その断絶を飛び越える
霧切響子という存在は、俺にとって忘れることの出来ない、それこそ将来いつか認知症を患って様々なことを忘れてしまうような記憶障害に陥ることになったとしても、それだけは決して忘れることはない。そんな大事な名前だった。その背景にあるのが初恋の人などという甘酸っぱい言葉で片付けられるような単純な事情であれば、年齢を数えるのに両手で足りる頃には忘れ去ってしまっていただろう。ならばどんな事情があるというのか。それを俺の口から語るのは、申し訳ないがまだ整理が付いていないので遠慮させて欲しい。ただ、甘酸っぱいとは程遠い、噎せ返るような血の臭いを纏った気分の悪くなる話であることは確かだ。それともう一つだけ確かなことは、俺は彼女という一人の探偵に人生を救われた、ということだ。彼女が現れなければ、俺は今もあの事件を抱えて燻っていたままだっただろう。
そう、霧切響子は――俺の恩人だった。
こんなにも鮮明に記憶している恩人との再会を望まないわけもなく、もう一度会えないものかと俺も淡い期待を抱いていた。それも最初の数年に限った話ではあるが。聞くところによると、霧切の家系は表立って活動をしているわけではないらしい。探偵の仕事は事件の真相を暴くのが目的であるが、その行為が必ずしも俺のように救いになるとは限らない。加害者は勿論、被害者にとってもそんなことは知りたくなかったと言われることも当然ある。見方を変えれば、探偵というものはただそこにある謎を暴き立てるだけの知的強姦者だと述べることすら可能なのだ。物語の中では探偵が現れて事件を解決して一件落着、と簡単にいくが現実はそんなに単純にはできていない。つまり、探偵が逆恨みをされることもあるということだ。そんな自衛的な意味合いも当然含んでいると俺は推察しているわけだが、とにかく彼らは表立って動くことを良しとはしていなかった。表に出てこないということは彼女の居場所を知ることも不可能であり、手紙や電話も無理。直接会って再会なんて以ての外だった。数年の内に俺もそれを理解して、彼女に会うことは現状の自分では不可能だと思い、一先ずは諦めたのだった。
前置きが随分と長くなったが俺にとっては大事なことなのでそこは見逃して欲しい。やっとか、と思われそうではあるが本題に入ろう。その日、俺は私立希望ヶ峰学園に入学するために学園内へと足を踏み入れていた。
私立希望ヶ峰学園というのは、あらゆる分野から飛び抜けた才能を持つ人材を集めて、その才能を更に伸ばすという人材育成を目的とした政府公認の学校だ。この学校を卒業する、イコール成功を手にしたも同然、らしい。一般的な入学試験のようなものは行われておらず、学園からスカウトが唯一の入学方法とされている。その条件は、先にも言ったようにその分野において飛び抜けた才能を持つ、超一流であること。それと、現役の高校生であること。この二点だけだ。現役の高校生から、その学年を問わずスカウトされることから、希望ヶ峰学園においては同じ学年であるとは言っても必ずしも同い年であるとは限らない。
とまぁ、そんなことは今更俺なんかが説明しなくても、周知の事実だろう。要はそれだけ希望ヶ峰学園という存在は広く知れ渡っているということだ。何でも海外からの入学している生徒も居るということだから、その実態は俺が知っている以上のものなのだろう。
そんな希望ヶ峰学園に入学するからには、俺にも一応その『飛び抜けた才能』とやらがある、そうだ。曖昧な言い方をするのは、俺自身にはそれが超一流の才能であるという実感がないからだ。間違っても、その才能が何であるかを忘れてしまったとか無自覚の才能とかそういうものではない。生きていく上で必要だと思ったから始めたことであって、好きだからとかそういう理由ではなかった。面白そう、くらいはあったかもしれないが。きっかけは違ったけれど、今は好きだから続けている。俺のしたことで、誰かが笑顔になるのは嬉しいと思っている。嫌々ながら惰性で続けて居るとかではないので、そこは誤解しないで欲しい。
それでも入学を決めたのは、自分の才能が認められたとかよりも、俺がここに入学することで少しでも彼らに恩返しが出来れば、と思った部分が大きい。彼らというのは俺をここまで育ててくれた人達で、一応戸籍上では義理の父親と母親に当たる。でも父母っていうよりかは、祖父母って言った方が良いような年齢だ。だからと言うわけでもないが、俺にとっての彼らは両親というよりも、育ててくれた人達という印象が強い。血が繋がってないからどうこうというわけではなくて、上手くは言えないが何というか……彼らは俺だけの親というわけではないからだ。その辺りの事情は俺の持つ才能とやらにも関わってくる。それについてはまたいずれ話す機会があるだろう、入学を決めたもう一つの理由についてもその時に話すとしよう。
