ワイシャツを固く握り締めた
その日は珍しく、いつもであれば夕食を食べると直ぐに帰る
が長居をしていた。帰ると言っても彼女の家は隣の部屋なので、真昼の家を出てから彼女の家までは1分も掛からない。多少遅くなろうとも帰るのに支障はなかった。それでも彼女が長居をしないのは翌日も朝から起きなくてはならず、夕食の後にはお風呂に入ったり翌日の準備をしたりと規則正しい生活が求められる学生である真昼を思ってのことだった。しかし今日は土曜日、真昼とて普通の男子高校生なので休みの日くらいは多少の夜更かしをすることもある。
もそれが分かっているから、いつもより長居をしているのだろう。
「真昼くん、お風呂入ってきていいよ? 洗い物くらいなら私がするから」
そうでもなければ
が自分からこんなことを言うはずがない。夕食を食べには来るが、それ以外の点でここ数年は
の方から真昼へと干渉することはこれまでほとんどなかった。恐らくそこが
なりに一線を引いていた部分であったのだと真昼が気付いたのは、彼女が自分とは異なる種族であると知った最近になってからだ。一方の
は「開き直った」と自ら公言し、むしろこれまでのただの隣人としてのやや遠いとも思えた距離を積極的に取っ払ってきていた。
「
さんだってまだ仕事あるんじゃないですか?」
「今日はもう一段落付いてるから時間気にする必要はないし、私は大丈夫だよ。もちろん、真昼くんの迷惑じゃなければ、だけど」
「迷惑なわけないじゃないですか! むしろ助かります」
「なら後片付けはおねえさんに任せて君はお風呂に入ること。さ、早くいってらっしゃいな」
「じゃあ、お言葉に甘えてお願いします」
しっかりと頭を一度下げてからリビングから立ち去る真昼に対してひらひらと手を振りながら見送ると、腕まくりをして
は流しに立つ。ややもすれば鼻唄でも歌い出しそうなほどに上機嫌で食器に洗剤をつけていく彼女をクロはカウンター越しに怪訝そうな顔で眺めていた。それに気付かないわけもなく、視線は手元の食器類に落としたまま
は声だけを投げ掛ける。
「なにか言いたいことがあるみたいだけど?」
「……おまえ、いつから居るんだ」
「んー真昼くんと徹さんが引っ越してくるよりも前から」
「あいつのこと、どうするつもりだよ」
「別にどうもしないよ。今はね、これまで真昼くんに貰ってたものを返してるだけ。言うなれば清算期間かな。まぁ大したことはできないし、自己満足に過ぎないけど」
会話はそこで一旦途切れ、部屋には洗剤を水で注ぐ音だけが響く。暫くするとその音も止み、タオルで手を拭きながらキッチンから出てきた
は定位置となりつつあるクロの隣ではなく、先程まで食事をしていたダイニングテーブルの椅子へと腰掛けた。そして一つずつ彼女自身もそれを声にすることで確認するようにしながら、言葉を紡いでいった。
「置いてかれる辛さは私にも分かるから、ここに来た頃の真昼くんはちょっと放っておけなかったんだよね。だから、私にしては踏み込み過ぎた。そこは自覚してるよ、後悔はしてないけど」
「踏み込んでるのは、今、だろ」
「まさか、今は本当に特別。あなたたちが居るからね。これまでの私からしてみれば今までも十分過ぎるくらい近かったんだよ?」
「……真昼に同情したのか?」
「同情とは違ったんじゃないかな。言ったでしょ、放っておけなかったの」
そこまで言うと、何かを思い出すように
は目を閉じた。真昼と出会った頃、それは長く生きる彼女からしてみればつい昨日のことのように感じられる。だからこそ、何も特別なことがあったわけではなく、ただただ過ぎゆく日々の一場面の出来事に過ぎなかったはずのそれを思い出すことはそれほど難しいことではなかった。
