それはひと時の気の迷いではなく
眼を閉じて睡眠という安寧に身を委ねているその姿は無防備極まりなく、年相応ではあるけれどもその性別にはそぐわないほどに綺麗な寝顔を晒していた。必然、浮かんでくる感想は一つである。女顔。というのは起きている時に本人に向けて口にしようものならば、性別やら年齢の上下など関係なく迷わず手やら足やらが出てくる禁句だ。それを分かっていても敢えて使うという反骨精神は持ち合わせていないので、折を見て、彼の素敵な幼馴染たちに便乗する形で用いることにしている。
俺は男でおまえは女で。というよく言えば男らしく、悪く言えば男尊女卑とも言える思考の持ち主でありながら、女に手を上げることはあまり躊躇いが見られないのは常々不思議な点である。いや、同様に性別やら年齢の上下という条件を持ち合わせている彼女に対して、彼が行動という形で何かを示しているのは見たことがない気がするので、私だけなのかもしれない。それは特別扱いという意味ではなく、単に舐められているとかそういう類のものなのだろう。まぁ、それを別に悪いというつもりはない。彼とそこそこにお近付きになっておくことは私にとっても決して悪いことではなく、むしろ必要なことである。そのために、わざわざ戸籍とか身分とか面倒なものを作り上げて、こんな東の島国までやってきたのだから。
早く早く早く。学校という箱庭の中で穏やかとも生温いとも取れるお芝居を演じながら、心は常に急いている。それが始まってしまえばこの街にどんな災厄が訪れるか分かっているにも関わらず、私はそれを、それだけを願う。不特定多数の顔も知らない人間の心配をする義理はないし、顔を知っている相手であってもそこまでの情は抱いていない。彼女があればそれでいい。それだけでいいのだ。そのために、この魂は存在しているのだから。彼女と出会うために必要であるというのならば、幾千万の犠牲が払われようとも必要対価だと切り捨てられる。けれども、彼女はきっとこんな考えは好まないだろう。自分のために誰かが犠牲になる、そんなことにはきっと頑として首を振ることはない。
大海に沈んでなお輝きを失わない一粒の宝石のように綺麗な彼女。こんなにもあさましい私では彼女に嫌われてしまうかもしれない。もしもそんなことになったら私はきっとどうしたらいいか分からなくなってしまうだろう。それでも時折耳に届く彼女の声は包み込んでくれるような優しさがあるから、跡形もなくとはいかないけれども、私の悩みや不安が出口のない迷路に陥ることはなかった。あぁ、やはり彼女は私の女神なのだ。彼女が居れば、きっと何もかも悪いようにはならない。そう識っているから、早く早くと心は急くのだ。もっとも、私のような登場人物でもない脇役ですらないような存在が何を願ったところで、脚本は決められたようにしか進まない。故に、彼女が現れるのはまだ先のことだ。だからこうして彼の寝顔を眺めていたところで、彼女が現れることもないし、彼女と会話が出来るわけでもない。それが叶うのはもう少しだけ先のことだ。
こちらの考えなど知ったことはないというように尚も夢の世界へと旅立ったまま帰って来る気配のない目の前の相手を見下ろす。これのどこがいいのだろうか。とは彼に出会ってから私が幾度となく繰り返し自問自答している議題である。喋らなければとてもかわいい顔立ちをしていることは認める。並べてみたことがないので確かではないが、あれにとても良く似ているとも思う。それもあってほんの少しの憎らしさも湧いてくるが、そこはある意味で私も同じ穴の貉に等しい存在なので見て見ぬふりをしている。
外見、というのは最も分かりやすい特徴であるために、容姿が似ている彼はあれのせいで負わなくても良いものをこれから沢山背負わされることになるだろう。その点についてはいたく同情する。が、それとこれとは別のことである。彼女が選ぶというのであれば私も彼を尊重しよう。けれども今の時点ではまだ彼女は彼を選んでいないから、彼に対してどんな感情を抱こうとも私の自由である。という言い訳をしながら私は今日も心の内で彼への不満を募らせる。不満が爆発してうっかり彼の口と鼻を塞いでしまう前にささやかな悪戯でもしてこの場を立ち去ろうと思って顔を覗き見ると、碧緑の瞳と目があった。見つめ合ったまま、というと語弊を招きそうではあるがそのまま瞬きもしないで顔を見ていると、先に口を開いたのは相手の方だった。
「……何してんスか」
「君の寝顔を見ていたらむしゃくしゃしてきたので内なる心に従ってナニかをしようとしていたところかな」
「むしゃくしゃ?」
「ムラムラだったかもしれない。藤井君的にはどっちがいい?」
「どっちでもいいんで今直ぐ消えて欲しい」
「年上に対する態度がなってないぞ、少年」
顔を覗き込むために傾けていた上体を私が起こすと、彼も寝転がっていた身体を起こす。どうやらベンチを本来の用法で使うことにしたらしい。先ほどの私の発言を受けてのことではないと思うが、寝転がったまま人と会話をしないとかそういう辺りは幼馴染の片割れの躾の賜物なのかもしれない。それに対して何となく彼の隣に座る気分でもなかった私は立ったまま座った相手を見下ろしていた。上からだと旋毛が良く見える。いっそもう少し背が低ければ可愛げもあったものを、と生意気な口ばかり叩く普段の様を思い出して本気でぐりぐりと押すことを考えてみたりもしたが、実行に移すよりも前に胡乱げな視線が下から向けられた。
「で、ほんと何してたんですか、アンタ」
「屋上に来てみたら眠り姫が居たから寝込みを襲われないように見張っていてあげたんだよ、跪いて感謝しなさい」
「暇人ってこういう人のこと言うんだなー」
「藤井君はほんとにかわいくないね」
「アンタほどじゃない」
「失礼も大概にしないと私だって怒るぞ後輩」
「泣くんじゃなくて怒るって辺りがどうしようもないよ先輩」
「まさかの駄目出し!?」
考えるまでもなくつらつらと言葉は飛び出してくる。こうして彼と中身の伴わない会話をする自分を醒めた目で見つめるもう一人の自分が居るのを何処かで意識していなければ、このままふわふわとした現実感のないお遊戯に紛れ込んでしまいそうな感覚があると気付いたのはいつ頃からだったか。こんなものが欲しいと願ったことは一度だってなかったはずなのに、いつの間にか根を張っていた。だからこそ、そのきっかけを作った目の前の人物が余計に憎たらしいのだ。
「藤井君なんて好きじゃないよ」
「嫌いではないと」
「言葉に裏はないからストレートに受け取ってくれると私はとても嬉しい」
「じゃあ敢えて俺は裏を読むことにする」
「いじめ、かっこわるい。香純ちゃんに言いつけてやる」
扉の向こうで入るタイミングを伺っている人達に気付いているのは恐らく私だけではない。私よりも彼の方が遥かに彼らの気配に敏感だ。それだけの積み重ねがあるのだから当然だろう。だから、声のトーンは変わらずともそのことに気付いて持ち上がっている口角も、気付いていないわけがないのだ。消化し切れないこの思いも何もかも全て、藤井蓮のせいということにしてしまいたい。それが出来もしないものであるということを本当は私も分かっていた。
それでも、この身は細胞の一つに至るまで彼女のためだけにありたかった。
2014/08/19(title by それでは、これにて)