あの場所は君にこそふさわしい
時刻は夕方を回り、辺りはオレンジ色に包まれている。
試合を終えたリトルバスターズの面々も各自の部屋で今日の疲れを癒しているだろう。
その胸の内は勝敗に関わらず満ち足りているはずだ。
――ただ一人を除いて。
夕焼けは剣道場をも赤く染め上げている。
今日は土曜日であり昼から練習があったため、他の部員は既に切り上げて帰ったのだろう。
謙吾は一人、竹刀を振るっていた。
それを邪魔してまで話し掛けるつもりはない。
は入口に背を預けると、竹刀が風を切る音に、磨かれた板張りの床が踏み締められる音に、耳を傾ける。
そうして暫く待っていると、道場内に静寂が訪れた。
「俺になんの用だ」
その呼び掛けで許しを得たと判断したは、靴を脱いで道場に足を踏み入れる。
本来ならば靴下まで脱がなくてはいけないのだろうが、その程度のことは大目に見て貰いたい。
彼女のそんな心情を知ってか、ちらりとその足元に目を向けるが謙吾は何も言わなかった。
「今日のリトルバスターズの試合結果でも報告しようと思ってね」
「必要ない。結果は見えているからな」
「確かに結果は君の想像している通りだろうけれど、何もそこまで言い切らなくとも良いだろう。万が一ということもある」
「有り得ない。勝てるわけがない」
尚も謙吾は断言する。
それは知っているから。これまでがそうであったのだから、変わるわけがないのだと。
ならば、リトルバスターズに勝機は無いのか?
否、ある。そのことは他の誰よりも、彼自身が一番理解しているはずだ。
「今のままではリトルバスターズは勝てないなら、どうすれば良い? 君はその答えを知っているだろう?」
「俺には関係のないことだ」
「嘘だ」
その言葉は道場内に響き渡った。
反響した音は波打つような感覚をもって身体に伝わる。まるで染み込むように。
「意地を張るのもそろそろ終わりにするんだな。君がどんな選択をしようと、私達はそれを責めたりなんてしないよ、謙吾」
「……簡単に、言ってくれるな。全部無駄だったからと投げ出すなんてこと、俺には……」
「何が一番したいか。君の気持ちに素直になれ、それだけだ」
「なら、おまえは素直になったから、あそこに居るというのか?」
投げ掛けられた問いはに次の言葉を詰まらせた。
素直になったからリトルバスターズの野球に参加している?
それもある面から見れば一つの事実だろう。あの頃から一緒に居たいとは思っていたのだから。
けれど、それは本質ではない。
もしも彼女が自分の気持ちに素直になるのならば、『世界』は歪んでしまうだろう。
故に、彼女はそれを秘める。
今までだってそうしてきたのだから、何も難しいことではない。
だからは今、自分に出来ないことを謙吾にやらせようとしていることになる。
全てを知る者がそれはなんて滑稽なのだろうか。
しかしそれでも彼女は自身の願いを明らかにすることは決してないのだろう。
そして今はただ、この天邪鬼な幼馴染を説得することだけを考えている。
これが最後なのだから。
彼には悔いの残るような時間は過ごして欲しくなかった。
「そうだね。混ざりたいと思っていた、だから混ざった。実にシンプルだろう?」
「もし……俺が加わるとすれば、誰かが試合に出られなくなる」
「その時には私が抜けるさ。元々、君の穴埋めのつもりで始めたことだからね」
「だが、おまえも一緒にやりたかったんだろう?」
「謙吾が決め兼ねている間に十分堪能させて貰ったよ。試合直前の金曜日まで君が参加出来る余地を残しているというのに、いつまで経っても来ないから。流石に痺れを切らして、直接言いに来たというわけだ」
何よりも、これ以上あの中に居ては気持ちが溢れてしまいかねないから。
謙吾のためだと大義名分を掲げながら、結局は自分の都合なのかもしれない。とは胸中で苦い思いを噛み締める。
大切な幼馴染ですら自身の都合に付き合わさせるとは、我が事ながらほとほと呆れずにはいられなかった。
彼女のそんな心情に彼は決して気付くことはないだろう。
決して、気付かれてはいけないのだから。
この想いは墓場まで持って行く。
それは大袈裟でも何でもない、あの時からが心に決めたことだった。
「本当に、いいのか」
「言っただろう。私達はそれを責めたりしない。あとは謙吾、『君がどうしたいか』、それだけだ」
「俺は……」
ぐっと握り締めたその手には竹刀がある。
彼のこれまでの全てで、これからも全てだった筈のもの。
それは唐突に訪れた。そして全てを奪っていった。
意味など無かったのだと、彼はこれまでを否定された。
何よりもひたむきに打ち込んできたからこそ、謙吾が受け入れられなかったのも分かる。
『こんなことなら』
そう思えることがあるのならば、今からでも遅くはない。
好きに、過ごせばいい。
「俺は……皆と遊びたい」
からんと音を立てて、手から滑り落ちた竹刀が床に転がった。
止まった世界。もう二度と動くことはない世界。
それでも今はまだここで、あたたかな夢を見る。
この世界が消えるまでは。