And, what was left behind her

 次に目覚めたのは白い世界だった。一面が白に塗り潰された何もない場所だったというわけではない。ただ、目を開けたが最初に受けた印象は『白』だった。ここは何処なのだろうか。ぼんやりと霞が掛かったような頭では当然の疑問を抱いていた。最後に意識を手放す前に自分は何をしていたか、何が起きたのか。どうしてかはっきりとは思い出せないそれらについて考えていた彼女が直ぐ近くに座っている人物に気付いたのは暫く経ってからのことだった。彼がここに居るわけがない、ならばこれは夢なのだろう。或いはついさっきまで自分が現実だと思っていたものこそが夢なのかもしれない。そんな胡蝶の夢のようなことを考える彼女に、彼はかつてと変わらない声音で語り掛けるのだった。

「おはよう。目が覚めたんだね、
「やっぱり、お兄様なんですね……。なら、私は夢を見ていたのかもしれません」
「そう。どんな夢だった?」
「外に出て、普通の学校に通っていました。けれど修学旅行の途中で事故に遭って、生き残る二人を助けるために皆で世界を作りました。最後には強くなった二人を見送って……それで、終わりです」
「その夢の中では幸福だったかい?」
「はい。とても、幸せでした」

 それなら良かった。そう言った彼の声はまるで自分のことのように、心から嬉しそうなものだった。未だに明瞭とは言い難い頭ではあったが、それでも今のやり取りには言い様のない違和感を覚えていた。こういう時の兄は彼女に対して決まって同じ動作をしてくれたような気がする。それに、よくよく見てみれば彼の姿は彼女の記憶しているものと幾らか違っているようにも思えた。噛み合わない何かを突き止めるために『ここは何処なのか』という当初の疑問をが口にしようとすると、手でそれを制される。その手の持ち主は彼女の訝しげな視線を受け止めると、分かっているという風に一つ頷いてみせてから徐に説明を始めた。

「さて、はまだ目覚めたばかりで混乱しているようだから僕から今の状況を説明しよう。まず、ここは病院だ」
「病院…… ?」
「君は意識不明の重体で運び込まれて、1週間昏睡状態にあった。2日前に意識の回復が認められて漸く集中治療室から一般病棟に移されたが、今もまだ絶対安静ということになっている。身体、動かせないだろう ?」

 そう言われてが試してみると、全く動かせないというわけではないが何処かぎこちなく、所によっては痛みが走った。この身体は確かに深刻なダメージを負っているようであり、意識不明の重体であったということも嘘ではないのだろうと分かる。そして、少しずつ機能し始めた頭で彼女は考える。ここは病院で、自分は怪我をして運び込まれた。ではその怪我はいつ何処で負ったものなのか。考えられる答えは一つしかない。先ほど彼女が『夢かもしれない』と考えた何もかもが『現実』だということだ。そう認識した途端、の思考はただ一点のことに染め上げられていった。

「皆は、理樹と鈴は、他は皆はどうなったんだ? 無事なのか!?」
「はい、興奮しない。まずは落ち着いて」
「これが落ち着いていられるわけがないだろう!? 良いから教えてくれ、兄さん!」
「やっぱりさっきは夢現だったんだね、。10年という月日がもたらした変化をこうもまざまざと突きつけられると、僕も負い目を感じるよ」
「そんなことは今はどうでもいい。皆はどうなったのか、それだけを教えて欲しい。どんな答えでも受け止める覚悟はある。だから、お願いだ……!」

 塞き止められていた何かが外れたかのように、先ほどまでは思い出せなかったはずの事故からあの世界が終焉を迎えた瞬間までの出来事がの頭の中では駆け巡っていた。夢などではない。現実での時間は一分一秒たりとも進んではいなかったが、それでも確かにあの世界で重ねた時間はあった。だからこそ、前へと進んでいく二人を見送ることが出来た。その全てを託した二人がどうなったのか、そして皆がどうなったのか。それこそが彼女にとって今何よりも重要なことであり、自分が病院に居るということや10年もの間消息を絶っていたはずの兄が眼前に居るということも二の次だった。

