彼女にとっての罰
女子寮の一角に設けられた家庭科部の部室。
この学園において恐らく唯一畳のある部屋であるのだが、訪れる者は限られている。
既に半ば引退している身ではあるが寮長の所属している部活であることを考えれば、この閑散とした状況は不思議にも思える。
しかし、訪れる者が少ないことで、ある種の隠れ家めいた様相を呈し、重宝されつつもあった。
人知れず、ゆっくりと時間を過ごせる場所。
部屋の主である家庭科部の唯一に等しい活動部員は、お茶とお菓子で訪れる者をもてなしてくれる。
自分の作ったもので、少しでもくつろいでもらえるならば、それが彼女にとっての幸せであるのだろう。
だから、今も眼の前で紅茶を味わう相手を見て、彼女は笑顔を浮かべているのだった。
「さんがこちらにいらしてくれるなんて、珍しいのです」
「前触れもなく突然来てしまって済まなかったね。出直しても良かったんだが……」
の視線は机の脇に置かれたものに向けられる。
それは先程まで机の上に広げられていたクドの習字道具だった。
彼女の訪問が、ここで一人静かに書に励んでいたクドのその行為を中断させたのは明らかである。
「いえいえ。書道はいつでも出来ますが、さんをお迎えするのは今しか出来ませんから。さんがお忙しいことは知ってますし、このチャンスを逃してはならないと思ったのですよ」
「しかし、せっかく墨から擦ったのだろう? 急ぐ用事でもないし、私のことは気にせず書いてくれて構わないよ。能美嬢が書に励む姿も見てみたいしね」
「墨を擦るのは気持ちを静めるための手順のようなものですから、もったいない、ということはないのですが。でも、お言葉に甘えて1枚だけ書かせてもらいます」
が作ったスペースにクドは手慣れた様子で習字道具を並べていく。
そして真っ直ぐに置いた半紙に流れるような動作で筆を動かしていった。
書き上がったのは、一文字の漢字。
「『慮』か。純粋な日本語であるにも関わらず、半濁音が混じっている珍しい言葉だね」
「そうなのです。『思う』だけとはまた違った意味合いが感じられて、とても印象に残っている言葉です」
「では、能美嬢は誰かのことを慮ることはあるかい?」
「はい。皆さんのこと、おかあさんやおじいさま、おばあさまのことなど、いつも慮っているのです! さんは、どうなのでしょうか?」
「私も似たようなものだよ、リトルバスターズの皆のことなどをね。あとは、将来についてかな」
慮る。思いを巡らせる。
考えても栓の無いことだと分かっていても、将来、2年後のことをは考えずにはいられなかった。
時が来てしまえば、皆を思うことさえも叶わなくなってしまうだろうから。
そもそも、それを簡単に割り切ることが出来ていたならば、彼女は今この場所には居ない。
恐らくこれから先もこれまでの1年間と同じように、どうしようもない未来について考えることを止めることは出来ないのだろう。
「はぁー将来のことですか。わたしなんて今のことで精一杯です」
「今はそれで良いんだよ、私が少し特殊なだけさ。それに君には此処を卒業した後には向こうに戻るかどうかという難しい問題もあることだしね」
「そう言っていただけると、少しは気が休まるのですが……」
「君の場合はただの寮生活とは違うからね、国を越えて離れて暮らしている。それなりの事情があるというのも知っているが、ご家族に会いたくないというわけではないのだろう?」
「もちろんです! 出来るなら、一緒に暮らしたいとは思っていますが、私のわがままになってしまいますので」
「それでも君が一緒に居たいと望むのなら、拒まれることは無いと思うよ。とは言っても、能美嬢自身にこちらに残りたい事情があるというのならば、話は別だがね」
「わふ? 何のことでしょうか?」
「……いや、気にしないでくれ」
それが隠しているのか、はぐらかされているのか、には判断は付かなかった。
何となく鎌をかけてみただけであるので、彼女もこれと言って追求したいわけではない。
それに、目的は果たしたのだから、これ以上の長いは彼女にとっても無用だった。
「さてと、大体の用事は済んだからそろそろ私はお暇させて貰うよ」
「はーさんの用事が何だったのか私にはさっぱりです」
「君とこうして会話をすることが私の用事だったんだよ。今年からの転入生の様子はどうだ、という話が生徒会の方で上がってね。知り合いである私の方が君の普段の様子を見れるということで役が回ってきたというわけさ」
「なんと、お仕事だったのですね!」
「仕事、というには随分とゆっくりさせて貰ったけれどね。美味しいお茶も頂いたことだし、ごちそうさま」
「お粗末様でした」
「それと、もう一つ。これは寮長からの頼まれものだよ」
立ち去る準備をしていたが鞄の中から取り出したのは一通のエアメールだった。
それがどこから来たものなのか、改めて問う必要もないだろう。
「どうにも、寮の他の子の郵便物に紛れ込んでしまっていたみたいでね。宛名もロシア語で書かれていることから誰宛なのか分からず手間取ってしまったらしい。寮長は手が放せないというから、代わりに預かってきたんだよ」
「わざわざありがとうなのですー」
「既に本来君の元に届く予定だった時から大分遅くなってしまっているからね。寮長も随分気にしていたよ。ついでに家庭科部の様子も見てきて欲しいという依頼があったのも、此処にお邪魔させて貰った理由の一つかな」
「寮長さんにはるーむめいとの募集や部活のことなので大変お世話になっているのに、こんなにも気に掛けていただいて何だか申し訳ないのです」
「彼女が好きでしていることだから気に病むことは無いと思うよ。でも、能美嬢が御礼に何か作って差し入れしたら喜ぶんじゃないかな。寮会はいつでもお茶菓子は歓迎しているようだし」
「それはいいことを聞かせていただきました! 今度、寮長さんには御礼にうかがおうと思います」
この影のない笑顔を見る限り、彼女の学園生活は滞りなく進んでいるとみて問題ないだろう。
ホームシックなどにかかっている様子も見当たらず、現在の生活において大きな問題を感じていることもない。
そう結論付けて、は家庭科部の部室を後にした。
それはまだ、4月のカレンダーをめくったばかりの頃の話だった。
なくしてなくされてしまったのは、愛してくれた人。
壊してしまったのは、彼女。
だからきっと、許しを求めていた。