とにかく、俺は超高校級の才能を見込まれてこの学園へとスカウトされ、こうして学園へと赴いたわけだ。が、正直言えば遅刻寸前だった。入学通知には8時に玄関ホール集合と書かれていたが、俺が校門の前に着いたのは7時59分。何とか集合時間には間に合いそうだが、第一印象としては最悪だろう。そんなことを考えながら、ここまで走ってきたことで額に滲んだ汗を袖で拭いつつ、校門をくぐって玄関ホールへと続いているであろう扉を押した。その時、自分の身に何が起きたかは俺も正確には理解してない。ただ、扉を開けて玄関ホールへと足を踏み入れ、頭上の時計が8時丁度を示していることを確認して安堵した瞬間、ぐにゃりと世界が歪んだ。生い立ちの割りには健康優良児であった俺は生まれてこの方、目眩といったものに襲われたことはなく、もちろん貧血で倒れたこともなかったことから全くの未知体験ではあったが、恐らく俺は気を失った――――
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――――そうして目が覚めたら見知らぬ場所で、俺は手足を床に投げ出すようにして壁に寄り掛かって座り込んでいた。そして傍らには、ほぼ全てが平仮名で書かれた稚拙な入学案内が置かれていた。意味が分からない。まず頭に浮かんだのはそれだった、当然の反応と言えるだろう。直前まで玄関ホールに居たはずなのに、気付いたら見覚えのない場所に居る。いや、単純に考えれば、気絶してからの空白の間に誰か人の手によって移動させられたと考えるのが妥当ではあるんだろうけど、それだってよくよく考えればおかしな話だ。わざわざ移動する必要が見当たらない。女子ならばまだしも男子なんてその場に寝かせて置いても問題はないはずだ。それにもしも移動するにしても、保健室なり何なり、突然気絶した病人と思われるような人間を寝かせておくのに相応しい場所があるだろう。仮にも学校なんだから。
そう、俺はここが希望ヶ峰学園の内部であることに関しては疑いを持っていなかった。直前に居た場所が玄関ホールなのだから、ここも当然学園内部だろう。そう思ってのことだった。けど、その考えは直ぐに覆されることになる。
いつまでも座り込んだままで居るわけにもいかないし、と立ち上がったところでふと辺りを見回して目に入ったのは、鉄板で覆われた窓だった。それは見るからに頑丈な作りをしていて、その向こう側にあるであろう景色を垣間見ることなど到底不可能であると思わされる。どうして窓に鉄板が? 異様としか言えないその存在が眼の錯覚であると思いたかったのか、自然と俺の足は窓の方へと向かっていた。鉄板のように見えるけれども、そう見えるだけで別の素材で出来たものかもしれない。自分がそうしたものを良く使うからか、俺はそんなことを考えて試しに鉄板を叩いてみた。響き渡る重厚な音と、手の甲に伝わる確かな鉄の感触。それは否応なく、これが本物の鉄板であることを教えていた。
不可解な気持ちが、募っていく。窓が塞がれていては外部の明かりが入らないから暗く感じていると思っていた廊下も、天井を見ればその照明が業と暗いものにしてあることが分かる。塞がれた窓に、薄暗い廊下。不可解な気持ちは別のものへと変化を遂げようとしていた。それは人間が生得的に持ち合わせている危機管理能力の一部だったのかもしれない。怯え。目覚めてからの情報を統合した結果、俺の中に浮かび上がりつつある推測は、良くない事が起こりつつあるということを示していた。全身に鳥肌が立つ感覚から逃れるために、俺は声を発した。
「ここは、本当に希望ヶ峰学園なのか……?」
「その結論を出すには、まだ早いんじゃないかしら?」
独り言のつもりの言葉に対して返ってきた反応は、俺の直ぐ後ろから発されていた。当然、俺は振り向いた。その声の持ち主が誰であるかを確かめるために。聞き覚えのない声だった、けれど聞いたことはあるような気がした。何処か遠い昔に置き忘れてきてしまったような、そんな感覚すら覚えながら振り向いた先に居たのは、見たこともない女の子だった。女の子という表現では的確ではないかもしれないが、かと言って女性と表現するのもおかしい。つまりそこに居たのは俺と同年代くらいの女子だった。彼女は無言で相対する俺の横を擦りぬけると、先ほどまで俺がしていたように鉄板の構造を確かめる。最もその動作は俺なんかよりもよっぽど手馴れていて、そうしたことを彼女が日常的にこなしているであろうことを伺わせる。納得が行くまで調べた後、何かを考え込むように顎に手を当てる彼女の邪魔をしないように、俺はただじっとその横顔を見ていた。その横顔を知っている気がした。忘れてはいけない何かを忘れているような、そんなもどかしさすら覚える。だからだろう、