長く空き部屋だった隣に人が越してきた。ここでは新しい場所に住み着く際には隣近所に挨拶をして回るという習慣があるらしい。"あるらしい"というのは彼女自身は一度もそれをしたことがないことや、これまで住処を両手で余るほどには変えてきたが後から来た隣人から挨拶をされたことが片手で余る程しかないという経験則によるものである。ただ、概してわざわざその挨拶をしに来る隣人には善人が多かった。
「どうも、隣に越してきました城田徹です。こっちは甥っ子の真昼」
「し、城田真昼です、よろしくおねがいします」
だから、きっとこの隣人たちも善人なのだろう。彼らに対する
の最初の印象はそれだけだった。マンションの通路ですれ違う度に挨拶をされるものだから、その予測は1週間も掛からない内に確信へと変わった。"人"に比べると彼女の重ねる時は随分と緩やかに過ぎていく。一所で長く暮らすことのできない
にとって隣人との関係は円滑であるに越したことはないが、深い関わりは不要だった。だというのに、避けることもせずに"おとなりさん"という希薄な関係を続けている。その理由を彼女自身がはっきりと理解したのは、学校から帰ってきた彼とマンションの入口でばったりと出くわした日のことだった。
は基本的に滅多なことでは外出をしない。それは"人"ではない彼女が抱える事情による部分もあるが、単純に出掛けたくないからという理由の方が大きい。食料から洋服まで、ありとあらゆるものが今の世の中ではワンクリックで買えてしまう。仕事も在宅で済むのだから、そもそも出掛ける必要性がなかったのだ。けれどもその日はたまたま出掛けたい気分で、近くのパン屋で天然酵母の美味しい食パンを一斤買って、彼女は久々の外出にそれなりの満足感を抱いて戻ってきたところだった。珍しいものを見たということを隠しもしない表情を浮かべている真昼を前にして無言で通りすぎるわけにもいかず、はて何と声をかけたものか、と悩んだのは一瞬のこと。
「えーと、おかえりなさい? 真昼くん」
ランドセルを背負った学校帰りと思われる真昼を見て
の口からは自然とその言葉が出ていた。その大きな瞳を更に大きく見開いて驚きを露にしている彼を前にして、言葉選びを間違えたかな?と
が思っていると
「……た、ただいま」
遠慮がちに、けれどもしっかりと彼女の目を見て彼はそう返してきた。むず痒いような、面映ゆいような、それでいて失くしてしまっていた大切なものを見つけた時のような、そんな声だった。隣の部屋に住んでいるのだからどうせ部屋の前までは一緒である、上まで一緒に戻るのは自然の流れであり「帰ろっか」という
の声に彼は首を縦に振って答えた。
機会がなかっただけで
は元来お喋りが嫌いなわけではない。そして他者が嫌いなわけでもないので、エレベーターという密室の中で
はそうすることが当たり前であるというように真昼に声を掛けた。いつもこのくらいに帰ってくるのかとか、今日は学校では何をしたのかとか、聞いたのはそんな他愛のないことばかりだった。彼女なりに、あまり親しいとは言えない相手と二人っきりになっている彼に気を遣ってのことだった。彼女の言葉に対してぽつりぽつりと返答をするその様子は見る者が見れば、久々だからどんな風に伝えたら良いのか勝手が分からないのだと読み取れたのかもしれないが、彼女は彼についてまだそこまで深くは知らない。ただ、会話を嫌がっているというわけではないということは理解できたので、エレベーターに乗っている決して長くはないその間、彼女は会話を止めることはしなかった。
程なくして上昇を止めたエレベーターを降りてしまえば、部屋はもうすぐそこである。後は「それじゃあ」と言って隣り合ったそれぞれの部屋に帰るだけ。だというのに
がそうできなかったのは、鍵を取り出してドアを開けた瞬間の真昼の顔を見てしまったからだ。気付いた時には、暗く冷え切った部屋に今にも一人で入って行ってしまいそうな彼の腕を掴んでいた。
「真昼くん! 甘いものは好きかな?」
「嫌いじゃないけど、どうして……ですか?」
「夕飯までまだ時間あるでしょ? パウンドケーキ、おやつ代わりにどうかなって」
