透明な世界
人差し指でそれを押せば、インターホンの音が廊下に響き渡った。部屋の中から、けだるそうな足音がこちらへと向かってきているのが聞こえる。きっと今日も出迎えは彼なのだろう。そんな予想を立てていると鍵を外す音がして目の前の扉が開かれ、中から顔を出した相手に私はひらひらと手を振ってみせた。
「クロくんこんばんわー」
「あー入っていいってよ」
「じゃあお邪魔しまーす」
慣れたもので靴を脱いで上がると、真っ先にリビングへと私は向かう。何度も来ているので勝手知ったる何とやら、というやつである。リビングに行くということは当然その直ぐ横に設置されてあるキッチンを通るということであり、目当ての人物はそこに居た。
「あ、真昼くんこんばんわー。お邪魔してます」
「晩御飯ならまだできてないですよ」
「私の分あるの? さっすが真昼くんー」
「そりゃメール来たんだからちゃんと作りますって。食費まで貰ってるし」
「いやーそれでもただのお隣さんのためにご飯作ってくれる真昼くんはできた子だと思うよ。おねーさんもそんな君だからこそ、胃袋がっちり掴まれっちゃたわけで」
「もうちょっと掛かるんで適当に座ってて下さい」
「はいはーい。運ぶくらいはするからできたら言ってね」
そうして今夜も美味しいご飯を作ってくれるであろう真昼くんに感謝しつつ、邪魔にならないように私はキッチンを後にする。リビングのテレビの前の定位置は最近ではクロくんが陣取っているため、仕方なくその横へと私は座る。いつも通り、真昼くんから声が掛かるまではテレビを見たり、隣の彼がやっているゲームを覗き込んだりしながら時間を潰すことになるだろう。ちらりと横を覗き見てみると、全くこちらに興味がないというように手元のゲームに集中している。これはこれで何だか納得がいかない気がする。私の方が彼よりもずっと早くこの家に出入りしているというのに、あっという間にその地位を奪っていかれたようなそんな感じだった。元々ここは真昼くんの家であって、しがないお隣さんに過ぎない私が自分の権利を主張するというのもおかしな話ではあるのだけれども、定位置を取られてむざむざと引き下がるのも今更ながらに悔しいような気がしてきた。だから何のことはない、ただの思い付きで私はクロくんにケチを付けることにした。
「ねぇ、クロくん」
「なんだよ?」
「今日猫と遊んできたりしてないよね?」
「……は?」
「いやね、私が猫アレルギーあるということは初めて会った時にも話したと思うんだけど、こう何か君の近くに居るとそれに似たような症状があるんだよね。で、猫と仲良しなのかなーと」
「いや、別にそーゆーのはねーけど。オレは外より家の方が好きだし」
「そうなの? じゃあ私に内緒でこの家で猫飼ってるってこともないよね?」
「あー……真昼がいねーって言ってんだろ? ならいねーって」
「だよねぇ。君がここに住むようになってから、猫の気配を感じるようになったとか、気のせいだよねーうん」
ぴくりと彼の手が反応したことに私は敢えて気付かないふりをした。隠したいことがあるのなら、この平穏な時間を守りたいのならば、彼らはもっと上手くやるということを覚える必要がある。こんな隣人一人誤魔化せないようでは、先行きが不安だ。察するに、普段は猫の方で通しているのだろうけれども、私のように猫アレルギーを騙る人間が現れたらどうするつもりなのか。真昼くんは今この状況に対応していくのに一生懸命で、それ以外の可能性について考えている余裕はないのだろう。そしてクロくんはその可能性について思い当っていても、自分から何かをするつもりはない。結果として、彼らの対応は行き当たりばったりのものとなっている。それを教えてしまうのは容易いけれども、それには代償が必要となる。だから、私は彼らにそれを指摘しない。
「……はーやだやだ、面倒事はお断りなのに」
「そりゃこっちの台詞だっつーの。あー向き合えねー」
「む。これだけは言っておくけど、先に居たの私だからね。クロくんが後から来たんだからね」
「めんどくせーことにならねぇなら正直どっちでもいい」
「そこを曖昧にして欲しくはない、と言いたいけどまぁ今はそれでいいや。私も面倒だし。それにしても、本当に君は怠惰だ」
「おまえにだけは言われたくねー」
いつまでも続けることは叶わない、それは誰よりも私自身が良く知っている。ある特定の期間になると外を出歩くことが出来ない私の生活は限られているから、いつかはきっと気付く人が現れるだろう。ただ、それまではこのふわふわとした生活を続けていたいと思うから、今日も私は気付かぬふりをする。真昼くんの作るご飯は美味しい、私が口を噤むための自分への言い訳はそれで十分だった。
拍手御礼 [title by ligament 物語のような現実]