lost child

 仕事帰りに買い物袋を片手に歩く。それ自体は彼女にとって珍しいことではなかった。だから、ここで特筆するべきは、彼女が歩き慣れた帰路とは異なる道を歩いているということだろう。何度か来たことはある、それでも訪れ慣れているとは決して言いたくない、目指すべき目的地は彼女にとってそんな場所だった。
 どうして自分が、このまま帰ってしまおうか。何度目かになる逃避的な考えが彼女の頭をよぎっていたところに、鞄の中の携帯が着信音を鳴らす。画面に表示された着信者の名前は石野眞、珍しい相手からだった。

「はい」
『こんにちは、ご無沙汰してます。石野です』
「お久しぶりです。今日はどういった風の吹きまわしでしょうか?」
『津久居君を介してしかやり取りをしていないはずなのに、どうして? と、思われてます?』
「そうですね」
『彼のことで、お伝えしたいことがあって連絡しました』

話の内容に予想がついている彼女が聞きたくないと思ったところで、電話越しの相手にそれが伝わるはずもない。彼女の思いなど関係ないとばかりに電話の向こうでは言葉が続けられていく。

『体調不良で、今日仕事もお休みしたんですよ、津久居君。連絡を受けた者の話ではかなり辛そうだったようなので見舞いに行こうかと思っていたのですが、あいにくと私はこの後も仕事がありまして』
「……私に代わりに行けと?」
『はい、話が早くて助かります』
「ご存知だと思いますが、私は別に彼の家族でも恋人でも何でもありません。そこまでする義理があると思います?」
『でもあなたは、これで彼が死んだりしたら目覚めが悪いと思う人ですよね?』
「……石野さんって、いい性格してますよね」
『有難うございます、よく言われます』

顔は見えなくとも、相手がいつもの食えない笑顔を浮かべていることが容易に想像がついてしまう。物腰は柔らかで、あからさまな敵意などを示す人ではないことはこれまで何度か顔を合わせて分かっている。しかし、どうにも人を不快にさせることが上手い。嫌いなわけではないが、深く関わりたいとは思わないタイプ。それが彼女から石野眞に対する評価だった。

『あなたがたの関係は私が口を挟むことではないでしょうから、それについては何も言いません。ですので一先ず、今日のところは彼のお見舞いをお願いできませんか。あの家に、病人が食べられるようなものがあるとは思えませんから』
「そもそも、どうして私に連絡するんです? 津久居の世話を喜んで焼きそうな女性なら他にいくらでも居るでしょう」
『そういった方の連絡先を私は知りませんし、その女性たちも津久居君の家は知らないと思いますよ』

 そこに名前はなくとも、少なくとも、あなたは津久居君にとって"特別"です。
 伝えたいことを伝え終えたからか、受話器の向こうからは既に通話終了音が聞こえていた。忙しない気配が常に電話の向こうからしていたから、まだ仕事があるというのは嘘ではないのだろう。彼女の知る石野という人間は、そうした無意味な嘘を吐く人物ではない。
 通話を終えた画面には、先ほどの買い物の際に開いていたそのままになっていたメールが表示されている。文面としての体裁を成していない、箇条書きのメモのようなそれを見て、彼女の口からは思わず溜め息がこぼれる。こんなもので、相手に意図が伝わると思っているのだろうか。

「石野さんも、まさか電話の前に既に向かってるとは思わなかったでしょうね」

 画面の中のメールの送信者は津久居賢太郎。体調を崩したから必要なものを買ってこい、恐らくそういったことを伝える内容だった。ここで病人らしく弱った様子でも見せれば多少は可愛げがあるし、彼女も仕方がないと折れてやる気持ちになるのだが、そんなことは期待するだけ無駄だろう。やってもらって当たり前、という考えが透けて見える。
 彼の思惑通りに動くのは腹立たしいと思いながらも、先ほど石野にも言われた通り、ここで死なれたら目覚めが悪い。それに、そんなことになったらあの子に二度と顔向けができなくなってしまう。再度零れそうになった溜め息をぐっと堪えて、彼女は目的地へと足を進めた。



