい」

違っていたら、と言いながらもの中では既に確信があった。彼女の良く知る友人とこんなにも共通点を持つ人が居るのならば、それはきっと家族に他ならないと思ったし、そして彼の家族は父親だけだと以前聞いたことがあったからだ。彼女の声に反応をして顔を上げたその人の顔立ちは、やはり友人のそれと同じ面影があった。

「確かに私はニーノの父親だが、君は……」
「あ、名乗りもせずに失礼しました。私、ニーノの友人のと言います」
「あぁ、君がさん。ニーノから話は良く聞いているよ」
「どんな話をしているのかとっても気になるところですが、それはまた後日機会があればということで。差し出がましいようですが、こちらお使いになって下さい」

そう言っては持っていた傘を差し出した。鞄に入る折り畳み傘であり、彼女の持ち物であるためサイズとしてはあまり大きくはない。それでも大事なものを雨水から守ることは可能な大きさだった。彼女の申し出があまりにも突然だったからか、差し出された傘をじっと見つめるだけで相手からは反応がない。そこに畳みかけるように彼女は言葉を続ける。

「さっき聞いた話ですが、今日の雨は夜まで止まないそうです。だからここで待っていても雨が弱まることはないです」
「いやいや、そんなことをしたらあなたが濡れてしまうだろう?」
「家がもうこの近くですので、大丈夫ですよ。それに私は濡れても拭けば済みますから。でも、それは濡れてしまってはそう簡単にはいかないでしょう?」

が指差した先には、ニーノの父親が先ほどから大事そうに抱えているカメラケースがあった。彼女が見過ごせずに立ち寄って声を掛けたのも、その手元にあるものに気付いたからだった。カメラ自体も雨に濡れて良いものではないし、撮影済みのフィルムならば猶更だ。雨に濡れてしまえば現像をすることも難しくなるし、撮影したものは永久に失われてしまう。ニーノの父親がどんな写真を撮っているかシビルは知らないが、それでもカメラが好きな者としてどんな写真であれ現像できなくなってしまうような事態は避けなければならないと思ったのだ。

「だから、どうぞ使って下さい。ニーノにはいつもお世話になってますし、その御礼とでも思って頂ければ良いので。はい」

言うや否や、空いていた手に傘を無理やり持たせるとはぺこりとお辞儀だけしてその場を走り去った。相手が頷いてくれるまで説得をするのに骨が折れそうだったということと、既にいくらかは濡れてしまっているであろうカメラ一式を一刻も早く家に持ち帰って手入れをして欲しかったからの行動だった。振り向けばきっと呼び止められてしまうと思ったから、次の通りの角を曲がるまで敢えてそのまま一度も振り向くことなくは立ち止まることをしなかった。雨の日の邂逅はほんの数分で終わり、その時は印象というほどのものは何も残さなかった。残ったのは、押し付けるように渡した傘一つ。


 +++


 二度目の邂逅が訪れたのは、あの雨の日から半年ほど経ってからのことであった。高校生のカップルによる痴話喧嘩、通りかかる人の多くはそう捉えてちらりと横目で見るもののそのまま何事もなかったかのように通り過ぎていく。彼がそうしなかったのは、そのカップルの片方の少女をよく見知っていたからだろう。口喧嘩で済む程度であるのならば、彼もそのまま見送っていたかもしれないが、少年の方が少女に手を挙げているのを見てしまったからには見過ごすことはできなかった。彼が二人の近くまで行った時には少年の方は「もうお前とは別れる、じゃあな」と言い残して丁度立ち去るところだった。残された少女は叩かれた頬を抑えて俯いていた。

「大丈夫ですか、さん」

掛けられた声と呼ばれた名前に釣られるようにして上げられた彼女の顔には、予想に反して涙は浮かんでいなかった。彼の顔を見ると一瞬驚いたように目を見開いた後、何かを察したような表情へと戻る。

「あ、ニーノのお父さん、こんにちは。ごめんなさい、みっともないところを見せてしまいましたね」
「あなたが謝ることは何もないですよ。痛みますか?」
「大したことはないです。悪いのは私の方ですから」
「場所を、少し変えましょうか」

