青い鳥の真偽

 幸福とは、個々の人間によって異なる形を示すものである。分かり易い例えを使うならば、そう、他者を壊す(ころす)ことに幸福を見出す者と他者を作る(いじる)ことに幸福を見出すものが居たとする。双方の幸福は相反するものであり、互いが互いを否定し合う。それは『幸福』という分かり易い一つの形で示すことは決して出来ないだろう。万人が認める『幸福』などというものはなく、必ずそれは誰かの不幸になるのだ。幸福の絶対量は決まっており、誰かが幸せになれば誰かが不幸になる、などと言うくだらない定義とは別の話だ。この場合、あくまで『幸福』というのが単一の形を示していないということを述べているに過ぎない。そもそも、幸福の絶対量が決まっているなどというのは、幸福な他者を見て妬み嫉み呪うような自身の力で何も成そうとしない人間の妄言に過ぎない。出来る限りのことをせず、幸福に手を伸ばすだけの努力もせず、ただ他人の幸福を貶める。確かに偶然にもその幸福を手に入れたものも居るかもしれない。が、それもその人間の何かしらの行為が巡り巡って形を結んだのだ。全ては因果応報。何かを成せばそれはいずれ形を結ぶ、何も成さねばあるのは無だ。幸福に限った話ではなく、あらゆる事象に対して言えることだ。話が逸れた、幸福とは何かという話だったか。つまり、幸福とは定型ではないというそれだけのこと。

「興味深い見解だ。続けよ」
「これ以上、そのお耳に入れるような戯言は持ち合わせて居ないのですが……成程、そもそもの話題の始まりは青い鳥とは存在するのか否や、でしたね。しかしここまでくれば既に答えは出ているかと」
「卿の口から直接答えを聞きたい」
「貴方がお考えになっている答えで相違ないと思いますが、それでもお聞きになりたいと?」
「あれと似ている卿ならば、或いは私が予想もし得ぬような答えを導き出すのではと思ってな」
「それは新手の罵倒ですか。あれと似ているなどと言われて悦ぶものはこの世界を遍く探したところで居ないでしょう」
「相変わらずあれは敵ばかり作っているようだな。さて、卿の答えを聞かせてはくれないか」
「青い鳥など、幸福の象徴など存在しない。それが私の答えですよ、ハイドリヒ卿」

 幸福が定型で無いのならば必然と答えは決まっている。幸福の象徴である青い鳥は有りもしない幻想だ。だが、その幻想が生まれるに至った理由に察しも付く。故に、その全てを否定するつもりはない。人間とは、何かに縋らないと生きていけないモノだ。縋り付くものとして、凡そ全ての人間が必要としているであろう分かり易い事象が言わば『幸福の象徴』だったのだ。例え有りもしない幻想であろうとも、それが『ある』と思い込めば縋って生きていくことが出来る。ある意味では偶像崇拝に等しいのだろう。あの童話が迎合されたのも、姿は見えずとも真実の幸福とは常に身近なところにある、という点が人々の求めるものにより近かったからに過ぎない。結局のところ、人間は自分が見たいと思うものしか写さない都合の良いように出来ているのだ。真偽がどうであれ構いはしないのだろう。

「私なりの結論は以上です。暇潰しのお役には立ちましたか?」
「ああ、やはり卿との会話は良い」
「ご期待に副えたようで何よりですよ。では、これで失礼します」
「何処へ行く?」
「我が青い鳥に会いに」
「つい先ほど自らが偽りと豪語したそれに会いに行くと?」
「偽りすらも真に変える存在があるとすれば、それは恐らく彼女だけでしょうから」
「そういうところもまた、」
「『あれ』に似ていると? 侮辱にしか思えないのですが、あぁ、あれと会話の出来る貴方にとっては、もしやそれは賛辞なのでしょうか」
「くくっ……そうくるか。全く、本当に卿は退屈させぬな」
「有難う御座います、また暇潰しが御入り用でしたら呼んで下さい。それでは」

 玉座に君臨する黄金の獣へと一礼すると、場を後にする。一歩足を踏み出せば既にその脳裏にあるのは黄昏の砂浜に佇む彼女のことだけ。声が聞きたいと、そう思う。その歌声を聞くためだけに、この耳はあるのだから。彼女の声を聞き、伝える。そのためだけにこの身はあるのだから。私の青い鳥。幸福の象徴などという生易しいものではない。そう、彼女は私にとっての世界の象徴。
 
拍手御礼 [title by ligament 幸せにまつわる]