知らないふりばかり上手くなっていく
鞄の中で振動している物の正体は分かっていた。執拗に主張を繰り返すそれは、誰かからの着信がを伝えている。最初は無視をしようかとも思ったが、余りのしつこさに根負けした私が見たのは液晶に並ぶ同じ人物からの度重なる着信履歴だった。出来ることなら見なかったことにしたい。それが私の本音だった。ただし、それを実行に移した場合、この相手は私の命を保証してくれないということも明らかだった。これだけの着信を無視したのだから、既に相当危うい立場にあることは間違いない。丁度良く、掌の中で着信を知らせるそれは最後通牒のように思えて、私はつい反射的に通話ボタンを押していた。
「……もしもし」
「今どこにいる」
「ストーリーブリッジの前、かな」
「ふん、オーストラリアか。なぜ電話に出なかった」
「仕事してたから出れるわけないでしょ。それで何の用かしら、ジン」
一方的に現在地と電話に出れなかった理由を聞かれた後、こちらからの問い掛けには無言しか返ってこない。これだけ何度も着信があったということは、よっぽどのことがあったのだということは容易に想像が付く。しかし、それが私にどう関係しているのかが分からない。先日、依頼された仕事は問題なく処理したはずだ。そこに何か落ち度があったということなのか。相手が沈黙してるのを良いことに考えを巡らせていた私の耳に、それは唐突に入ってきた。
「シェリーが逃げた」
「そう。研究を途中で止めてまでの監禁も無意味だったわけね」
名前を聞いて一人の少女を思い浮かべる。彼女の灰色の瞳はいつも冷めた色をしており、周囲の全てを拒絶していた。関わり辛さはあったが、彼女の持つ才能は私から見ても稀有だったことは確かだ。
「関与してる可能性のある人間を全員尋問にかける。テメェもだ」
「は、ちょっと待ってよ。なんで私が?」
「アイツの監視をしてただろ」
「いつの話よ、それ。シェリーがここ最近どこに居たのかさえ知らないわ。そんなんで疑われてちゃ良い迷惑よ。それに私は今オーストラリアに居るの、手引きなんて不可能でしょ」
「テメェがあの女に同情して肩入れしてたのは知ってる。情にでも絆されたか」
「いや、だから、聞いてる? 聞いてないわね?」
「迎えを行かせる。逃げるなよ」
とにかく一方的に物事を進める電話の相手は、告げられた事実に私が反論するよりも早く、今にも通話を切りそうだった。そもそも、と言い掛けたところでトントンと肩を叩かれたと思うと、するりと私の掌から携帯はなくなっていた。
「ジン。パスティスは無関係よ」
振り返ると、後ろには私の携帯を持ったベルモットが居た。元よりこのあと待ち合わせをしていたので彼女が今ここに居ることはさほど驚くようなことではないが、それにしても早過ぎる。彼女には今日この場所で表の仕事があることは伝えてあったので、もしかしたら少し早くに来て先程までの私の仕事振りを見ていたのかもしれない。だとすれば多少の気恥ずかしさは拭えない。あれは、あまり組織の人間に見せたい姿ではない。らしくないということも含めて、そこでは恐らく本来の私というものが僅かに透けてしまっているであろうから。ベルモットがいつから私の姿を捉えていたのか、彼女をじっと観察しながらそのことを思案している内に通話は終わったらしく、耳から携帯を離したベルモットが私の方を向いた。
「一先ず疑いは晴れたわよ。でも、なるべく早急にあちらに顔を出してもらうのが交換条件」
「疑いが晴れただけでも十分。組織の尋問なんて絶対に受けたくないもの。ありがとうベルモット、助かった」
「大したことはしてないわ。私の仕事の手伝いとあなた自身の仕事の都合で、5日前からこちらに来ている事実を言っただけ」
「私がその事実を言ってもジンは聞き入れなかったでしょうけどね」
それに対してはベルモットも否定せず、肩を竦めてみせただけだった。些細な動作の一つ一つが様になるので、彼女を見ていれば飽きという感覚とは無縁でいられるのではないだろうか。シャロン・ヴィンヤードのファンというほどではなかったが、彼女の演技は昔から好きだったような気がする。だからと言って、シャロンとベルモットが同一人物だったと知って驚きはしたもののそれ以外の感情は特に浮かんではこなかった。著名人というものが一般に見える顔とは別の顔を持っていることなど、珍しいことでも何でもない。そんな人間はこれまでだっていくらでも見てきていた。
「それで、どうしてベルモットがここに?」
「あら心外ね。このあと、あなたと待ち合わせをしていたと思うのだけど」
「待ち合わせ場所はここじゃないし、時間までまだ1時間もある。いつから見てたの」
「なかなかの質疑応答振りだったわよ」
「聞いても面白くもないでしょうに、よくやるわ」
「それなりに有意義な時間だったわ」
「あ、そ」
正直、ベルモットの益になる情報は何もなく、また組織にとっても価値あるものは一つもなかったと思う。彼女が聞いて面白いわけがないのだが、そう言うのであればこれ以上の追求は不要だろう。あちらが何も言ってこないのであれば、こちらとしても好んで藪を突きたいとも思わない。私が歩き始めると、ベルモットも自然とそれに倣うように隣を歩き始めた。私は人に合わせて歩くということが得意ではないため誰かと歩調を合わせるということができないのだが、足のコンパスが違うためベルモットと歩く時にはそのことをあまり意識せずに済む。それは恐らく良いことなのだろう。
「シェリーのこと気になる?」
「どうやって逃げ出したのかは気になるわよ。でもそれだけ」
「意外ね、あなたはもっと彼女に入れ込んでるかと思ってたのに。目を掛けてたじゃない」
「研究者として彼女のしてることに興味があっただけよ。彼女個人に対しては別に」
「あなたにその気があるなら、彼女の研究を引き継ぐこともできるわよ?」
「冗談。分野が違い過ぎて無理よ」
「そういうことにしておきたいなら、それでいいわ」
その言葉に背筋がひやりとした。暗に彼女は、私がそちらにも詳しいことを知っていると言うことを仄めかしている。それは私が組織に隠している経歴であり、本来の私のものだ。あの頃はまだこんなにも組織に長く居ることになるとは思っておらず、少し気が緩んでいた部分もあった。だから、ほんの僅かではあるが一度だけシェリーの研究に手を貸したことがあった。ベルモットがそのことを言っているのであれば問題はないが、今のままではそれを判別することは不可能だろう。厄介なことになった。そう思いながらも顔には出さずに足を進めることにだけ私は意識を集中する。この歩みを止めることができるのはいつになるのか、まだ分からない。
2016/06/11