戻る

恭介に抱えられて女子寮まで来た頃には予鈴も本鈴も鳴り終わっており、昼休みは終わり5時間目の授業が始まっていた。それもあってか女子寮からは人の気配は全くせず、寮母さん以外の誰かに見咎められる心配はなさそうであった。しかし、恭介は授業に出なくても良いのだろうか、と今更ながらの疑問が浮かぶ。恭介が授業に出ると言い出せば困るのは私であるのだが、言ったところで恭介は適当な理由を付けてはぐらかすのだろう。就職活動をしている割に、時々彼は内申点というものを知らないのではないかという気にさせられる。そんなものに左右されるようになったら、それはもう棗恭介ではないのかもしれないが。

「にゃ(ところで、恭介)」
「なんだ?」
「うにゃー(何処から入るつもりだ?)」
「無論、窓からだ」
「みゃあ……(聞くんじゃなかった。2階の踊り場辺りなら恐らく開いているよ)」
「文句は言いつつも、きっちり教えてくれるんだな」
「にゃー(幼馴染が不法侵入で捕まるのは流石に嫌だからね)」
「じゃ、しっかり掴まってろよ」

玄関を避けるようにして階段前に立っている木の根元まで行くと、中庭から足元についてきていたレノンを恭介は拾い上げて自分の左肩に乗せる。私はと言うと反対側の右肩に乗せられていた。重くないのだろうかとは思うものの、猫を抱えたままでは木を登ることは出来ない。猫を連れて2階の窓から侵入するためにはこれが最善の方法であるのだろう。体重を掛けても折れなさそうな枝を確認しながら恭介は身軽に木を登っていき、目的の窓まではあっという間だった。唯一の問題は、私の提示した窓が恭介が通るには若干小さめであったということくらいだろう。理樹のように小柄であれば通るのも容易であっただろうが、それなりにしっかりとした身体つきである恭介が通るためには幾らか工夫が必要であった。

私と鈴が男子寮のそれぞれの部屋を把握しているように、私と鈴の部屋を彼らも知ってはいる。しかし男子寮に女子が入るのは容易いが、女子寮に男子が入るのは不可能に近い。そうした事情もあって私が先導する形で廊下を進み、幾つかの扉の前を過ぎたところで目的の部屋の前で立ち止まり此処であることを伝える。恭介が何の躊躇も見せずに開けた扉を潜りながら、そう言えば彼が「私の部屋」と呼べるような場所に来るのはこれが初めてだったなと、栓の無いことが頭を過ぎった。

「うなー(同室の子も居るから、あまり荒らすなよ)」
「分かってるっての。お、良かったな、。お前の身体はちゃんとベッドで寝てるぞ」

そう言って恭介が指で示した先には確かに私のベッドに横たわっている私の身体があった。自分は確かに此処に存在しているのに、それとは別に良く見知った自分の身体があるというのは何とも不思議な状態である。軽く跳躍をしてベッドの上に登り、眠っている自分の顔を覗き込む。口元からは微かに呼吸音がしており布団に覆われた胸元も上下していることから、仮死状態でも何でもなく本当にただ寝ているだけなのだと分かる。人間を人間たらしめているのは、身体と心の両方が揃ってこそだというのは何の定義だっただろうか。眠り続ける自分の顔を見ていたら、そんなことを思い出した。

「あとはの意識をこっちに戻せば良いだけだ」
「にゃーにゃー(簡単に言ってくれるな。自分は此処に居るのに本当はそっちにあるべきなんて思えない)」
「だろうな」
「みゃあ(恭介はいつもどうやってるんだ?)」
「あー……俺の場合はレノンは役割を決めた上で自分で生み出したからな。レノンになる、っていうよりレノンに意識を分けてる感じだから」
「にゃ(つまり?)」
「俺も完全に身体から意識を移したことはないから分からん」
「うにゃ(役立たず)」