「なぁ、俺たち何処かで会ったことないか?」
そんな使い古されたようなことを言ってしまったのは。彼女は怪訝そうに眉を顰めると、脳に記録された情報と眼の前の情報を照らし合わせるかのように俺の顔を正面から見詰めてきた。この薄暗い照明の中では気付かなかったが、彼女の容姿は酷く整っていた。感情を写さない二つの瞳がこちらを見ているということを自覚すると、落ち着かない気持ちになる。その気持ちがまた眠っている記憶を微かに刺激した。あぁ、俺はこの瞳を知っている。かつてこうして同じように彼女に見詰められていたことがあるのだと。それがいつどんな状況であったかは分からないが、それでも俺は彼女と会ったことがあると確信を持つに至った。対する彼女はと言えば、俺の顔から視線を逸らすと溜息を一つ漏らしながら髪をかき上げ、こう零した。
「会っているような気もするけど、分からないわ」
「そっか。覚えてないなら良いんだ、気にしないでくれ」
「私に説明する気はないの?」
「そうしたいのは山々だけど、俺も思い出せないんだ。いつどこで、君と会ったのかが分からない」
「そう……なら仕方ないわね。覚えてないなら話せないもの」
覚えてないなら話せない。俺の言葉に対する答えであるはずなのに、それを言った彼女はどこか無理をしているように見えた。彼女の顔から感情を読み取り難いのは、そう意図して振舞っているからだろう。だから、単に俺がそう思っただけで気のせいなのかもしれないが、それでも直ぐ傍に居る辛そうな人を放っておける訳がなかった。眼が覚めたら持っていたはずの鞄は消えていたが、幸いなことにポケットに入れておいたものまで無くなったわけではないらしい。何気ない動作で手持ちを確かめて、そこから今出来るものを考える。大掛かりなものである必要はない、ただ彼女の気持ちを少しでも和らげたかった。本来ならば笑わせたいと言うところだが、彼女相手にそれは難しい気もしたので高望みはしないでおこうと思う。
「あのさ、手出してくれないか?」
「唐突ね。何のために私がそうしなきゃいけないのか理由を言ってくれないと、その言葉に従うことは出来ないわ」
「そりゃ随分と手厳しいことで。あーいや、警戒するのも分かる、こんな状況だしな。うん、じゃあ見ててくれたら良いよ」
彼女の視線がこちらに向いたことを確認すると、俺は両手を上げて彼女に示す。掌と手の甲。両方を見せることでそこに何もないことを示してみせる。そして次はブレザーの胸ポケットに何もないことを示し、同様にして左と右のポケットにも何もないこと見せていく。彼女は聡い。出会ってからまだほんの僅かではあるが、この短い間にもそれは良く分かった。そんな彼女だからこそ、俺がこれから何をしようとしているのか既に気付いたらしい。その視線はただ眺めているものから、観察するものへと変わっていた。これは何とか見抜いてやろうって感じだな、こっちもそう簡単に見破れてやるつもりはないけど。変に意識をすればそれだけ身体が強張って不自然になる。気持ちを落ち着かせて後は普段通り、そう気負うようなものではないから頭で考えるよりも身体に染みこんだ動作に任せてしまった方が良いだろう。流れるような動作で手順を踏んで行き、彼女の前に差し出すのは一本の薔薇の造花。ふっと溜息とも笑みとも取れるものを零すと、彼女はそれを受け取ってくれた。
「気障ね」
「薔薇が一番受けるんだよ、定番だから」
「私にも受けると思ったの?」
「いや。ただ、今出せるのはそれしかなかっただけだ。初めて見せる相手なのに、こんな準備もしっかり出来ない状態でやるのは本当は不本意なんだけど……」
「ならやらなければ良かったじゃない」
「今の君に、必要だと思ったから」
彼女の持つ薔薇に手を伸ばし、そこから今度は様々な国旗を出す。するすると伸びていく紐は何処までも続くかのように見えて、最後にポンっと音を立てて紙吹雪を舞わせたところで終わった。まさかもう一段階あるとは思っていなかったのか、彼女は目を瞬かせながらそれらを見詰めている。その表情からは、さっきまでの苦しさや辛さみたいなものは消えていて、俺は自分の役目を果たせたことにほっと胸を撫で下ろした。人を笑顔にさせる。それが俺なんかにも出来ることなんだと思っているから。
「まるでカリオストロの城みたいね」