「……『奇跡』、と言われているそうだよ。あの事故は」
「『奇跡』というのは?」
「そのままだよ。あの事故で死者は一人も出なかった、バスが爆発を起こす前に全員が避難をすることが出来たんだ。そして駆けつけた救急隊によって全員が病院へと運ばれた。勿論その中には生命が危ぶまれるほどの重症を負っていた子も居たよ、を含めてね。でも、幸いなことに今朝になって最後の一人も意識を回復したそうだ。だから、あの事故によって亡くなった人は一人も居ない。安心していい」
「理樹も鈴も、無事なのかい?」
「うん」
「真人も謙吾も、小毬嬢も葉留佳嬢も、能美嬢も西園嬢も来ヶ谷嬢も?」
「そうだよ」
「クラスの皆も全員無事なんだな?」
「言っただろう、『死者は一人も出なかった』」
「ならっ……」
「棗恭介くんも無事だよ。彼が一番の重症だったけれども、今は意識も回復している。面会は出来ない状態だけれどね」

 全員が無事だった。その事実を確認しての中で張り詰めていた何かがふっと緩んだのだろう。どうして全員が助かることが出来たのかというその過程を気に掛けるところまで頭は回らず、ただ『よかった』という安堵で満たされた彼女には急激な眠気が訪れていた。万全ではない彼女の身体は未だ休息を求めており、気が緩んだことで意志力よりも本能が勝ったのだろう。何よりも知りたかった結末を知った。加えてそれは不可能だと知りながらも恐らく誰もが心の底で希い続けていた幸福な結末だったから、は訪れる眠りに抗おうとは思わなかった。彼女に自覚はないが、集中治療室からこの一般病室に移されてからこれまでにも何度か目を覚ましていた。その度に二言三言の会話を兄と交わし、また直ぐに眠りに落ちるということを彼女は繰り返していたのだ。故に、無理は禁物であるということは重々承知の上だったから、再び意識を手放そうとしている妹の阻害をするような真似を彼もしなかった。引き上げた布団越しに眠りを促すよう彼が二、三回叩いてやると、それに安心したかのように目を閉じながらは最後に今更ながらの疑問を一つ零す。

「そういえば……どうして兄さんがここに居るんですか?」
「それについては次に起きた時に話すよ。が心配することはもう何もないから、とにかく今はゆっくりお休み」

 何処か含みのある兄の言葉を聞きながら、はまた夢の世界へと潜る。一瞬を繰り返す終わりへ向かう夢ではなく、何処までも続いていく未来への夢を見るために。


 +++


 それから一週間後には家族以外との面会も可能になり、は数週間振りに理樹と鈴に会うことが出来た。兄の言葉を信じていなかったわけではないが、二人の無事な姿を自分の目で確認できたことで胸を撫で下ろした。恐らく、これから先に皆の無事を確認する度に彼女は何度でも同じような気持ちになるのだろう。それは何も彼女に限った話ではなく、むしろ二人の方が強いということは病室に入っての姿を目にした途端に鈴が泣き出してしまったという状況からも明らかだった。何と言葉を掛けて良いか分からず、は一先ずベッドの方へと二人を手招きすると、動かない右腕の代わりに左腕を使っていつものように頭を撫でる。口に出すべきは『ごめん』でも『ありがとう』でもない。今は思い浮かばなくともいつかこの気持ちを表すのに相応しい言葉を見付けることが出来るはずだから、そのための時間はこれから先に幾らでもあるから。そう思っては何も言わずに、ただ鈴が泣くのを、そして理樹が涙を堪えているのをそのまま見守っていた。

 そうして暫くして二人の中の感情の波が収まってから、沢山の話をした。彼と彼らしか知らないあの世界が終焉を迎えた後の話や、皆の現在の様子、そして自身のことについて。から話があるということは事前に彼女の兄が伝えていたらしく、彼女が話し始めると言いたいことは色々あっただろうが二人は黙って最後まで聞いてくれた。だからこそ、全てを話し終えた後に腹部に向けて繰り出された鈴からの拳を彼女は甘んじて受け入れようとしたのだ。聞き終わるまで我慢をしてくれたからには当然の権利だと思ったから。しかし、彼女の覚悟に反して当たる直前でその拳は失速し、ぽすんという軽い音を立てて布団に衝撃を吸収された。それでも、込められた気持ち痛いほどにに伝わる。どうして話してくれなかったのか。それは話したとしても何も変えることは出来ないから。分かっている。それでも、話して欲しかった。一人で抱え込まないで欲しかった、と。

「…………
「何かな、鈴」
「もう、どこにも行くな。あたしはと会えなくなるの、いやだ」
「行かないよ、もう何処にも行かない。私はずっとここに居る」
「ほんとだな、絶対だぞ。嘘吐いたら許さないからな」
「それは困るな。鈴に嫌われたくはないからね」
「じゃあどこにも行くな」