横たわっているこの身体は自分のものであるとはっきり断言することは出来る。ただ、此処に居る私もまた自分なのだ。所謂、幽体離脱のような状況だと思えば早いだろう。身体は寝ているのに意識が別の場所で起きている状態。しかしこれは夢などではなく、意識の方にも猫としての身体があるということが異なってはいるが。この身体は何かに触れればきちんと感触があり、何かを口にすることも出来るのだ。分かれてしまった意識を身体に戻すというのとは訳が違う、確固とした一つの生命として存在しているのだから。不安があるとすればその点だ。私の意識が元の身体へと戻った際にはこちらの身体はどうなるのだろうか。ただの猫へと戻るのか、それとも最初から存在しなかったものとして消えてしまうのか。レノンとは違って何のために生まれたのかという明確な役割が私自身にも分からない。目覚めた時には既にこの身体であったから、その誕生の瞬間を知らないから。それ故に、自分の意思だけで意識を戻すというのは私には不可能なことのように思えてならなかった。

恭介ならば或いは私には思い付かない方法を考えつくだろうと隣に立つ恭介を見ると、何かを思案するようかのように彼は横になっている私の顔をじっと見詰めている。見られているのは私なのに、私はそれを客観的に見ている。まるでそれが他人事であるかのように。そんなことを思ってしまうから、私は意思はあちらの身体に戻れないのかもしれない。

「うなー(恭介、何か良い考えでも思い付いたのか?)」
「まぁ、無いこともない」
「にゃ(あるのか?)」
「だから言ってるだろ。あるにはあるが、あまり気は進まないんだ。出来るなら俺もこの方法は使いたくないんだが」
「みゃー(こちらとしては手段を選んでいられる場合ではないんだよ、恭介)」
「はぁ……分かった。はこっちの身体が自分のものであるという自覚はあるが、その身体から意識を切り離すことに抵抗があるってことだろ?」
「みゃあ(そうだ)」
「なら、こっちの身体に強制的に意識を戻せば良い。つまり、こちらの身体を動かさざるを得なくなる状況を作れば良いってことだ」
「にゃー(理屈は分かるが、具体的にどうするつもりなんだ?)」
「…………眠り姫を起こす方法は昔から一つだろ」

恭介は私の身体を避けるようにして枕元に手がついた、何をしようとしているかなんて聞くまでもない。ああ、確かにこれはこの身体では止めようがない。私が彼の手を引っ掻こうとも、その腕に噛み付こうとも、彼はきっとこの行為を止めようとはしないだろう。あくまで手段としてなのか、それとも違う何かがあってのことなのか。そこにどんな感情があるのかは私には分からない。ただ、例え全てが『ここ』限りの出来事であったとしても、私の姿が猫になろうとも、それは絶対に何があっても越えてはいけない一線だから――

ぱしりと乾いた音が部屋に響いた。

「……今回は私が招いた事態だ。だからつべこべ言うつもりはない。でも、こういう冗談は今回っきりだ」
「分かってる。俺だってこの方法は気乗りはしないって言っただろ?」
「そうだね、私が無理矢理押し切ったようなものだ。色々と悪かったとは思っているよ」
、俺は別に……」
「言わなくても良いよ、分かっているから。でも、今はとにかく謝らせて欲しい」

いつになく近い距離に恭介の顔があって、その表情も瞳の奥もはっきりと見えてしまうから。彼の考えていることも分かってしまって、何も言って欲しくはなかった。恐らく恭介にも、私の考えていることなど全て伝わってしまっているのだろう。お互いに分かっているから、言わなくて良いこともある。むしろ言ってしまえばそこまでなのだから、それもまた越えてはいけない境界線なのだ。

「お取り込み中のところ悪いが、昼間から何をしてるんだ君達は」
「来ヶ谷さん、それを聞くのは野暮というものではないでしょうか」
「……ごめん、二人共。邪魔するつもりはなかったんだけど」
「理樹が謝ることではないだろう」
「いやー恭介さんが先に行ってるとは聞いてたけど、まさかこんな展開になってるなんて流石のはるちんも思いもしませんでしたヨ……たはは」
「な、な、なにしてるんじゃ、このばかあにきー!!」

