会いたくて伝えたくて、ここにいる
芝生が整備されている中庭や裏庭に対して、校舎裏を訪れる者は少ない。その多くも必要に応じて足を運んでいるだけに過ぎなかった。
その手にごみ箱を持ったにどのような目的があるのかも述べるまでもないだろう。
焼却炉を開けてごみ箱の中身を捨てる。用事が済めばこの場所にはもう用などなく、もそのまま立ち去るつもりであった。
しかし、ぴたりと動きを止めて何かを探るように顔を巡らせた後、ごみ箱をその場に残して校舎の角の先へとは足を向ける。
焼却炉からは死角となったその場所には、木に向けて声を掛ける少女が居た。より正確に言えば、木に登っている一匹の黒猫に対して彼女は声を掛けていた。
「まったく、どうしてそんな所に登ってるんですの。あなたの怪我はまだ治ってませんのよ?」
「にゃあ」
「分かってるのでしたら降りてきてくださらないかしら」
「うなー」
「・・・そうですわね、わたくしだって分かってますわ。だから、どうして登ったのかと言ってるじゃありませんの。わたくしは、貴方をそこまで迎えに行くことが出来ませんもの」
言葉は厳しいものであったが、その顔に浮かぶ表情は彼女の本心がどこにあるかを如実に表している。気付いてしまった以上、には見て見ぬふりをすることは出来なかった。
木は掴む所もあり決して登り難いというわけではなく、当の黒猫もそれほど高い場所に居るわけでもない。スカートであるという点を除けば、女子高校生にだって登ることは可能だろう。
『彼女』にそれが出来ないとは思わない。ならば他に理由があって彼女ではあの猫を連れ戻すことが出来ないのだと、先程の言葉もその考えを裏付けていた。
「どうやらその猫、降りられないようだね」
「っ・・・・・・貴女、いつからいらっしゃったんですの」
「ほんの少し前だよ。手が必要そうなので声を掛けさせて貰ったんだけれど、どうかな?」
「どうするつもりですの」
「君が行けないのならば別の人間が行けば良い。私が登るから君は下で猫を受け止める、というのは?」
「せっかくの提案ですが無理ですわ。わたくし、猫に触れませんの」
「そうか。なら、一人で何とかするとしよう」
言うや否や、彼女の反応を待たずには幹に足を掛けていた。思った通り掴む所の多い樹は登り易く、猫の居るところまで難なく辿り着く。
しかし警戒するようにこちらを睨む猫は、そっと手を差し伸べると逃げるように枝の先へと行ってしまった。
猫と人間では重さが違う。が猫を追えば、重みに耐え切れなくなった枝は容易く折れてしまうだろう。下からこちらを心配気に見守る彼女のことを思えば、無茶はすべきではないのかもしれない。
だからと言って、目標が直ぐ目の前に居るというのに引き下がるわけにもいかなかった。
「一か八かの賭け、か・・・・・・あまりそういうことは好きではないんだが」
時にはそうせざるを得ないこともある、それに覚悟さえ決めてしまえば難しいことではない。僅かな間に心を決めると、次の瞬間にはの身体は走り出していた。
ばきっと音を立てて枝が折れ、宙に放り出されるその刹那、しっかりと視界に捕らえた目標を腕に抱える。
華麗にとまでは言わないが、最低限の対処をして着地を決めるまで、僅か数秒の出来事だった。
その光景を呆気に取られたように注視していた彼女は我に返ると、足に掛かった負担から未だしゃがみ込んでいるの元へと走り寄ってきた。
「な、何を考えてらっしゃいますの!?」
「手を貸すと言った手前、そのまま降りるわけにもいかないだろう? あの状況ではこうする以外に無かったからね」
「上手くいったから良いようなものの、一歩間違えれば貴女もその子もただでは済みませんでしたのよ!」
「そんなに大した高さじゃない、少しくらい着地に失敗したとしても大事にはならないさ。それに、もしも私が捕らえ損なったとしても、君が受け止めてくれると信じていたからね」
「わたくしは猫に触れないとつい先ほど申し上げませんでしたかしら?」
「どんな理由があって触れないのか知らないが、もしも目の前で危機に瀕している猫が居るとしたら、君は手を延ばさずに静観するような人間では無いと思っているよ。そうだろう、笹瀬川佐々美嬢」
腕に抱えたままだった黒猫を地面に放すと、は立ち上がる。
漸く痺れの収まった足の調子を確かめるように動かす様子をじっと見ていた彼女――佐々美は入れ替わるようにその足下にしゃがみ込んだ。
「ご存知でしたのね、わたくしのこと」
「2年生にしてソフトボール部のエースで4番、知らないわけがないさ」
「ええ、そうですわね。生徒会役員である貴女ならばそのくらい知っていて当然のことでしたわ、さん」
「名前を知っていてくれたとは光栄だね」
「1年で生徒会に勧誘された貴女のことを知らない人間はそれこそこの学年には居ないのではなくて? そうでなくても、貴女方は目立ちますもの」
「騒がしい、という自覚はあるよ」
「自覚があるのでしたらそれ相応の対処をしたら如何?」
確かめるようにの足に触れていた手を放すと、立ち上がってその長い髪を払う。あまりに自然なその動作はとても良く似合っており、言葉遣いと相まって彼女の育ちの良さを伺わせる。
