泣きそうな顔なのを隠してる
平穏な日常というのは突然終わりを迎える。予兆なんてものはなく、何の前触れもなくぷつりと途絶えるのだ。彼女はそれを知っていたからこそ、常に恐れを抱いていた。けれども、現実は再び容赦なく彼女から大切なものを奪い去っていってしまった。
テレビで繰り返し報道される映像を
は呆然と眺めていた。ロックスとペシの区境で起きたという列車事故、今朝出発した両親からその電車に乗ると言っていなかっただろうか。そんなわけはない、気のせいに違いない、自分が聞き間違えたのだ。両親が乗っているのは1本前か、もしくは1本後の列車なのだ。そう自分に言い聞かせようとした。しかしテレビから流れてくる情報は無情にも彼女のそんな願いを打ち砕いていく。一人で――きっともう誰も帰って来ることのないこの家で――テレビからの情報を受け止めるのはこれ以上は無理だった。逃げ出すように家を飛び出した彼女の足は脇目も振らずに目的地へ向かって走り出す。その時、どんな思考が働いたのかは
自身もよく覚えていない。ただ、今の彼女に縋れる相手は友人しか居なくて、友人の妹である幼い少女にはこんな姿を見せてはいけないと思ったから、気付いた時には彼女は一度だけ訪れたその場所の前に立っていた。どうやってここまで来たのかは良く覚えてない、迷わずに辿り着けたのは無意識だったからなのだろう。震える手で
がノックをしようと手を上げたところで、扉は内側から開く。出てきた彼は今からどこかへ出掛けようとしていることが一目で分かる装いをしていた。
「
? なんでここに?」
「ごめん、後で話すからとりあえず入れて」
「……悪いけど、今はお前の相手してる余裕ない。帰れ」
「家にだけは帰りたくない。私も今いっぱいいっぱいなの。とにかく、入れてくれるだけでいいから」
来るべきではなかったな、とニーノの顔を見た瞬間に
は思った。彼はこれまで
が一度も見たことがないような顔をしていたから。けれども今からもう一人の友人の所へ行くだけの気力は残っていなかったし、彼女としても後には引けなかった。
の並々ならぬ様子はニーノにも伝わったのだろう、数分か数秒だったかもしれない、じっと彼女の顔を見つめた後、彼は無言で彼女を部屋に招き入れた。その間に彼が何を考えていたかは分からないが、どこか全て諦めたような投げやりな部分があったような気がした。
「わがまま言ってごめん、ありがとう」
「別に。俺はこれから出掛ける。明日には多分戻るから、それまで好きにしてていい」
「うん、ごめんね」
置いていかないで欲しい、とは言えなかった。それはさすがに度が過ぎていると頭の中でまだ正常に働いている部分が押し止めたからだ。迷惑をかけてごめん、大変な時に来てごめん、無理をさせてごめん。色んな意味が込められたその一つの言葉を口に乗せ、出て行くニーノの背中を見送ることしか彼女にはできなかった。
部屋に一人残され、彼女は思う。見慣れないこの場所は、同じ一人でもやはり両親との思い出に溢れた家に居るよりはマシだと。咄嗟の行動とは言え、選択は間違いではなかったと。好きにしてていいと言われたが、何かをしようという気は到底起きなかった。あまり自分のことを話したがらない友人の実態を探れる絶好の機会だとか、そうした発想を実行に移すだけの気力がない。そんなことよりも、もしかしたら全部夢で、明日になって家に帰ったら両親も何事もなかったかのように戻ってくるかもしれないとか、有り得ないと分かっていても自分に都合の良いことばかりを考えていた。そんな風に考えることをこの場所は許してくれていたから。
聞きたくもない情報を流すテレビは沈黙している。座り込んだ指先に投げ捨てられたように床に転がったリモコンが当たったが、それが何を意味しているのか考えるだけの思考力は彼女に残っていなかった。そして目を閉じることで、彼女は完全に現実から目を背けた。
起きているのか寝ているのか、よく分からないままに時間は過ぎていった。家の外から物音はしたが、目を閉じた彼女にとっては全て関わりのないこととして遮断されていたから、そこにはただひたすらに静かで、何もない空間だった。まるで止まってしまったかのようなその部屋の時間が再び動き出したのは、扉の開く音がして誰かが戻ってきた時だった。誰か、と言ってもこの家に戻ってくるのは二人しか居ない。そして、そのどちらが戻ってきたのかを確認するために、顔を上げることさえも今の彼女には億劫だった。自分の部屋でもないくせに、今の空間を壊されることを嫌だと感じていたのだ。だから目を開けることでこの仮初の平穏な時間を終わらせてしまうことに抵抗があったし、直ぐ側に人の気配がしても彼女は身動ぎ一つしなかった。それを『誰か』がどう思ったのかは分からないが、疲れ切ったような深い溜息を彼女の耳は拾った。それからしばらくして次に聞こえてきたのは、電話の操作音とコール音だった。
「もしもし。はい、父の残したものは回収してきました、全てです。……分かっています、今後のことについては少し時間を下さい。私もロックスから今戻ってきたところなので、疲れもあって頭が上手く回らないので。……はい、明日一度ジーンとロッタの様子は見に行きます。その後でまたご連絡します」