 彼女と賢太郎の付き合いは長い。物心がついた頃には、既に隣に住んでいた。お互い、お世辞にも良いとは言えない家庭環境であったと思う。子どもながらに支え合うようになるのに、そう時間はかからなかった。清史郎が生まれて、その傾向はますます強まっていった。あの頃の彼女は彼に依存していた、といってもいいだろう。
 崩壊はあっけなかった。津久居の両親が離婚をして、賢太郎と清史郎はそれぞれ父と母に引き取られた。そうして、彼女が支えとしていたものは消え去ってしまった。彼女が頼りにしていたはずの彼は、もうどこにも居なかった。
 そのことを認めるのにはそれなりの時間がかかった。清史郎と彼女の手を引いてくれていた彼は変わっていないはずだと、彼女自身が信じたかったからだろう。縋るものが他に何もなかった彼女にとって、それが唯一の存在だったからだ。清史郎が居なくなった喪失感もあってか、彼の存在は変わらずにそばにあった。寂しさを埋めるために、年頃の男女がするような行為も何度かした。形だけの関係は続いていたのだから、そのまま流されておけば良かったのかもしれない。けれども、現実は彼女にそれを許さなかった。離婚をして一つの結末を迎えた津久居家と異なり、その頃には彼女の家庭はどうにもならない状況になっていた。
 "何かあったら必ず助けるから"かつての彼と交わしたそんな約束に、いつまでも縋り続けているわけにはいかないとどこかで彼女も理解していた。そして、時候の挨拶と共に清史郎から年に数回届く手紙が彼女の背中を押してくれた。そこには一向に返事の来ない"お兄ちゃんからの手紙"について、いつも必ず書かれていたから。かつて彼の中にあった優先順位はわかっていた、彼女が清史郎よりも上に来ることは決してない。その清史郎に対する対応が"これ"なのだ。今の彼が彼女に対して向ける感情は、推し量るまでもない。

 だから、彼女は津久居賢太郎という存在を自分の中から切り捨てた。来るはずのない助けを期待するよりも、自分で切り開いた方が早いと、そう判断したから。幸いにも、それを実行に移すだけの努力が彼女にはできた。周囲の大人が比較的協力的だったということもあり、少しずつ計画は進んでいった。
 そして賢太郎とは徐々に疎遠になり、高校を卒業して大学に行く彼と、就職をする彼女で道は完全に別れた。そこで二人の関係は終わった、はずだった。彼女にとって誤算だったのは、彼と清史郎の存在が切っても切り離せないものだったことだろう。賢太郎のことは切り捨てたけれども、清史郎のことは切り捨てられなかった。"お兄ちゃんからの手紙"を待ち焦がれるまだ幼い彼から伸ばされた手を振りほどけるほど、彼女は薄情ではなかった。彼の兄ほどではないにしても、彼女も生まれた時から清史郎を見ている。血は繋がっていないにしても家族に近しい存在であり、今となっては彼女が情を注げるのは彼だけだった。
 割り切ることにした。彼に関わるのは自分のためではなく、清史郎のためなのだと。彼に何かあれば清史郎が悲しむから。理由はそれだけでいい。
 そして友人と言うには遠く、知人と言うよりは近い距離で彼と彼女の関係は今も続いてる。



「……なんで、おまえがここに」
「あんたが連絡したからでしょ。さっさとどいて」
「は…連絡なんて……」
「自分で送ったメールも忘れたの? 大事な携帯確認してみたら」

インターフォンを押して出てきた賢太郎は思っていたよりも調子が悪そうであった。かなり辛そうだった、という石野からの情報も間違いではないのだろう。だからといって彼女が心配をする義理は全くないので、必要以上に心配をしたりはしない。あまり片付いているとは言えない狭い台所に使う食材だけ並べ、それ以外のものは冷蔵庫へと片づける。無暗に詰まっているアルコールも類を買い足す余裕もなかったのか、冷蔵庫は思っていたよりもすっきりとしていた。テーブルの上に置かれた吸い殻の溜まった灰皿など雑然としたものを端に寄せて作ったスペースに薬と水分を置く。勝手知ったる様子でそこまでしたところで、ようやく彼の様子を伺ってみれば、だるそうな様子でベッドに腰かけながら充電器に繋がれた携帯を操作している。こちらの言った通りにメールの履歴を確認しているようだった。

「あった?」
「あった」
「そ。じゃあ寝てれば?水と薬はそこ」
「……空腹で薬が飲めるか」
「飲めないことはないでしょ。何かお腹に入れたいなら冷蔵庫にゼリーがあるからそれでも食べたら」

伝えるべきことは伝えたと背を向けて台所での作業に取り掛かると、億劫そうに移動してきた賢太郎が隣の冷蔵庫を開けて目当てのものを取り出していった。非難がましい目を向けられたが、彼女だって病人だからといってそこまでしてあげるつもりはない。こういう距離感になることを選んだのは彼女だが、きっかけを作ったのは彼の方だ。恋人でもあるまいし、優しさは不要だろう。大人しくゼリーを食べている気配に満足しながら買ってきた野菜を切っていると、背後から声がかかった。

「なんか、作ってくれんのか」
「栄養あるもの食べて薬飲んで休んだら大抵の風邪は治るわよ」
「……助かる」
「びっくりした、本当に弱ってるのね。分かってるでしょ、あんたに死なれたら清史郎に合わせる顔がないからよ」