叩かれたところが痛まないということはないだろう。平手であったからまだしも、あの少年は手加減をしているようには見えなかった。このまま何もせずにいれば明日には彼女の頬が腫れてしまうのは火を見るよりも明らかであり、知らない相手でもないため放ってはおけなかった。比較的メインストリートに近いこの場所はいつ誰に見られてもおかしくはない場所だった。彼女にとっても先ほどの流れの後でいつまでも衆人環視に晒されているのは良いとは言えないだろう。彼としても人目に付くような行動は好ましい状況とは言えない。だから「ついてきて下さい」と声を掛けると、彼女は首を縦に動かすと彼のあとを追うように歩を進める。いくら友人の父親とは言え、今日で会うのが二回目の相手である。にも関わらず、二つ返事でついていく彼女を警戒心がないと見るべきか、それともそれだけ友人の事を信頼しているのか。恐らく彼女の場合は後者なのだろう。時々振り返って彼女がついてきているかを確認しながら、彼はそんなことを考えていた。10分か15分ほど歩いた頃に彼はとある扉の前で止まった。鍵を開けると彼は彼女を中に入るようにと促す

「あの、ここは……?」
「我が家ですよ、ニノックス家へようこそ」

戸惑いながらも「お邪魔します」と彼女は部屋の中へと入った。彼が荷物を置いている間も依然として表情は晴れず、所在なさげにそのまま立ち尽くしていた。一先ず顔を洗ってくるように勧めると、素直に頷いて洗面所へと向かう。その間に、彼はリビングに置かれている見られては困るようなものを手早くまとめると布を被せることで覆い隠し、ついでに冷やすものを冷蔵庫から取り出す。戻ってきた彼女にタオルに巻いたそれを渡すと「ありがとうございます」と言って受け取ったそれを頬へと当てた。

「たまたま居合わせただけなのに、ご面倒をお掛けしてしまって済みません」
「気にしないで下さい。傘の御返しですから」

はた、と動きを止めると、彼女は納得したようにようやくその表情を緩めた。それは彼の息子が撮った写真にも写っている、よく見慣れた表情だった。少し落ち着きを取り戻したのか、そこで彼女の方から彼へと話が振られてきた。

「傘、ニーノから返ってくるんだと思ってました」
「そうしたいのはやまやまだったんだけど、私が言うのも何だがニーノは父親っ子なところが少しあってね」
「なるほど。それで、私がニーノのお父さんと会ったことはなるべくなら知られない方がいいと」
「まぁ簡単に言ってしまうとそういうことだね。今日はほら、ニーノはジーンくんのところに行っているから。さんを家に連れてきても大丈夫だったというわけだ」

二人の友人である彼女であれば当然今日のニーノの動向も知っているものだと思い、何気ない調子でそのことを口にした。けれども彼の思っていた反応とは異なり、彼女の表情にはまた先ほどまでと同じ影が差してしまった。無理に聞き出すことではない。そう判断した彼は、タイミング良く鳴ったお湯の沸騰音を聞いて一度台所へと向かう。部屋にはこぽこぽとお湯を注ぐ音だけが暫く響いていた。暖かいコーヒーと彼のお気に入りのチョコレートを持って戻ると、それを見て彼女はまた表情を緩めてくれた。

「チョコレート、お好きなんですね」
「あぁ、ニーノのチョコレート好きは私の影響だからね」
「よく、似てらっしゃいますよね。だから私もあの雨の日にニーノのお父さんだって分かったんです。……今日、最初はニーノのお父さんのことを一瞬だけ見間違えました。こんなところに居るはずがないって分かっていたのに」

彼女が彼を通して誰を見ているか、初めから分かっていたことだった。だから彼女が語り出すのを彼は黙って聞いていた。

「彼に……ニーノが今日ジーンの家に行っているって話をしたんです。私も行きたかった、なんて言ったらどうなるのかは分かっていたのでそこはさすがに伏せて。でも怒り出しちゃって、いつものパターンでした。『あの二人と俺とどっちが大切なんだ』って、そんなの比べれられるものじゃないのに」

そうは言いながらも、彼女の中では恐らく優先順位ができてしまっているのだろう。友人と恋人と、傍目から見ても彼女がどちらを大切にしているかは明白だった。そこには共に過ごした年月の違いということも影響しているのかもしれない。それでも、彼女がそこに頑なに線引きをしようとするのにはそれだけの理由があるのだろう。一口、コーヒーを口にすると彼女は言葉を続ける。

「それだけなら聞き流せたんですけど、二人の悪口を言われてしまったので私の方もかっとなってしまって。私が悪く言われるのは良いんですけど、二人のことを悪く言われるのはどうしても嫌で」