「見たところ、問題は無いようですわね。時間が経ってから異常が見られるようでしたら、適当な処置で済まさずきちんと保健室に行くことをお勧めしますわ」
「変に心配を掛けてしまったようだね、有難う」
「べ、別に・・・・・・ソフトボール部の練習では足を痛めるのは良くあることですもの。そういった際にはなるべく早い対応が肝心ですから」
「うん。だから有難う、と」
率直に告げられた感謝の言葉に照れたように顔を背ける佐々美を見ながら、ああ良い子だな、と思う。そして、こんな子が友達になってくれたらあの幼馴染の人見知りも少しは改善されるだろうに、と。
の考えに呼応するように、何処かへ走り去ったはずの黒猫が音もなく戻ってくると佐々美の足下をうろうろとし始めた。
「その猫は君のなのかな?」
「違いますわ。先日、偶然見つけただけですの」
「君が世話を?」
「ですから、わたくしは猫に触れないと再三申し上げているでしょう? ルームメイトの子に手伝って貰って・・・・・・って、そんなことどうだって構わないのではなくて!?」
「君が猫を好きならば、うちの幼馴染と仲良くなれそうなのにな、と思ったのでね」
「棗鈴のことでしたら、申し訳ないですけれどお断りですわ。わたくし、彼女とは仲良く出来そうにありませんもの。
何より――わたくしは猫が嫌いですの」
嫌い。と、そう口にする割に佐々美の浮かべる表情は嫌悪とは程遠いものだった。あるのは後悔、そして切ないくらいの慕情。
嫌いという一言では説明の付かない何かが彼女の中にあるのは明らかで、けれどもは追求しようとは思わなかった。
受け入れる余裕も無いのに踏み込むのならば、ただの興味本位と変わらない。例外は相手が聞いて欲しいと思っている場合のみであり、判断が付かなければやはり無闇に踏み込むべきではない。
誰よりも自分自身がそうであるからこそ、はそのことを身を以て知っていた。だから、敢えて逸らすのだ。
「猫は嫌い、か。それでは君の猫でもなく、君が手当をしているわけでもなく、猫が好きではない。そんな君にその猫が懐いているのは何故なんだろうね?」
「わたくしが知っていると思いまして」
「猫の言葉が人に通じるならば或いは。今のは冗談として、仮定の話をしてみようか」
「それに何の意味があるんですの?」
「強いて言うのなら、私の個人的な問題と少しばかり関わりがある。協力してくれないかな?」
「手を貸して頂いたからには断れませんわね」
仮定と言うほどのことでもない、ただの憶測。状況から鑑みて、誰もが考え付きそうなことをも考えたに過ぎない。
そして憶測に過ぎない事柄に、ほんの少し自分を重ねて合わせてしまっただけだ。
「例えばだ、この猫は君のことを以前から知っているとしよう。故に今こうして君に懐いている。そして邪険にされても君の元へとやってくるのは何か伝えたいことがあるから。そうだとしたら笹瀬川嬢はどうする?」
「有り得ない話・・・・・・ですが、そもそも仮定の話ですものね。一つだけ質問ですわ。わたくしに何かを伝えて、それでどうするつもりですの?」
「伝えることが目的だからそれが済めば君の前から姿を消すだろうね」
「そうですの。でしたら、一方的に告げられる側はたまったものではありませんわね。自分だけ言いたいことを言って居なくなるなんて、そんな言い逃げわたくしは許せませんわ」
「そう・・・・・・君の言う通りだろうね」
言いたいことを言って勝手に居なくなる。そんなのは正しく『言い逃げ』だろう。残される相手のことを考えない身勝手な行動、それが救いになるのは極僅かな場合だけだ。
もしもこの仮定が事実であるならば、『彼女』は少なからず救われる。しかしほとんどの場合において残された側に与えられるものは幸福とは言い難い。
そんなことは、最初から分かっていた。それでも、分かっていても、彼女は会いたかったのだ。
「さて、くだらない話に付き合ってくれてありがとう。恩を着せるような形になってしまって済まなかったね」
「べ、別に、これくらいのこと・・・・・・」
「そうそう、ソフトボール部の内情については生徒会にとっても長年の懸案事項でね。君の進めている改革に助力が必要な際にはいつでも言って欲しい」
「そんなことまでご存知ですのね。その申し出は有り難いですけれど、わたくし一人で十分ですからお気になさらず」
それは残念だ。というように肩を竦めてみせると、は来た道を戻り始めた。
大した距離でも無いのでほどなくその背中は曲がり角へと消えるだろうと思われたが、ふと何かを思い出したかのように佐々美の方を振り返った。
「最後に一ついいかな?」
「今度はなんですの?」
「笹瀬川嬢、というのは流石に呼び難くてね。佐々美嬢と呼んでも構わないかな?」
「・・・・・・好きになさればよろしいでしょう!」
顔を真っ赤にしながら叫ぶ佐々美にひらりと手を振ると、今度こそは角を曲がる。
背中にじっと見詰める視線を感じながら、『彼女』はきっと大丈夫だと小さな確信を抱いていた。
もう同じ時を生きていくことはできないけれど。
会えてよかった。
そう伝えたくて、戻ってきた。
一緒に過ごした時は本当に幸せだったから。