傲慢が服を着ているようなこの男でも人に感謝を言えたのかと少し驚いた。彼女が思わず振り向いて顔を見たら、苦虫を噛み潰したような顔をしていたので、口にするのは不服であったのだろうことが伺える。その様子にどこか安堵した。どうにも、彼の弱さを見せられるのは慣れない。咄嗟に何度も口にした理由を伝えたのも、いつもと変わらない一線を引いた距離を保つためだった。今更そんなものを見せられて、彼女にどうしろというのだろうか。『そこに名前はなくとも、少なくとも、あなたは津久居君にとって"特別"です』脳裏に浮かんだ言葉を振り払うようにして、手元の作業に意識を集中させた。

 消化の良い病人食を作り上げて部屋の主の様子を確認すれば、薬が効いてきたのか微睡んでいるところだった。起こすかどうするか少々迷ったが、自分で温め直す手間を考えれば今起こして食べさせた方がいいだろうと判断して肩を揺すれば、薄っすらと目が開く。

「賢太郎、起きて」
「ん……なんで、おまえが」
「そのやり取りは二回目だから。起きたなら食べて」
「あぁ……そうだったな」

 覚醒しきらない状態の賢太郎に無理やりスプーンを握らせて、目の前に雑炊を置いたが、スプーン取り落としそうになったため彼女が慌てて空中で拾い上げる。頬でも叩いて起こそうかとも一瞬考えたが、これでも一応病人であると考え直した。どうして恋人でも母親でもない私が、こんなにも親切にこいつの面倒を見なくてはいけないのだろう。と思わず考えてしまうが、全ては"清史郎のため"だ。自分に言い聞かせるようにして仕方なく彼女は彼の意識が覚醒するまで危なっかしい手つきを見守ってやることにした。
 程なくして意識がはっきりしてきた彼は、自分でスプーンをしっかりと持って食事を始めた。久方ぶりに食べるまともな料理だからか、止まることなく手が進んでいく。薬を飲んで少し寝たことで回復したことも良かったのだろう、皿はあっという間に空になった。無言で差し出された皿に仕方なく彼女がおかわりをよそってやると、さんきゅと言ってまた食べ始める。もう少し感謝されてもいいと思うが、彼にそういうことは期待するだけ無駄であることはよく分かっていた。多少なりとも感謝の念があれば話は別だが、彼女から彼への情はないこともあって余計に世話の焼き甲斐がないと感じてしまう。このくらいのことなら別に私じゃなくてもいいじゃないか、という考えのまま思いついたことを彼女は口にしていた。

「そういえば来る前に石野さんからも何とかしてくれって電話があったんだけど。面倒だから適当に世話してくれる女作りなさいよ」
「それこそ面倒だ」
「あんたの事情は聞いてない。私が面倒なのよ」
「おまえでいい」
「私はあんたの便利屋じゃないんだけど。清史郎の手前、私が放っておけないのを良いことに呼び出さないで」
「一緒に寝た仲だろう?」
「は、何年も前の話持ち出さないでくれる? あんた、その後に何人も女居たでしょ」

少なくとも、賢太郎にとって彼女が気安い間柄であることは理解しているが、それも子どもの頃からの知り合いだからに過ぎない。彼女だから、"特別"なわけではない。そんな問答は彼女の中ではとっくの昔に終わったことだ。期待を持たせるような言われ方をしても、全く心は動かなかった。まかり間違っても、焼け木杭には火が付くようなことはない。やり取りは、彼女にそれを再確認させるには十分だった。

「ま、いいわ。やること終わったから帰る。もう一食分は作ったから、寝て起きたら温めて食べて」
「気が利くな」
「あんたとは違うのよ」
「……なぁ、清史郎に」
「やめて。何度も言ってるでしょ、私を伝言役にするくらいなら自分で返事を書いて。じゃあね」

続きを聞きたくなくて、会話は終わりとばかりに一方的に告げると彼女は賢太郎の部屋を後にする。体調に関わらず、追いかけて来ることがないことは分かっていた。本当に、薄情な男だ。

 すっかり暗くなった道を歩きながら思う。暗闇を怖がっていたのはいつの頃までだっただろうか。あの頃、いつも手を引いてくれていたのは先ほどまで目の前にあった手だった。今の彼女が暗闇を怖がることはもうないし、手を引いてくれる存在も必要としていない。誰かに縋って、来ることのない助けを待つだけの子どもはもう居なかった。彼女はもう誰かに頼る必要はない、自立した一人の大人になったのだから。この現実で生きていくために、彼女は大人にならざるを得なかった。
 だから、今も変わらずにあの頃の賢太郎を信じ続けていられる清史郎が心配になる。変わってしまった賢太郎を目の当たりにして、幻滅をしてしまうのではないか。清史郎にとって絶対的な存在である"兄ちゃん"を失ってしまった時、彼がどうなってしまうのか。そればかりは、彼女にも想像がつかなかった。
 彼のネヴァーランドはまだ終わらないのだろう。

2021/05/16