結果、叩かれるほどの喧嘩になってしまったと。だから、全て自分が悪いのだと彼女は言った。彼の息子の話によれば、彼女は短期間で恋人と付き合っては別れるということを繰り返しているという。話を聞く限りでは、そうなってしまう原因を彼女自身もしっかりと理解しているが、同時にその点を改めるつもりがないということも分かる。それらを踏まえた上で、彼の『仕事』にも関係する事柄としてどうしても確認しておかなくてはならないことがあった。

「これは今のあなたの話を聞いていて私が感じた疑問なんだが、恐らくこれまでにも何度も聞かれたことがあると思うものだ。それでも答えてもらいたいと思う」
「何となく予想は付きますが、どうぞ」
「あなたはその友人二人に対して恋愛感情はないのかな?」
「ありません。あの二人、ジーンとニーノに対しては恋愛感情は絶対に持たないと、私自身がそう決めたからです」

その言葉には嘘偽りがないということは明らかだった。彼女は真っ直ぐに、彼の瞳を見返してそう告げたのだから。何の迷いもなく、確固たる決意を彼女は持っていた。頑なな線引きの理由もきっとそこにあるのだろう。

「持たない、決めた、というのは不思議な言い方だね。詳しく聞いてもいいかな?」
「面白い話ではないですよ」
「尋ねたのは私の方なのだから、どんな話でも聞くよ」
「分かりました。…………幼い頃のとある経験以来、私は大切な人を喪うことを極端に恐れています。そのため養父母以外は大切な人を作らないように生きてきました。いずれ喪うかもしれないと思うと、大切な人を持つのが怖かったからです。でも、高校に入って二人の友人ができ、気付いた時には手遅れでした。彼らは私の中で大切な存在になっていた。だから、これ以上は大切にならないように、あくまで友人として一番大切な存在にすると決めたんです」
「友人ならば居なくなることはない?」
「恋人よりは確実に」

だから、二人に恋愛感情は持たない。それが彼女の理由だった。その生い立ちを考えれば、彼女の持つ喪うことへの恐怖は当然の感情とも言える。友人のどちらかに恋愛感情を抱き、例え恋人同士になれたとしてもいずれきっと別れは来る。その時に彼女は友人と恋人の全てを喪うことになる。そんなことになったら耐えられないから、彼女は自分の感情に制限を付けた。全てを聞いてしまえば納得のできる理由がそこにはあった。

「父親として、息子をそこまで大切に思ってくれる友人が居るのは幸せだな」
「ニーノのお父さんにこんな個人的な話をしてしまって……今更恥ずかしくなってきました。何だかつい気が緩んでしまったみたいで」
「いやいや、こちらから聞いたことだからね。さんにとって大事な話を聞かせてくれてありがとう」
「ニーノには今の話、絶対に内緒にしておいて下さいね!」
「今日、あなたがここにきたこともニーノには内緒なので、大丈夫だよ」

話しながらも手放さなかった保冷材とタオルを外すと、彼女の頬の赤みはかなりひいていた。この分であれば明日にはほとんど目立たなくなっているだろう。御礼を言って渡されたそれらの代わりに、あの雨の日からずっと借りっぱなしになっていた傘を手渡す。

「これからもニーノのことをよろしく頼むね」
「私の方が面倒をかけてるのでよろしくお願いする側だと思いますが、分かりました。長居をしてしまって済みませんでした」
「最後に一つだけ。さん、あなたにはあなたなりの生き方があるのだと思う。ただ、今のあなた方の年齢でその生き方を理解できる人はそう多くない。家族と友人と恋人、それは常に揃っていないといけないものなのかな。そのことについて、もう一度考えてみても良いと思うよ」
「私も、そろそろ考え直さないといけないなと思っていたので。ご助言、有難う御座います」
「こちらこそ、今日はありがとう」

 最後に深々とお辞儀をすると、彼女はニノックス家を後にした。一人残された彼は息子が帰ってくるまでに隠さねばならない彼女の痕跡を確認しながら、先ほどの彼女への質問によって確認が取れたことを追想する。今日、彼が彼女をこの家へと連れてきたのは、王子の近しい存在である彼女の人柄を知るという目的があったからだ。しかし今の彼は目的以上の収穫を得ていた。

 はジーン・オータスに恋愛感情を持つことは絶対にない。そして同時に、ニーノ・ニノックスが真実を明かすことがあっても距離を置いて離れていくこともまた絶対にない。

 いつか彼の息子がその役目を明かす日が来たとしても、彼女は変わらずにその側に居てくれるだろう。それは父親としての彼を安心させるには十分な置き土産だった。

2017/06/04