それ以上近づくな
いつかはこんな日が来ることは分かっていた。でもその「いつか」はもっとずっと先のことだと彼は思っていた。20年前のあの日、全てを捨てて父と共に行くことを決めたのも、間近に迫ったその時を先延ばしにするためだったのだから。だからきっと、「いつか」は寿命という形で訪れるものであり、それがこんな形で、何の前触れもなくやってくるなんて考えてもいなかったのだ。
耳に当てた受話器はツーツーという切断音を先ほどから繰り返しており、通話がとっくに終わっていることをニーノに伝えている。「今すぐ」と言われたがとても動く気にはなれない、頭ではそう思いながらも体は勝手に出掛ける準備へと取り掛かっていた。彼にとって世界の総てとも言える父親を喪ったのだ。その事について考えようとすれば感情が止め処なく湧き溢れて、彼の思考も行動も止めてしまう。だから今の彼を動かしているのはそれとは別のところで働いている、これまで父親が人生を賭して果たしてきたつとめをこのまま終わらせてはいけない、という使命感だった。ニーノにとって王家の重要機密が流出すること、それ自体は大きな問題ではない。ただ、そこに父親が関与しているという事実があれば捉え方は変わってくる。父のつとめが最後の最後で台無しになる。これまでずっと父の姿を見てきたからこそ、それだけはどうしても避けたかった。それに何かをしていればその分だけ気が紛れた。少なくとも今は、あの方の命を受けてその通りに動いていれば良い。何かを考える必要はなく、心を動かすこともない。淡々と任務をこなせばいい。そんな風に溢れてくる感情に蓋をしながらロックスまでの道程を頭に思い描いて扉を開けたニーノはそこで思いもかけない相手と顔を突き合わせる形となり、一瞬己の目を疑った。
「
? なんでここに?」
「ごめん、後で話すからとりあえず入れて」
「……悪いけど、今はお前の相手してる余裕ない。帰れ」
「家にだけは帰りたくない。私も今いっぱいいっぱいなの。とにかく、入れてくれるだけでいいから」
平素の彼であればらしくもなく一切の連絡もせずに家まで押しかけてくるからにはそれなりの事情があるに違いないとか、そもそも彼女がどうしてこの家の場所を知っているのかとか、そういったことをきちんと突き詰めていくことにも意識が回ったに違いない。けれどもとにかく今は「余裕がない」これに尽きた。そんなニーノの物言いを聞いてもなお、
は引こうとはしなかったが。ニーノも人のことは言えないが、今日の彼女はどこまでも彼女らしくない。追い返すことが容易ではないのはその様子からも明らかであり、そこまでして追い返すだけの労力も時間も今の彼にはなかった。入りたいというのであれば入れてしまえばいい。部屋の中には父親と彼のつとめに関する様々な資料がそこかしこに散らばっている。だが、それがどうしたというのだ。父のためにここまでやってきた。父の助けになるからこそ、役目を果たしてきたのだ。彼にとって全ての原動力であった父は、もういないのだから。考えないようにしていても、どうしても思考はそこに行き着いてしまう。もう何も考えたくない、どうにでもなればいい。だから、そんな思いと共に
を部屋へと招き入れた。
「わがまま言ってごめん、ありがとう」
「別に。俺はこれから出掛ける。明日には多分戻るから、それまで好きにしてていい」
「うん、ごめんね」
扉を開けた瞬間、今にも泣き出しそうなのを堪えていたその表情は、部屋に入るとほんの少し和らいだように感じた。それでも「ごめん」という言葉を繰り返す彼女の表情はどうしてか見る気になれなくて、ニーノは振り返ることなく部屋を後にする。帰ってきた時のことなんて、この時は何も考えてもいなかった。
+++
飛行機に乗ってロックスへ行き、そこから人目を避けるようにしてニーノは事故現場へと向かう。区を繋ぐ山間部には僅かな明かりしかなく、辺りは暗闇に満ちていた。けれどもそこで父が処分したものを見付けることはニーノにとってはそう難しいことではなかった。この状況下で父ならばどう対処するか、ニーノにはそれが手に取るように分かるのだから。目的を果たしてしまえばそれ以上長居をする理由はない。時間が経てばそれだけ集まる人も増え、誰かに目撃される危険も高まる。せめて一目だけでも、そんな後ろ髪を引かれる思いを振り切って彼はその場を後にした。
