優しくしたいから、優しくしないで
再会は本庁勤務になる同期の出世祝いにかこつけた飲み会だった。主役となったのは警察学校同期の中でも取り分け優秀であったため、当時から遠からず出世するのは間違いないと言われていた人物だ。晴れて本庁勤務が決まったらみんなで集まってお祝いしようという話もその頃からあったもので、そんな冗談みたいな約束を警察を辞めてアイドルとなった今でもきちんと守ってくれるところに、彼の性格がよく出ている。飲み会の席に現れた握野の姿を見て、まず思ったことはそれだった。
「なんか久しぶりだな」
こちらの気持ちをよく知る同期たちの根回しにより彼の隣の席を無事にゲットした私に彼は前と同じように話し掛けてきた。テレビの画面越しに見る彼は随分と遠くに行ってしまったような気がしていたが、そんなところも握野は以前と変わっていないように感じた。ただ、前よりもいい顔で笑うようになったと思う。自分の顔が怖いということを彼は随分と気にしていたはずだから、思ったことをそのまま伝えると
「わかるか? いいお手本が身近に居るんだ」
そう返ってきた。彼が所属をしている事務所にはあのJupiterも居るという。きっとお手本になるようなアイドルが沢山居るにちがいない、もしかしたら彼と同じユニットの木村くんのことかもしれない。その時は、深く考えることをしなかった。それよりも、彼の現在の連絡先の入手までどうやって漕ぎ着けるかということの方が私にとっては重要だったからだ。
次に会ったのは仕事帰り、全くの偶然によるものだった。生活圏が被っているらしいと知ったのはこの時であり、何事もなければ私もこの偶然を喜んだのかもしれない。けれども人を寄せ付け難い空気をまとっていると一目で分かる姿を見て、声を掛けるべきか気付かない振りをして立ち去るべきか悩んだ。その一瞬の間に、私の存在に気付いた彼がこちらに向かって手を挙げていた。好意を持っている相手から呼び掛けられて嬉しくないはずもなく、こうなっては立ち去ることはできないとそれに応えるように手を振って彼の方へと歩を進めた。
「お疲れ様、握野も今帰り?」
「おー
もおつかれさん。家、この辺りなんだな」
「職場からはちょっと遠いけどねー条件と家賃の関係で。握野もこの辺り?」
「最寄は一つ隣だけどな。今日はまぁ……ちょっとな」
「……握野、私で良かったら話聞こうか? 余計なお節介ならこのまま何も見なかったことにして帰るけど」
濁された言葉は先ほどから彼の表情に暗い影を落としている部分なのだと思った。元同僚から少しでも距離を縮めたい、という打算があったことは否定しない。ただそれ以上に、彼のそんな姿を放っておけなかったという理由が大きい。子どもたちの笑顔をしたい、一人じゃないんだと伝えたい。そうした思いを乗せて歌を届ける彼が、そんな顔をしていてはいけない。それは握野英雄が目指すアイドルの姿ではないはずだから。
断られる予感は不思議としなかった。だから余計に「助かる」と弱々しげに笑った顔が目に焼き付いた。彼のそんな顔を見れて嬉しい、彼のそんな顔を見たくない、どちらも私の正直な気持ちだったから、気負わなくていい元同僚として上手く笑えていたかは分からない。
相反する気持ちはなおも留まることがなく、彼からの話を聞いた今となっては聞かなければよかったという気持ちと、聞けてよかったという気持ちに晒されている。簡単に言ってしまえば、握野には好きな人が居て、その人に今日告白をして振られたのだと、そういう話だった。明言は避けられていたが恐らく相手は仕事関係の人であり、同じ事務所の人に話をするわけにもいかず、けれども明日も顔を合わせることになるためこのままではいけないという葛藤に悩まされていたのだという。
「あの人は、仕事に誇りを持ってる。だから、断られることは分かってたんだ。それなのに気持ちが抑えきれなくなって、告白なんて困らせるような真似して……あの時のあの人の顔が頭から離れないんだ」
「誰かに好きになってもらえて、嫌な人は居ないと思うよ」
「好きになっちゃいけない相手だったとしてもか?」
