ページ一枚捲った向こう側
シンプルなことが好きで、面倒なことは嫌い。だから、猫を拾った。そのはずだったのに、今や目まぐるしい変化と状況が否応なしに真昼に降り掛かっていた。拾った猫が吸血鬼の真祖で、存在しないはずの八番目が現れて、幼馴染だと思っていた相手が吸血鬼で。まだ15歳でしかない真昼にとっては状況に着いていくだけで精一杯だった。そんな中で、学校にはきちんと毎日通っていたことは評価されるべき点であると言える。だから、真昼がすっかり忘れてそのことに気付くのが遅くなったのも当然と言えば当然のことだった。
彼は叔父のマンションにて実質ほとんど一人暮らしをしている。今はそこに居候ニートのクロが増えて二人暮らしだ。しかし一人暮らしだった頃から真昼は夜ご飯は必ず二人分作っていた。それは隣人が食費を収めてまでも真昼の料理を所望していたからだった。外出している時以外は必ず週の半分は夕食を食べに来ていた隣人から、この1週間は一切音沙汰がない。隣人と言えど、叔父が「留守の間は真昼を頼む」とお願いするほどの相手であり、知らない相手ではない。こんなに連絡がないなんて何かあったのか。そんな風に考えるよりも、シンプルに考えて隣家を訪ねた方が早い。真昼ならではの考えで結論に至ったのならば、それを行動に起こすのも勿論早かった。突然立ち上がり玄関へと向かった真昼に驚かされたのはクロだった。既に夕飯も終わり、今日はこれから外出する予定もなかったはずだったのだから。
「出掛けるのか? 今ちょうど良いところだからオレとしてはこのまま続きをやりたいぞ」
「クロはついてこなくていいよ、ちょっと隣に行くだけだから。そのくらいの距離なら大丈夫だろ」
「……隣ってどっちの隣だ」
「クロも何回か会ったことあるだろ、右隣の
さん。何か問題あるのか?」
「今日は満月が近いから、止めておいた方がいい、と思う」
「何だよそれ」
意味が分からないと首を傾げる真昼に対してクロはいつものように「あーめんどくせー」と言うだけで詳しい説明をするつもりはないようだった。ただ、先ほどまで続きをやりたがっていたゲームをセーブして中断し、クロは真昼の後を追うように玄関まで出てくると「一緒に行く」と短く告げた。そんなクロに今度は真昼の方が驚かされたのだが、聞いたところで何も話さないだろうということは既に分かっていたので、敢えて理由を尋ねることはせず、そのまま外へと出る。目的地はマンションの隣の部屋なので一分も掛からず、二人は扉の前に立っていた。
「ここに住んでるやつ、前から真昼の知り合いか」
「うん。最近は俺が飯作ることのが多いけど、結構小さい頃からお世話になってる人だ」
「なら、オレの予想が当たってるとめんどくせーことになる。多分」
「だからさっきからなんなんだよ。思わせぶりなこと言ってないで、ちゃんと説明しろ!」
「見たほうがはえー」
あくまで説明する気のないクロに求めることは諦めて、仕方なく真昼は促されるままにインターフォンを押す。ピンポーンと廊下に響く音はこれまでに幾度となく聞いてきたものと全く同じだった。
「
さんいますかー? 真昼です」
「……出ないな。よし留守だ、帰ろう」
「おいちょっと待て、決めつけるには早いだろ! もしかしたら室内で倒れて助けも呼べないのかもしれないし!」
「いや、いくら何でもそれは考え過ぎだと思うんだが……」
「あ、鍵かかってないな。
さーん、入りますよー」
「オレは止めたからな、もう知らねー」
幸か不幸か、真昼が何気なく捻ってみたドアノブは抵抗なく最後まで動いてしまい、ドアが開いてしまった。そうなれば最早真昼を止めるものは何もなく、クロの制止も聞かずに勝手知ったる様子で真昼は部屋へと入っていく。諦めきったクロはその後にただついていくしかなかった。
室内は暗く、部屋数が多いというわけでもないため、廊下を歩くと直ぐにリビングを隔てるドアへと辿り着く。そのドアを開けた先に、それは居た。カーテンは開け放たれ、遮るものなく窓から降り注ぐ月光の下、灰白色の毛並みをした狼が一匹。物音に反応したそれはぴくりと耳を震わせると伏せていた体躯を起こし、音を立てた主――真昼の方を見た。
「――っ間一髪か」
クロに腕を噛まれたこと、そのクロが襲い掛かってきた狼を止めていること、それら全て真昼には同時に起きたかのように見えた。それほどまでに狼の動きは速かった。攻撃を止められた狼は一度距離を取り、今度は目標をクロへと定めて機を伺っている。気を抜けば一瞬のうちに噛み付かれることは明らかだった。
「真昼、とりあえず下がれ。あとできたら家に戻れ」
「クロはどうすんだよ。ていうか、あれって狼か……?」
「見たまんまならそうだろうな」
「良く分かんないけど、あれ
さんなんだろ。なら俺も残る」
「話が通じる相手じゃねぇぞ、理性がぶっ飛んでる」
「それでも、放っておけない」