「でも……」
「徹さんの分もあるから、帰って来たら渡してくれる?」
「……わかった」
「よかったー。美味しいって聞いて買ったんだけど、一人じゃ食べきれなくて困ってたの」
「どうぞ」という言葉は声に出さなくても、ドアを開いてみせることで伝わっていた。だからと言って、すんなりと上がり込めるほど
と真昼の関係はできていないことは彼女もよく分かっているからもう一押し、彼の背中を押す。
「せっかくだから真昼くんのこともっとよく知りたいな。そしたらこれからも徹さんが帰るまでなら話し相手くらいにはなれるでしょ?」
伸びてきた小さな手が、遠慮がちに、けれどもしっかりと彼女のシャツの裾を握り締めるのを見て、安堵感や達成感のようなものから思わず笑みがこぼれた。それからただの"おとなりさん"が「真昼くん」と「
さんに」なって、徹さんが出張の時には頼まれて
の家で預かるのが当然ような流れになったのはいつ頃だったか。彼が一人でも留守番が出来るようになった頃には、気付けば料理を覚えた真昼に胃袋を掴まれ、彼の家で晩御飯を一緒に食べるようになった。当たり前に誰かが側に居て欲しいそんな時に、近付き過ぎず、ほんの少しだけ寄り添っていてくれた。真昼にとっての
とは、きっとそんな存在だ。一人になって故郷を離れてから誰かと同じ時間を過ごすということをほとんどしなくなった
にとっても、それは久方振りに過ごす穏やかな時間であり、小さな少年は忘れかけていたものを彼女に思い出させてくれた。家族ではないし、友達でもない。一番近い他人というのが相応しい、いつしかそんな関係になっていた。
「――だとしても、ちょっと長く居すぎたなぁとは思ってる。真昼くんを取り巻く状況が落ち着いたら、その時が頃合いかなって」
「関わりたくないんじゃなかったのかよ」
「今も関わりたくはないよ。だから、あなたたちのことに基本的には首を突っ込むつもりはない。そこは安心して」
「別に……オレはこれ以上面倒事が増えてほしくねーだけだ」
「そんなこと言ってると、困ってるときに手、貸さないよ?」
「いらねぇ」
クロが心底必要ないと言いたげな声で発したその言葉は、嘘ではないのだろう。
が関わりたくないと思っているように、クロもまた無闇に彼らの事情に巻き込みたいとは思っていない。イヴである真昼を否応なしに巻き込んでしまっているから、尚更その気持ちが強まっているのかもしれない。それでも、どうにもならなくなった時に彼が声を掛けるのは恐らく彼女なのだろう。他の誰かよりはまだ「マシ」だから、そんな理由で呼べてしまう。同じように"人"ではない
だからこそ、それが理由として十分なことを知っていて「仕方ないなぁ」の一言で動けてしまう。例え最後には頼ってしまうとしても、できる限り遠ざけておくためにはそんなものは不要なのだとはっきりと言い切っておかねばならなかった。即答に近い形の返答に込められた意味を
はきちんと受け止めつつ、素直じゃないなぁという言葉と共に飲み込んだ。
「関わるつもりはないけど、無関心なわけじゃないから。気に掛けてはいるからね?」
「だから、そーいうのが余計だって言ってんだ。さっさと出てけよ」
「今出ていくと厄介事が嫌で逃げ出したみたいでしょ? C3の人達にもねちねち言われそうだしそれは嫌」
「子どもか……」
「ちがいますー。だって、どうせなら見届けておきたいじゃない?」
何を、とは言わない。誰を、とも言わない。それは言わなくても伝わると思っているからだ。あの日、助けを求める術も分からず声に出さず寂しいと訴えていた少年がどうやって向き合っていくのか。その成長を見てみたいと
は思ってしまっている。それこそが他人を名乗るには踏み込み過ぎている何よりの証だと気付いていて、気付かない振りをする。遠くない未来に居なくなってしまう存在は、きっと他人の方がいいから。
2018/04/22