聞き慣れない声だった。いつも聞いているものとは違う、よそ行きのような口調。よく知っているはずの相手なのに、今そこに居るのは知らない人物のような気がした。だからだろうか、尚更
は目を開けることが怖くなってしまった。何も聞かなかったふりをして、本当にこのまま眠ってしまおうか。そんなとても魅力的な考えが彼女の思考を埋め尽くしていく。
「
」
そのまま停止しようとしていた思考を引き戻したのは、彼女の名前を呼ぶ声だった。いつもよりほんの少し優しさが含まれてはいるが、それは間違えようもなくこれまでに何度も聞いてきた声で、つられるように、けれども恐る恐る目を開いた
の視界に入ってきたのは彼女の目線に合わせるようにしゃがみ込んだ友人の姿だった。その顔には何故か普段の眼鏡とは異なり、黒いサングラスが乗っていた。
「……ニーノ」
「ずっとここに居たのか」
「うん、そう。おかえりなさい、ニーノ」
そう言うと、彼はサングラス越しでも分かるほど眼を見開いた後、くしゃりと顔を歪める。込み上げる何かを堪えようとして、笑うつもりが失敗した、そんな顔。それは
が何度となく鏡の中で見てきたとても見覚えのある顔だったから、彼に何があったのか、彼が何を喪ってしまったのかを彼女は察した。自分のことばかりに気持ちが向いていた彼女の目を覚ますにはそれで十分だった。きちんと向き合いさえすれば、目の前の友人がどんな雰囲気を纏っているのかなど一目瞭然で、そんなことにも気付くことができなかった昨日からの自分を思うと顔をしかめたくなる。
「……あぁ、ただいま」
「ひっどい顔してる」
「お前も人のこと言えないだろ」
「そうだね。私もニーノと同じような顔してるんだろうね」
がサングラスを外そうと手を伸ばすと抵抗はなかったが、晒された瞳からは僅かに動揺の色が見て取れた。それには気付かない振りをして、無防備な胸元に倒れ込むようにして額をくっつける。彼が逃げることなく受け止めてくれたことに少しだけ安堵して、添えた手が触れているシャツをほんのわずか力を込めて握り締めた。触れた先から脈打つ鼓動の音を聞いて、まだ自分には残されているものがあるということを
は確かめる。こぼれ落ちてしまったものはもう二度と戻ってくることはないから、この手に残っているものを何に代えても守り抜きたいと、そう思うのだ。
「……両親が死んだわ。列車事故で」
「そうか」
「次にまた大切なものを失ってしまったら、私はもう耐えられない。だからこそ……聞くわ。ねぇニーノ、お父さまは?」
「お前はもう……分かってるんだろ」
「分からないことばかりだから聞いてるの。ジーンとロッタのことも含めて」
「聞かなかったふり、しないんだな」
「寝てないって知ってたくせに。聞かなかったふりをしたら、ニーノは私の前からきっと居なくなるでしょ。それだけは絶対に嫌なの」
故に、彼女は彼が踏み込んで欲しくないと思っていることを知っていて、敢えてそこに踏み込む。それができるのは今この時しかないと思うから。何も聞かなかったふりをすることは簡単だ。何も気付かなかったふりをして、今まで通りの関係を続ける。けれども、それをしてしまったらニーノはいずれ必ず
の前から姿を消すだろう。彼女にとってそれだけは受け入れられないことだった。例えもう二度とこれまでのような「友人」に戻れなかったとしても、自分の側から居なくなってしまわれるよりはずっといい。
「俺が話すと思うか」
「今のあなたなら、話してくれると思ってる。だって昨日私を部屋に迎えた時から知られてもいいって考えてたでしょ」
「余裕ないと思ってたけどよく見てるんだな」
「さっきニーノの顔を見るまでは何も見えてなかったよ」
彼が今どんな表情を浮かべているのか見ようとして顔を上げようとすれば、抑え込むようにして頭を抱え込まれた。今は顔を見られたくない、ということなのだろう。
は甘んじてその状態を受け入れると、ニーノの次の言葉を待った。
「聞いたら、知らなかったことにはもうできない」
「ある程度の覚悟はできてるわ」
「これから先ずっと、下手すれば一生、ジーンとロッタに隠し事をすることになる」
「二人に対して悪意があってしてるわけじゃないことくらい見てれば分かる。それが二人のためなら」
「情報漏洩の監視のため、四六時中俺と居ることになるかもしれない」
「ニーノの側にずっと居られるなら万々歳じゃない」
「それに――」
「もういいよ、私は大丈夫だから。それでニーノが側に居てくれるなら、私は何でも受け入れる。ニーノがこれまで抱えてきたものを、これからは私も一緒に抱える。だから、全部話して」
回された腕に込められた力が返答だったのだろう、程なくしてニーノは全てを語り始めた。彼女はただ黙って彼の腕の中でその話を聞いていた、最初から最後まで。そうして大切な両親と大切な友人を失って、彼女は何よりも大切な共犯者を得た。
2017/06/19