「これは私の意見だけど、好きになっちゃいけない相手なんて居ないんじゃないかな。例えばだけど、家庭を持ってる人を好きになってしまうことも時と場合によってはあると思う。好きになってしまう気持ちは誰にも止められないし、それは仕方のないことだと思う」
「でもそれは」
「うん、倫理的に良くない。でもそれは好きになってしまった相手と所謂不倫という関係を持ってしまった場合のことだよね。好きでいる分には罪はないんじゃないかな、誰にも迷惑掛けてないし。今のは極端な例えだけど、好きという気持ちそのものがいけないということはないと思う」
アルコールの入った握野の口から、ぽつぽつと語られる話はできることなら聞きたくはない内容だった。好きな相手の口から、好き好んで他の誰かへの好意を聞きたいと思う人は居ないと思う。それでも、語り口から彼が生半可な気持ちで好きになったわけではないということが分かってしまったから、きっとその人は素敵な人なのだろうと思った。相手にとっても、握野から向けられた感情それ自体が嫌だったわけではないはずであり、受け入れられないだけの理由があったのではないだろうか。だから、誰かを好きになるということそれ自体を彼に否定はして欲しくなかった。それも全て、告白をして既に彼が振られているという事実があってこそなのだろう。これが告白前の恋愛相談であれば私はもっと否定的な意見を彼に伝えていたはずだ。「聞いてもらえてよかった、ありがとな」という言葉と気の抜けた笑顔は、たまたま向けられているだけのものに過ぎない。自分が彼の特別になったわけではないし、全ては偶然そういう巡り合わせだったからだと分かっている。そうだとしても偶然は二度と訪れないかもしれない、これを逃せば次なんてないかもしれない。
綺麗事をどんなに重ねたところで打算に満ちた私が取る手段など彼に声を掛けた時から決まっていたようなもので、失恋の悲しみから適量以上のアルコールを摂取した彼を介抱するという名目で家に招いた。もちろんそういう行為を見込んでのことだった。結果として私は弱っているところに付け込んで事に及び、朝になってから積もり積もった想いを伝えることで彼の優しさに甘えた。酩酊をしていたか否かに関わらず、一度でも行為に及べば私が好きになった握野英雄という人物ならば責任を取ってくれるということが分かっていたからこそだった。
こうして長年片想いをしていた私は念願叶って握野の恋人になったけれども、それを手放しで喜んでしまえるほど私は自分本位なタイプではなかったらしい。真っ当な段階を踏んで付き合い始めたわけではないし、見ようによっては彼のことを嵌めたと言っても過言ではない。既成事実を盾に取って脅迫をしたとも言える。そんな風に彼を無理矢理縛ってしまったという負い目が、時間が経つに連れてじわじわと私を締め上げていた。それなのに私と会っている時の握野はそんなことを微塵も感じさせなくて、『恋人』として私のことを大切にしてくれるから勘違いをしそうになってしまう。彼も私のことを好きでいてくれているのかもしれないと、そんな幻想染みたことを考えてしまうくらいには。彼の中にある私に対する好意など、かつての同僚に向けるレベルのものでしかないと分かっているはずなのに。思わず夢を見てしまうくらいに肩書きだけの『恋人』であってもきちんと大切にしてくれる彼のそういうところがやはり私は好きで、だからこそ優しくされた分だけますます苦しくなっていった。
言うまでもなく、握野英雄は315プロタクションのアイドルだ。人気上昇中のアイドルである彼が一般人女性であるところの私と二人で連れ立って歩けば、その関係性如何によらずスクープの格好の餌食になる。加えてライブだけでなくCMなどのテレビ出演も増えてきており、撮影に練習と仕事のスケジュールも詰まっているはずである。誰が聞いても大変だと答えるであろう状況下で、それでも握野は私と会う時間を捻出してくれて、気づけばこの関係を始めて1年が経っていた。彼にこんなことをさせていてはいけないと思いながらも、結局は彼のことがどうしようもなく好きでたまらなくて『恋人』という地位を私は自分から手放すことができなかった。
「
、どこか具合悪いのか?」