そのまま休むことなく歩を進め、バードンへと戻ってきたのは翌日の昼過ぎだった。玄関の扉の前に立ちドアノブを捻ると、抵抗なく回り施錠がされていないことを伝える。そういえば出掛ける時に訪ねてきた友人を、部屋に一人残していったことをニーノはこの時になってようやく思い出した。だから、扉を開けて部屋の中に入り、勝手知ったる家の中に蹲っている見慣れないその人影を見て、言い様のない違和感のようなものを覚えて思わず眉をひそめたのだろう。まだ居たのかとか、何も見てないのかとか、ずっとその体勢で居たのかとか、思うところは次々に浮かんでくる。しかしそれよりも誰かが入ってきたことは分かっているだろうに身動き一つしない様子が気にかかり、気付けば彼は側に寄って呼吸音を確かめていた。聞こえてくる規則的な音に安堵しつつ、そうしたことに敏感になってしまっている自分に対して溜息がこぼれ落ちた。これからのことを考えるだけの余裕はまだなかったが、それでも帰ってきたからには報告をしなければならない。携帯を取り出したところで
が視界に入り一瞬だけ手を止めたが、指はそのままいつもの番号を呼び出して繋がった先の相手へと報告をする。彼女に電話の内容を聞かれているかもしれないことは承知の上だった。聞いていようと聞いていまいと、そして彼女が部屋の中を見ていようと見ていまいと、いずれにしてもこれまで通りを続けることはもうできないのだから。そう、思っていたのに――
「おかえりなさい、ニーノ」
顔を上げた
から真っ直ぐに顔を見て向けられた言葉は彼の中にすとんと落ちてきて、入念に閉ざしていた感情の蓋をいとも容易く開け放ってしまった。その言葉を彼に言ってくれる存在は、もうこの世界のどこを探しても居ないはずだったから。嬉しさでも哀しさでもない、込み上げてくるこの感情を何と表せば良いのかニーノ自身にも分からなかった。
「……あぁ、ただいま」
「ひっどい顔してる」
「お前も人のこと言えないだろ」
「そうだね。私もニーノと同じような顔してるんだろうね」
伸ばされた手を拒めなかったのは、彼女が置き去りにされた子どものような顔をしていたからだろう。そして彼女が言うように彼もきっと彼女と同じような顔をしていたから、詰められた距離と触れてきた温もりを突き放すこともまた、彼にはできなかった。これまで適度に保たれていたはずの二人の関係に、物理的な距離が近付いたその分だけ彼女は踏み込んでくる。ニーノが思っていたよりもずっと、
は彼の本質的な部分をよく理解していた。遠慮なく彼の中へと入ってきて、その上で、この手が必要ではないかと問うてくる。それは今のニーノにとって、ひどく魅力的な提案だった。
「俺が話すと思うのか」
「今のあなたなら、話してくれると思ってる。だって昨日私を迎えた時から知られてもいいって考えてたでしょ」
「よく見てるんだな」
「さっきニーノの顔を見るまでは何も見えてなかった」
降参だと思った。と同時に、胸元の彼女が顔を上げようとする気配を察して、思わず抑え込むようにして頭を抱え込んでいた。今の自分がどんな顔をしているか分からないが、とても見せられたものではないということだけは確かだった。そして一度手を伸ばして触れてしまえば、それは途端に手放し難いものへと姿を変えていた。
「聞いたら、知らなかったことにはもうできない」
既に答えは出ている。であればこれ以上の言葉は不要だが、彼女自身が望んだとは言えこれから巻き込んでしまうことへの罪悪感が彼に言葉を重ねさせていた。罪悪感はあっても彼の中での選択はとうに成されており、それはこの行為が誠意から来るものではないことを示している。故にこれは、単に彼が全てを語る覚悟を決めるまでの引き延ばしにしか過ぎない。
「それに――」
「もういいよ、私は大丈夫だから」
それを見抜いてのことか、永遠に続くかと思われたやり取りに終止符を打ったのはやはり彼女の言葉だった。「全部話して」という言葉に釣られるように、彼は回した腕に力を込める。そしてこの20年間、ついぞ口にしたことなかった事実をニーノは初めて人に語った。
弱味に漬け込まれたという自覚はある。それでもどうしてか、縋り付いたのは自分ではなくシビルの側のように感じられたのだ。だから彼女が彼に手を差し出したのは、彼のためではないのだろう。それは恐らく他ならぬ彼女自身のため。であればこれは利害の一致によって成立した共犯関係でしかなく、この関係の間にそれ以上の何かは無用だった。その上で、彼は思う。この手を放すことはもうできないと。
2018/01/21