 顔を伏せたままの鈴がどんな顔をしているのかはには分からない。けれども腹部に置かれた手は、まるで繋ぎ止めるかのように強くしっかりとシーツを握り込んでいた。三度、鈴の前からは消えた。その都度、鈴は深い哀しみを味わってきたのだ。そして三度目は永遠の別れになるかもしれなかったことを思うと、鈴がこのような反応を示すのも無理もないことだろう。居なくなるということ、それがどういうことであるかを理解してしまったから。確証を得られるまでは離す気配のないそんな鈴を見かねたのか、これまで黙っていた理樹がそっと彼女の肩に手を置いて声を掛けた。

「鈴、あんまり無茶言わない方が……」
「大丈夫だよ、理樹。言っただろう、もう大丈夫なんだ。全部、終わったから」
「それはさっき聞いたけど、でも」
「信じられない気持ちは分かるよ、私も最初は疑ったからね。それでも、あの人は大事なことで嘘を吐いたりするような人ではないよ」

 眠りに落ちる直前に言った通り、次にが目覚めた時に彼女の兄はここに居る理由を説明した。それはある意味では荒唐無稽とも言える話で、だからこそも初めはそれを信じようとしなかった。何よりも、彼女の人生が一変したのは彼が家を出て行ってしまったことが原因であったから、簡単にその言葉を受け入れられなかったのだ。
 恨んでいたわけではない。彼の代わりが必要となったからこそ彼女は公然と外に出ることが許されるようになり、そして皆と過ごすことが出来た。例え期限付きであったとしてもそれはとても幸福な時間だったから、決して悪いことばかりではなく、良いこともあったのだと分かってはいる。だからと言って、手放しで彼の帰還を喜ぶことは出来るかと言われればそれとこれとは別の問題だった。全てを彼女に押し付けて、彼は勝手に一人だけ居なくなってしまったことは変えられない事実だったから。確かに、彼が居なくなったことでは外には出られるようになったが、良かったことはあくまでその点だけであり、それ以外は辛いことしかなかったのだ。家に帰れば自由な時間など存在しない、学ぶべきことは幾らでもあるのだとばかりに様々なことを教え込まれる。それらを完璧にこなせるようになるまでは食事も就寝も許されない、そんな日々だった。外で皆と過ごす時間だけがにとっての救いであり、それが無ければ早々に心を閉ざしてしまっていただろう。
 だから、この10年は兄を恨んだことはなかったが、決して許したこともなかった。そんな相手が突然現れて「僕が戻ってきたから、君はもう自由だよ。これからは好きに生きると良い」と言ってきたところで信じることが出来ないのも当然のことだった。

「……『外は楽しかったかい?』そう、あの人は訊いてきたんだ」
「それに、何か重要な意味があるの?」
「勿論意味はあるよ。この問いはね、私が『外』に出ていることを前提としているんだ」
「『外』って言うのは僕たちと一緒に過ごすことだよね」
「恐らくは、そういうことなのだろうね」

 彼が出て行く直前にの元を訪ねてきた時、思い返せばその時にはっきりと告げられていたのだ。「大丈夫、絶対に悪いようにはしないから」と。もしかしたら、自身その言葉を何処かで信じていたのかもしれない。彼が自分だけ逃げ出すような真似をするはずがない、いつか必ず戻ってくるはずだと。だから、恨みきれなかった。今になって振り返ってそう思うだけで実際のところの心情がどうであったか分からないが、少なくとも彼の方はを見捨てたことはなかったということは話を聞いて分かったことだった。
 10年前、が『外』に興味を持つようになったから彼は家を出た。彼が出て行けば、その代わりとして選ばれるはどのような形であれ『外』に出ることが可能になる。もしも彼女が『外』に興味が無ければそれらは単に苦痛でしかないから、彼は別の方法を取っていただろう。けれども、彼女は彼に『外』への希望を、それを求める気持ちを語った。だからこそ、彼は動いたのだ。時間は掛かるけれどもいつか必ず戻ってくることを誓って、仮初であっても形だけの自由を妹に与えるために。

「結局、10年前からずっと全てはあの人の掌の上だった、ということさ」
「じゃあ今このタイミングで戻ってきたのも全部そうだって言うの?」
「そこはあまりにも出来過ぎになってしまうから、どうなんだろうね。私が高校進学と同時に言われた通りの道を進んでいたら手遅れになっていたそうだから、どれくらい時間が掛かるかは流石に分かっていなかったんじゃないかな」
「それってかなりの綱渡りだったってことじゃない!」
「まぁ、私が唯々諾々と言われた通りの高校に行くはずがないことは分かっていたのだろうけれどね。それにしても、かなりの賭けが含まれていたとは思うよ。1年を掛けたところで私が3年間の高校生活を勝ち取れるかどうかは不明だったからね」
「けど、のお兄さんはそれも予想してたんでしょ」
「『なら絶対に3年は引き延ばせると思っていたよ』と言っていたくらいだから、そうなんだろうね。こちらはあらゆる手を尽くして何とか手に入れたというのに、それさえも予想されていたと言われたら堪ったものじゃないよ」

