ボーダーラインへの侵犯
「コールドゲームだ」
その声はグラウンドに降りしきる雨と同じくらい冴え冴えと冷え切っていた。
恭介が、謙吾が、理樹と真人が立ち去り、残された彼女は一人思う。自分がこれから何をするべきなのかを。
立ち会いを求められた勝負は終わったのだから、今直ぐに寮の自室に戻り、シャワーを浴びて寝るべきだろう。頭では分かっている。
それでも、別の考えが心を占めるのを止めることは出来なかった。
どうしても、彼をこのままにはしておけない。それが自らの定めた境界線から一歩踏み出す形になると分かっていても、ほんの少しだけ、その背中を支えたかった。
濡れた髪をかきあげて現わになった彼女の眼は強い意志を宿し、迷うことなく女子寮へと走る。
戻るためではなく、必要なものを取りに行くために。
十数分後、彼女はある部屋の前に居た。濡れた制服は着替えたが、身支度らしいことと言えばその程度しかしていない。
遅くなって良いことなど一つもないと、最短時間で自室を出てきた。
「入るよ」
一声掛けて、目の前の部屋――恭介の部屋へと入る。同室者のことは気にしない、『今は』居ないと思ったから。
視界に入るのは、開かれたままのカーテンから差し込む薄暗い明かりに支配された部屋。
そこに、彼は居た。
上半身には何も着ておらず未だ濡れたままの髪からは雫が滴ってはいたが、一先ずシャワーは浴びているらしいことに彼女は安堵しつつ、電気を点けてカーテンを閉める。
適当にタオルを頭から被せると、そのまま無言で腕を取り、持ってきた救急セットで手当を始めた。
互いに視線を合わせないまま、時計の秒針の音だけが静かに響く。
先に口を開いたのは恭介だった。
「……責めないのか?」
「謙吾が十分にしてくれた。それに、誰よりも君自身が一番自分を責めている」
「楽にはしてくれないんだな」
「どんなことでもしてみせると、決めたのは君だよ、恭介」
いっそ責められた方が気が楽なのだろう。
勝利のために倫理を犯した人で無しだ、と。
むしろこうして何も言われないことこそが、彼を苛むことも分かっている。
それでも……いや、だからこそ、彼女は言えなかった。
どんなに辛くとも、この道を進むと決めたのは彼自身なのだから。引き返すことは最早許されない。
故に彼女に出来るのは、倒れないように彼の背中を支えて前へと押してやることだけだった。
「理樹は……どうした」
「真人と一緒に寮に戻ったよ。先に助言はしてある、だからきっと明日にでも行動するだろうね」
「そうか、結局あいつにはそれしか残らないんだな」
「それで全てが上手く収まるなら、良かったんだけれどね」
「現実がそれを許さない」
「そうだね」
だから、『此処』でも、許されない。
決めたのは彼だから、手を下すのも他ならない彼だ。
そうしなければ二人は生きていけないから。誰よりも二人を想うからこそ、二人を苦境に突き落とす。
悲しい顔はさせたくない、笑っていて欲しい。そんな当たり前のことをいつまでも願っていたかった。叶えていきたかった。
過酷な現実を突き付けられているのは二人だけではない、彼も同じなのだ。
今でさえ彼の心は悲鳴を上げている。これから更にその苦しみは増すだろう。二人を強くするためには、それだけのことが必要だから。
傷を治さないのは謙吾に対する彼なりのせめてもの贖罪だろう。
それでも、心の傷を癒すことは出来ないのだから、身体の傷だけでも治して欲しかった。
彼女には彼の心を慰めることは出来ないから。
巻き終えた包帯の上から腕にそっと唇を寄せる。決して言葉には出来ないけれど、彼を労るこの想いをほんの一欠片でも伝えたくて。
タオルを被って俯いたままの彼が果たしてこの行為に気付いているかは分からない。
例え気付いていたとしても、彼がそれについて言及することはないだろう。
そもそも、本来ならばこうして此処に来ることすらもあってはならないことなのだから。
手当という名目を掲げることで偽っているのだ、彼女も、そして恐らく彼も。
手当を終えてしまえば彼女にはこれ以上部屋に留まる理由は無い。
ふと眼に入った濡れたままの髪に伸びかけた手は、対象に触れる寸前でぐっと握り込まれた。
行き過ぎれば、戻れなくなる。
どんなに近付こうとも、決して触れ合うことはない。それが彼と彼女の決めた距離だった。
「では私は部屋に戻るよ。髪は早く乾かした方が良い、風邪を引く」
「お前だって濡れたままのくせに」
「私のことは良いんだよ」
「いいわけないだろ」
「良いんだ」
ここにきて、漸く顔を上げた恭介と視線が合った。
けれども、きっぱりと断言すると、彼女はその視線から逃げるように部屋を出る。
そして背中を扉に預けて、誰よりも自分自身に向けて言い聞かせるように続く言葉を吐き出す。
「……良いんだよ。今、大事なのはあの二人なんだから」
恭介からの試練を乗り越えて、二人は強くなれるだろうか。なって貰わなくては困る。
四人で世界を構成するにも限界がある、残された時間は僅かだ。
それにもう、これ以上痛々しい恭介は見ていたくなかった。
こんなにも傍に居るのに、何一つ出来ることがない。
それを決めたのは自分なのに、今はただ近過ぎるこの距離が恨めしい。
何よりも望んでいたはずの場所が、そう思えてしまうほどに、どうしようもなく無力な自分が疎ましかった。