塗りつぶされる安心感
その少女はポルトガルのとある町で生まれた。何の変哲もないごく普通の一般階級の家庭であり、両親からは一人娘として愛情を注がれ大事に育てられた。町にある小さな教会へ足蹴く通う少女を両親は信心深い良い子だと、いつも笑顔で送り出していた。穏やかな、どこにでもある家族だった。だから少女は、己の秘密を両親に打ち明けず、胸に秘め続けていた。
少女は幼い頃からこの世のものではない声を聞くことができた。しかし少女は決して愚かではなかった。故に、己が聞いているものは周囲の人には聞こえておらず、それを両親は勿論、周囲の者に悟られてはならないということを良く理解していた。そんなことを口にすれば、自分が気狂いとして扱われ、両親共々町中から迫害されることになると分かっていたからだ。少女が聞く声には良きものも、悪しきものもあった。聞こえてくるに任せるだけで、少女は一度たりともその声に対して反応を返すことをしなかった。そうして物心がつく頃には、耳を塞いでも聞こえてくるその声はどうあっても自身に生涯付き纏うものであると受け入れていた。
少女の年齢が二桁になる頃、彼女の家族はドイツへと移住することになった。彼女の父親は元々ドイツ人であり、父親の両親のかねてからの希望で一緒に暮らすことになったのだ。ポルトガルからドイツへは長旅だった。列車で何日もかけての移動に加えて、せっかくだからと両親は様々な歴史的名所を観光して回っていた。宿ではしっかりと寝食は取っていたが、その道中は未だ幼い少女にとっては過酷な旅だったのだろう。フランスの海岸沿いの町へ辿り着いたその日、少女は高熱を出して倒れた。これまで生まれ育った土地から出たことがなかったから見知らぬことばかり経験して疲れが出てしまったのだろう、そう両親は考え、その町で暫く休息を取ることにした。両親の考えに反して少女のそれはただの疲れから来るものではなかったのか、一週間経っても熱は一向に下がる様子が見られなかった。両親は知らなかった。生まれ育った土地から出たことのなかった少女にとって、この旅で触れた声はこれまでの比ではなく、常に多くの声に晒された彼女の神経はどうしようもなく擦り減っていたということを。姿なき声に対して彼女は反応を示さないようにしていたが、それでも彼女を聞こえる存在として認識するものもあった。有り体に言ってしまえば、彼女はここに辿り着くまでに様々なものに憑かれてしまっていたのだ。当然医者に見せて治るものでもなく、教会へも相談に行ったが一般の教会でそれと分かるものでもない。打つ手なしと打ちひしがれていた両親の前に、その男は現れた。
「あぁ、これは良くないものに憑かれている」
少女を一目見てそう告げた男が額に手を添えると、ついぞ下がることのなかった少女の熱は引き、何かに魘されるようだったその顔は穏やかなものへと変わった。平身低頭で感謝を告げる両親に対し、熱を下げただけで根本的な原因を取り除いたわけではないため明日もう一度準備をして訪れることを伝え、男は直ぐに立ち去ってしまった。朦朧とした意識の中で両親とその男のやりとりを聞いていた少女は、声が全く聞こえなくなった理由を察し、あれは本物だ、と本能で理解した。
その晩、少女は久方ぶりに夢を見た。着いたばかりの頃に見たこの町の浜辺に良く似た砂浜に、金の髪をした女性が立っている。その女性が口ずさむ歌の意味は理解できなかったけれども、少女にはとても神性なものに見えた。こちらからは確かに女性の存在が認識できているのに、少女の存在は女性の目には届いていないことが分かり、それがとても寂しかった。その身に纏う白い布に触れれば気付いてもらえるかと思い伸ばした手は「やめておきたまえ」と背後から掛けられた声によって止められた。少女が振り返った先には、眠りにつく前に見た覚えのある男が居た。
「君がまだ死を望むのではないならば、彼女に触れることはやめておくのが賢明だろう」
「そう。なら、どうやったらあの人に気付いてもらえるの?」
「彼女の目に留まりたいと」
「お話したいとまでは思わないわ、私ここの言葉話せないし。こっちを見てくれるだけでいいの」
「今の君ではその願いは叶わない」
「どうしたらいいかあなたは知ってるの?」
「君にも私にも、この場において成せることはない。唯一できることと言えば、ただ待つことのみ」
「いつまで待てばいいの?」
「さて。その答えはあいにくと私も持ち合わせていないのでね。しかし君に待つ意志があるのであれば、私はそれを叶えることもできる」
どうするかね? というその問いに、少女は迷わず是と答えていた。この時より、少女の未来は決定した。元より素質のあった少女から余分なものを削ぎ落とした結果、少女と彼女の波長が一致したに過ぎない。彼女を選んだのは少女自身であり、そこに限って言えば男は手を加えてはいなかった。彼が指揮する舞台の役者ではなく、彼の居なくなった後の存在として少女はある意味選ばれたのだろう。それは或いは座にある者としてそれを託すことになる彼女への誠意だったのかもしれない。
男の言葉に偽りはなかった。けれども男は全てを語ったわけではなかった。そのことに少女が気付くのは、これよりずっと後、遠く離れた東洋の地でのことだった。
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