不意に掛けられた声に恭介共々びくりと反応すると、扉には何故かリトルバスターズの面々が揃っている。言葉では批判をしつつも口元は緩く曲線を描いていることから中でも来ヶ谷嬢だけは、この状況を全力で楽しんでいるようだった。こちらに疚しい所は一切無いのだが、状況から見れば言い逃れのしようもない。私が先ほどまで皆と会っていた猫であったなどと本当のことを言ったところで、まず信じて貰えはしないだろう。さてどうするかと頭上の恭介を見上げると、彼はくいと顎で二匹の子猫達を示す。ベッドの陰は扉からは死角となっており、蹲っている猫達は未だに彼らには見えていない。それだけで言いたいことは伝わったと分かったのであろう恭介が身体を起こして体勢を戻すと、まるで時が動き出したかのようにそれまで入り口からこちらを覗き込んでいた彼らも部屋へと入ってきた。

「ちなみに、刺激が強かったらしい数名は既に逃走済みだ」
「無駄だとは思うが一応言っておくと、誤解だ」
「うっさい! どっからどう見てもおまえがのこと襲ってただろうが!!」
「いや、恭介はバランスを崩して倒れただけだよ」
「この障害物が見当たらない部屋で、一体何に躓いたのでしょうか?」
「躓いたんじゃない、避けようとしたんだ。こいつらをな」
「あれ、レノンと……さっきの猫?」

ベッドの陰から出てきた二匹の内、にゃーと答えるように鳴いたのは果たしてどちらだったのか。ごろごろと互いにじゃれ合うように遊ぶ二匹を見ていれば、そんなことは些細な問題でしかなかった。なるほど、この様子を見ていれば鈴が猫に首っ丈になるのも分かるというものだ。場は既に先ほどの気まずい雰囲気から、二匹が無事に再会出来たことを喜ぶようなものと変わっている。一部の人間はまだ追及したそうな顔をしているが、この和気藹々とした空気を敢えて壊すような真似はしないだろう。

「そういえば、どうして皆は此処へ?」
が連絡もなしに休んでるから、様子見に来たんだよ。もしも身動き一つ出来ないほどに疲弊してるんだとしたら困るでしょ?」
「心配を掛けてしまったかな。でも大したことはないんだ、季節の変化に身体がついていけなかっただけだろう。携帯が少し離れたところにあってね、わざわざベッドを抜け出して連絡するのが億劫だったんだ」
「持ってきたスポーツドリンクは机の上に置いておくぞ。水分補給だけはしっかりとして、後は休め」
「助かる。ありがとう、謙吾」
くんに必要なのは十分な休息だな。どうやら、我々はお邪魔なようだから早々に退散するとしよう」
「そうだ、鈴。ちょっと待って」
「なんだ? 何かあたしに用でもあるのか?」
「うん。あの子達を一緒に外に出してあげて欲しいんだ。いつのまにか部屋に入ってきてしまっていたみたいだから」
「分かった」

なおも床でごろごろとじゃれ合っている二匹を邪魔しないように抱え上げると、チリンという音を一つ残して鈴も部屋を出て行った。後に残ったのは恭介だけだ。皆が出て行った以上、恭介もそう長く残っているわけにはいかないだろう。言いたいことは色々あるけれど、口にすべきことはこの一言だけだった。

「今日は迷惑掛けたね、恭介」
「これと言って迷惑を掛けられた覚えはないんだけどな」
「よく言うよ、君だってもう気が付いているんだろう。どうして私が今日一日猫になっていたのか」
「悪いが、俺には思い当たる節がない」
「……そうだね、私にも本当はどうだったのか分からない。でもきっとこれも『今回』だけだ」
「あぁ、それについては俺も同じ意見だな。ほら、もう寝ろ。体調は悪くなくても今日は色々あったから疲れてるだろ」
「確かにそうかもしれない。身体は動かしていないけれど、気持ち的には随分と疲れたような気がするよ」
「心が疲弊すれば身体も疲弊するもんだ。おやすみ、
「うん、おやすみ。恭介」
「…………今回はおまえのせいじゃない、起こしたのは俺だ。だから、お前が謝る必要はない。それが言えるんなら、そもそもこんなことになってないんだろうけどな」

目覚めた時にはまた世界は変わっているのかもしれない。いつかきっと今日のことも忘れてしまうのかもしれない。それでも、今はまだあの暖かな手の温もりを覚えている。

夢の中で白と灰色の子猫達が楽しそうに遊んでいる。いつまでも、いつまでも。