「ルパン分かるんだ? これはあれが元ネタだから、『みたい』って言うよりそのものだな」
「正確にはルパン三世ね。ルパンって言うとアルセーヌ・ルパンのことになってしまうわ」
「細かいなぁ。ルパンはルパンだろ?」
「違うわ。ルパンはホームズにしか捕まえられない怪盗なのよ? ルパン三世にホームズは居ないでしょう?」
「分かった、分かった。俺もアルセーヌ・ルパンは凄いと思ってるよ」
「まぁ、そういうことならいいわ。超高校級の奇術師さん」
何だか奥歯に物が挟まったような物言いだったが、そんなことよりも彼女の後半の言葉の方が重要だった。超高校級の奇術師。それが俺の肩書きであり、この学園への入学のきっかけとなった才能だった。彼女もまた新入生についての情報を一通り集めていたのだろう。その情報と先ほどの出来事を照らし合わせれば、俺が誰であるかなんて容易に分かることだった。その才能によって入学したからには、この学園に居る間はずっとついて回るのだろうと思うと少し憂鬱な気分にもなるが、他の新入生だってそれは同じだろう。郷に入れば郷に従えとも言うし、こればっかりは慣れていくしかないんだろうな。
「そ、俺は超高校級の奇術師。ここではそういうことになってるけど、それより名前の方を覚えて欲しいかな」
「もちろん、名前もちゃんと知ってるわよ。
君」
「それはどうも、気軽に
って呼んでくれて良いから。見たところ、君も新入生だろ? 名前、教えて貰っても良いか?」
「霧切響子よ」
「そっか、霧切……響子、か……っ」
その名前を知らない/知っている。その名前を聞いたことがない/ある。その名前を覚えていない/いる。
だってその名前は、生涯を通して決して忘れないと誓った。誰が/俺が。そんな記憶はない/ある。
忘れてしまったのか/忘れるわけがない。
俺自身が俺自身にその忘却を許さない。
それを忘れるということは、俺を変えたあの瞬間を無かったことにするということだ。
あの閉じた空間から、あの棺の中から俺を救い出してくれたのは。
■■■■。
そうだ、その四文字は、その名前は――
「ははっ、あははは。そっかそうだったんだ、どうして忘れてたんだろうな。忘れられるわけがないのに」
「どうしたの、突然」
「思い出したんだ、君のことを」
「私のことを……?」
「そうだ。君はさ、俺の恩人なんだよ、霧切。何があろうと生涯この恩だけは忘れないって決めてた、そんな恩人なんだ」
「あなたのこと覚えてないわ、私」
「うん、俺も何があったかは覚えてない。でも、君は俺の恩人だし、俺はずっと君にもう一度会いたかった。それだけは確かだ」
いつどこで、どんな状況だったか。それは未だに分からないけれど、彼女が俺の恩人であるということは揺るぎようのない事実であり真実だった。霧切響子は
の恩人。それさえ分かってしまえば、そこに至るまでの経緯が分からずとも問題はない。本音を言ってしまえば、彼女が俺を何から救ってくれたのか全てを知りたい、思い出したいとも思わないわけではないが、今はこの事実が分かっただけで十分だと思える。
「無茶苦茶ね、あなた」
「自分でもそう思うよ。でも良いんだ、こうして霧切に会えたから」
「そんなに大袈裟な話でもないでしょう?」
「俺にとっては一大事だよ。だって、今の俺があるのも君の御蔭だから」
「何よそれ、重過ぎるわ」
「誇張でも何でもないんだけどな。まぁ、それくらいのことを君は俺にしてくれたってことだよ」
「覚えてないことで感謝されても困るんだけれど……ふぅ、もう行ってもいいかしら? あなたもそろそろ玄関ホールに行った方が良いわよ」
「それもそうか。あ、一緒に行くってのは?」
「……好きにしたら」
あからさまとも言える会話の転換は、彼女なりに思うところがあったからこそ、なのだろう。前を行く背中はその後をついていく俺の存在など気にも留めていないとでも言うように、かなりの速さで進んでいく。それでも、一緒に行くという提案を拒絶されなかったということは、そういうことなのだろう。仕舞うタイミングを逃したのか、彼女の手には未だに俺があげた薔薇の造花が握られたままだったから。嫌われた、という訳ではないのだろうということは分かった。それだけで今は十分だった。
普通ではない何かが俺たちの身に降りかかっていることは、この時からして薄々分かっていたと思う。だからこそ、この先何があっても不思議ではないから。例え何が起ころうとも、俺は彼女の味方で居ようと決めた。それが、俺が恩人である霧切響子に出来る恩返しだと、それくらいしか出来ないだろうということが分かっていたからかもしれない。
2013/06/30