頑なな真昼はこうなったら意地でも動かないだろう。狼の動きは速く、真昼を守りながら何とかできるような相手でないことをクロは先程の攻防で理解していた。あれはこの部屋に来ることになった時から危惧していたからこそ、対応できたに過ぎない。当たらないで欲しいと思っていた予想が当たってしまっただけだ。そして恐らく真昼のことだから「傷つけるな」とでも言うのだろう。どうしたものかとクロが再び狼を注視すると、それは先程よりも様子が少し変わっていた。今にも襲い掛かってきそうであった敵意は身を潜め、瞳はクロと真昼を観察するように見据えている。その様子に何か思い当たる節でもあったのか、クロはやや大きめの、強調するような声で「真昼」と後ろに居る相手の名前を呼んだ。
「なんだよ、何言われても俺は動かないからな!」
「それは分かった。もう一度さっきの、隣人のやつの名前呼んでみろ」
「
さん?」
「そうそれ。もう一回呼べ」
ぴくりと動いた耳は、今度こそ単なる物音ではなく、自分の名を呼ぶ声に反応している。理性のない獣はもうそこには居なかった。その証拠に、やけに人間染みた動作で狼は溜息を吐いたかと思うと、瞬きの内に人間へと姿を変えた。狼の代わりに現れたその人物は視線をあちこちにさ迷わせながら、頬をかいてとても気まずそうにしている。
「あーと……こんばんは、真昼くん」
「こんばんは、
さん。って挨拶とかしてる場合じゃないでしょ! さっきの狼、あれ何なんですか!?」
「うーん、何も見なかったことにして部屋に戻ってくれる気はないかな? そしたら私も今まで通り君の部屋にご飯を食べに行ける」
「それはできません。ここ最近色んな事があったんで、たとえ
さんから何を聞いたとしても驚かないと思います。だから、ご飯はこれまで通り作ります」
「え、ほんと? それは嬉しい。なら説明しようかな、真昼くん気になってるもんね」
真昼の発言一つでころりと態度を変えると、あっけらかんと言い放ったその人はいそいそとカーテンを閉めると、部屋の電気をつけた。明るいところでよくよく見ると、その頭には先程と同じ獣の耳が生えており、時折ぴくりと動いている。本人はそのことを気にしている様子もないため、外野としては指摘しにくいところだった。
「さて。それじゃあ私から話す前に、一つだけ確認して良い?」
「俺に答えられることなら」
「簡単な質問だよ。君の隣に居るそれは、吸血鬼かな?」
「はい。こいつはクロって言って、吸血鬼の――」
「あ、細かい話はいいよ。詳しく知って首を突っ込みたくないから。ここ最近やけに血の匂いがすると思ってたんだよね、うん、納得」
先々週かな? 家に居たら、真昼くん家の窓が突然割れる音がしてびっくりしたんだよね。その時もかなり濃い血の匂いがしててさ。吸血鬼とはお近付きになりたくないなーってのもあって、あと体の調子も良くなかったし、丁度良かったから引きこもっちゃった。そんなことを実に軽い調子でぺらぺらと
は話す。つい数分前に「何も見なかったことにして」などと言っていたのと同一人物には最早見えなかった。
「それであの……
さんも、吸血鬼なんですか?」
「まっさかー。私の主食はご飯だよ、白米最高」
「え、でもさっき狼、動物になってましたよね?」
「月の光でね。吸血鬼が動物化するのは太陽の光を浴びた時でしょ? 私はねー」
「狼人間」
が人間の姿になってからずっと黙っていたクロが不意に割り込んできた。ぴたりと
も真昼も口を閉ざしてしまったため、部屋の中は一瞬無音となる。
とクロは無言で視線を交わしているが、互いに声を掛けようとはしなかった。それは恐らく相手の出方を推し量っている時間だったのだろう。実際には一分にも満たないが三分にも感じられるその沈黙を先に破ったのは
だった。
「大正解。良く分かったね」
「前に似たようなのに会ったことがあるだけだ」
「そっか、そっか。さっきも言ったけど、私は別に他のとこの面倒事に首突っ込む趣味はないから、これ以上は聞かないよ。ね、吸血鬼の真祖の長男くん?」
「食えねーヤツ」
「やだなぁもう襲ったりしないからそんな警戒しないでよ」
ちりんと首元の鈴を鳴らすと、クロはこれ以上話すことはないといったように顔を背けてしまった。そんなクロの反応に対して、仕方ないなぁというように
は肩を竦めてみせた。クロと
のやりとりについていけず、二人の間で戸惑うように視線を動かしている真昼の頭を
がぽんぽんと軽く叩くと、釣られるように視線を上げた真昼と
の目が合う。そのまま頭をぽんぽんしながら
が笑ってみせると、強張っていた真昼の体からようやく力が抜けた。ようやく真昼の緊張が解けたことで、表には出さないが
の方も安心することができたのだろう。切り替えるようにパンと手を叩き、「じゃあ改めて自己紹介するね」と言うと、恭しく真昼に対して頭を下げてみせた。
「
、四分の一だけど一応狼人間です。満月が近付くと徐々に狼になる以外は至って普通の人間です。好きなものは真昼くんの手料理。そんなわけで、これからも宜しくね、真昼くん」
2016/07/08