君にどうか幸せを

 海と城壁に囲まれた美しい港町――サン・マロ、その一角にそれはあった。古い教会を思わせる外観、けれどもその象徴たる十字架が本来あるべき所から欠けている。それでもなお、その建物の佇まいは神の家に近いものがあった。両開きの木製の扉は開け放たれており、あらゆる者の来訪を拒むことなく受け入れていることを示している。救いを求める者を迎え入れる――いや、そうではない。救いを求める者だけではない、真の意味でここはありとあらゆる者を受け入れる場所だと。故に、彼には予想が付いていたのかもしれない。この中に居るのが何者であるのか。彼女の生まれ育った場所を見たいと思い訪れたこの土地で、呼ばれるようにこの建物の前に立っている理由も。
 恐れることはない。あれに何かを害することが出来ないのは誰よりも藤井蓮自身が良く知っているし、仮に出来たとしても彼女の本意に反することをするわけがない。あれはそういう者だ。そういう風に、出来ている。開け放たれた敷居を通って内部へと入ると、通路の突当り光降り注ぐステンドグラスを前に跪いている人物が目に入ってきた。祈りを捧げるその頭上にも、やはり教会の象徴は掲げられていない。では、あれは何に祈りを捧げているのか。決まっている、あれにとっての『神』とは生れついた時よりただ一人しか存在していないのだから。

「何処に行ったのかと思ったらこんなとこに居たんだな」
「心外ですね。この土地は彼女だけではなくて私の故郷でもあるんですよ」
「あんたフランス人じゃないだろ」
「だとしても、私にとっての故郷はここです。今の私が生まれて育ったのは、この地を初めて訪れた時ですから。それよりも、仮であったとしても先輩だった相手にその言葉遣いはどうかと思いません?」
「別に敬って欲しいわけでもないくせに良く言うよ。むしろ、」
「そうですね、私の方が君に対して多少なりとも畏敬の念を抱いている」
「だからその口調なのか?」
「これは生来のものです。あの場では、君たちに合わせて砕けた物言いをしていただけ」

立ち上がったことでその身に纏っていたのは修道着とは似ても似つかない、誰かを彷彿とさせるような真っ白い服であると分かる。ここが何のための場所であり、何をしているのか。最早問うまでもなく、答えは出ている。それでも、訊かなくてはならなかった。メルクリウスから自身のルーツを聞くことを拒んだ彼をしても、そう思う理由があった。何もしなかったのだ。ただそこに居るだけで何もしない、スワスチカが開いた際には周りと同じように飲まれて一度は消え去った。にも関わらず、普通ではないことだけは分かってしまうのだ。他でもない、彼自身と同じモノであると。だからこそ、目の前の存在は『何』であるのか。それを話して貰う必要があった。ただ一つだけ、彼女の敵ではないことだけは知っているから、問うことに、訊くことに、不安はなかった。

「で、あんたは結局何だったんだよ」
「……まず初めに、その問いからして誤りなんですよ」
「どういう意味だ?」
「『何だった』ではなくて『何であるのか』私に与えられたのは過去ではなく現在です。先の歌劇での私は観客に過ぎません。故に何もせず、何も出来ない。配役に組み込まれていないのだから当然ですよね。私に与えられたのは、次の舞台での端役。いずれ生まれる女神の世界のために、あれが生み出したんです。君はファティマの予言というものを知っていますか?」

ファティマの予言とは、キリスト教圏では信仰的な意味合いでも、オカルト的な意味合いでも有名な逸話の一つだ。三人の子どもが聖母マリアを名乗る女性と出会い、三つの予言を授かる。ここで言いたいのは予言の内容ではなく、この逸話そのものについてであろう。神に連なる三位一体の存在を捉え、その声を聴き届けて広めたという事実。すなわち、黄昏の女神のメッセンジャー。それが彼女の配役だった。

「どちらかと言えば、預言者の方が正しい表現ですが。彼女の歌声を聴くためだけにこの耳はあり、彼女の声を伝えるためにこの身がある。君ほどの価値はないけれども、私もあれから彼女への贈り物の一つだったということです」
「それで、それを簡単に受け入れてんのか」
「あれの筋書き通りに動くのは癪ですが、彼女に膝を折って仰ぎ見ることを決め、こうしてこの場を作り上げたのは紛れもなく私自身の意志です。受け入れたのではなく、選んだ」

彼女が包み込むこの世界は彼女が絶対の法則であり、旧世界の神による影響は薄れている。だが、他者を否定することの出来ない彼女の特性上、あれも完全に消え去ったわけではない。その残滓は残っており、だからこそ二人ともここに居る。何よりも、彼女がそれを望んでいるから。

「君と同じ、だなどと偉そうなことを言うつもりはありません。ですが、もしも気を遣ってくれたのでしたら、ありがとう。私が彼女を愛しいと思うこの気持ちは私のものですから、心配は要りません」
「そりゃどういたしまして、余計なお世話で悪かったな」

疑問に答えを得たからには、彼のこの場所における用は済んだも同じだった。いきなり居なくなったから香純が心配しているとか言ったところで、何ら意味はないと分かる。この場を作り出した、と先ほど言っていた。彼女を奉るための場所を、自らの手でこの地に作り上げたのだ。今後の決意表明としては十分過ぎる。そこまでの思いを曲げてまで、どうこうしたいと考えられるほどの親しさを彼は持ち合わせていないし、それは目の前の相手にとってもそうだろう。だから、立ち去ろうとする自分が呼び止められたことに彼は酷く驚かされた。

「聴いていかれないのですか? 私は彼女の声を届けるだけであってこちらの声を伝えることは出来ませんが、それでも彼女が思っていることを君に届けることは出来ます」
「興味ないな。誰かを間に挟んでまで聴く彼女の言葉に意味があるとは思えない。俺が聴きたいのは、マリィ自身の口から語られる言葉だけだ。それに、俺はマリィを信じてる。だから必要ない」
「……君を軽んじ過ぎていたようですね、失礼しました。もう引き留めたりはしませんので、どうぞご自由に。まぁ、こんな私ですが話し相手程度にはなりますから、またいつでもいらして下さい」

あっさり引き下がると彼のことなどもう意識の外であるのか、彼女は再び座り込んで祈りを捧げ始めた。興味のないこと以外はどうでもいい、そうしたところだけはあの頃から全く変わっていないらしい。その様子に嘆息しつつも、何処か納得している自分を振り払うように彼は通路を引き返す。

「幸せになって。大丈夫だよ、抱きしめているから。――さようなら、藤井君」

彼女の気配を色濃く感じさせる内と彼女の包む外界を分ける敷居を越える際に、彼の背後に届いた言葉。
それが誰のものであったのか、その答えは神のみぞ知る。

拍手御礼 [title by ligament 物語のような現実]