「え、全然。元気だよ」
「今日会ってからずっと浮かない表情してる。体調悪いなら無理せず言ってくれよ」
「ううん、本当に大丈夫だから。せっかく握野が時間作ってくれたのに心配かけてごめん」
「謝られるようなことした覚えはないんだけどな、俺は」
慌てて「ありがとう」と言い直すと苦笑をしながら頭を撫でられた。握野に対して謝罪を口にすると、決まっていつも彼は困ったように笑う。私の中の彼への負い目は肥大化していて、ほんの些細なことでも彼に迷惑をかけたと感じると無意識の内に謝ってまうことが多くなっていた。けれど彼はそれを迷惑だなんて全く思っていないから、少しずつ、けれども確実に、私たちのずれは広がっていた。せっかく彼が時間を作ってくれたのだからという考えがそもそもいけないのも分かっているが、それでも彼と一緒に過ごしている間はこれ以上の心配をかけまいと暗い気持ちを頭から振り払う。ちらりと視線を向ければ、ん?と首を傾げて応えてくれる握野に『好き』という気持ちがまた込み上げてきた。それを誤魔化すように視界に入ったものを指差せば、彼の視線もそちらへと向かい納得したように「あれか」と呟きをこぼした。
「栄養ドリンクのCM、いつかはFRAMEかTHE虎牙道にオファーがくるんじゃないかなって思ってた」
「そこはやっぱり並列なんだな」
「315プロダクションの中で傾向とかイメージで分けると、大体の人はそうなるよ」
「なかなか一緒に仕事することはないんだけどな。そういえばこのCM撮影の時にプロデューサーがさ――」
何かを話しかけた握野の言葉を遮るように着信を知らせる音が鳴り響いた。自分のものではないし発信源はと見ると、握野がしまったというような顔をしてポケットの中を探っていた。
「悪い、音消してなかった。噂をすればプロデューサーからだ」
「出てきたら? こんな時間にかけてくるってことは大事な用事じゃないかな」
「ちょっと外す、悪いな」
「気にせずどうぞ、いってらっしゃい」
少し離れたところへ歩いていく握野の姿をぼんやりと見ていたところで、「もしもし、プロデューサー?」と電話に応答する彼の声と表情を見てはっとさせられた。それは今まで聞いたことがない弾んだ声で、見たこともない嬉しそうな表情だったから。1年前、失恋したという彼の話を聞いた時のことを思い出す。名言を避けられた仕事関係の人、翌日以降も顔を合わせる人。そういえば、再会をした時に笑顔もお手本がいると言っていた。思い返してみればそうと思えるだけの情報はこれまでに幾つも与えられていて、どうして今まで気付かなかったのかと思う。
握野が恋をした相手はプロデューサーだった。そして恐らく今も、その気持ちは変わっていないことは電話をしている彼を見れば明らかだった。見たこともない顔をしている握野を見て胸が締め付けられるように苦しくなると同時に、その時が来たのだと感じた。握野は一度振られたからといって、はいそうですか、と大人しく引き下がるようなタイプではない。相手の気持ちは尊重しつつ、それでも困らせない範囲で好意があることは伝え続けるだろう。そういう方向に彼を励ましたのは他ならない私自身だ。けれども、私という『恋人』の存在がある限り、彼はプロデューサーへの気持ちを押し込めてしまう。そういう不誠実なことができる人ではないから。
ずるずると彼の優しさに甘えて、自分の気持ちだけを優先して、始まってすらいなかったものを引き伸ばし続けたこの関係を終わらせるべき時が遂に来た、それだけのことだ。このままでは判断が鈍って伸ばし過ぎて遂にはぷつんと切れてしまったであろうものを、その前に終わらせることができただけで十分だと思わなくてはいけない。一年間、仮初めとはいえ彼から与えてもらったものは全て私の中に大事にしまわれているから、この先もこの思い出があれば大丈夫だから。電話を終えて戻ってくる握野の姿が見えて、私は膝の上で両手に力を込めて握り締めながら彼が戻ってくるのを待った。「ずっと言わなきゃいけないと思ってたことがあるの」その言葉を始めにありったけのありがとうとさようならを彼に届けるために。
2018/09/01 [title by 3秒後に死ぬ]