 あの1年は、これまでの10年の中でにとっても最も酷い時間だった。与えられたのは嵌め殺しになっている窓のある一室のみ。庭にまでは出ることを許されていた幼少期よりも劣悪な軟禁状態だったと言える。やれることは何でもやるつもりだったし、交渉に使えるものは何でも使うつもりだった。そうしなければこちらの条件を飲ませることが不可能だったからだ。しかしそうした環境下で使えるものは限られており、が交渉材料として使えるものは結果としてその身一つしかなかった。だから、彼女は最初に自分の中で限度を決めたのだ。何処まで使って良いか、何処までなら自分を貶められるか、その限界を見定めた。相手からすれば彼女に死なれては困るのだから、最も効果があるハイレートなチップを見極めるのは容易だった。結局のところ最終的な決め手になったのもそれであったが、そこに至るまでの経過は彼女自身あまり思い出したいとは思わない。それほどまでの体験があったのだ。だから、思い出しくもないほどに辛酸を舐めた上で漸く掴んだ結果を、さも当然のように言われてしまうのはとしても釈然としない思いがあったのだ。

「けどさ、それってそれだけのことを信じてたってことじゃないかな」

 そんなの心に、理樹の言葉はすとんと落ちてきた。彼女ならばきっと大丈夫だと予想していたのは、彼女のことを、妹のことを何よりも信じていたから。もしも家に言われるがままの高校に進学していたならば、今頃は跡取りとしての地位を確実なものとしていただろう。そうなってしまえば彼が戻ってきたとしても割り込む余地は無く、10年を掛けて彼が取り組んできたことも全て水泡に帰していた。彼女が最善を尽くして3年を得たからこそ、彼が戻ってくることに意味が生まれたのだ。『これ以上はどうしようもなかった』そう理解しながら、自分に言い聞かせながらもは心の何処かでは『たった3年』と思っていた。けれども、その3年があったからこそこの結末を迎えられたことを思うと、それは『たった3年』ではなかったのかもしれない。これからはそんな風に思えるような気がした。

「理樹はすごいな」
「え、何が?」
「何と言われると難しいけれど、強いて言うならば全部かな」
「ますます分からないんだけど」
「分からなくてもいいよ」

 そのままで居てくれたら良い。の言葉はその時ちょうど病室に響いたノック音に重なって、理樹には届かなかったかもしれない。それでも構わなかった。聞こえていたにせよ聞こえていなかったにせよ、どちらも同じことなのだから。そう思って、彼女は敢えて言い直そうとはしなかった。代わりに、現れた人物を見てはそっと目を伏せる。それは、楽しい時間はいつまでも続くものではないことを思い出してしまったからだった。

「話が弾んでいるところ申し訳ないけれど、そろそろ時間だよ」
「あ、済みません、もう出ますから。ほら、鈴も行くよ」
「いやだ。あたしはここに居る」

 ノックをして部屋に入ってきた人物、の兄は戸口で立ち止まると、案の定、面会時間の終了を告げた。様々なことを話している内に随分と時間が経っていたのだろう。時計を見て一瞬驚いたような反応をした後、理樹は慌てて謝罪をした。面会は可能になったが、の体調は未だに万全とは言い難い状態にある。長々と居座っては良くないことを思い出し、鈴を連れて早々に立ち去ろうとしたが、鈴の方はそれを聞き入れようとはしなかった。そして困ったように立ち竦んでしまった理樹に対して自分に任せて欲しいと目で伝えると、はしがみついて離れようとしない鈴の頭にそっと手を乗せて優しく語り掛けた。

「ねぇ鈴、明日またおいで。鈴が来るのを待ってるから」
「…………」
「当分の間は安静にしていないといけないそうだから、ここから動きようもないからね。皆の様子を知りたいんだよ、また鈴が色々な話を聞かせてくれると私は助かるんだけれど、どうかな?」
「……明日、来てもいいんだな」
「そう。明日また、ね」
「……わかった。なら、明日また来る」
「有難う。また明日、待ってるよ」

 これまで一度として次の約束をすることはなかった、そんなが自ら「また明日」という次を示したことで鈴も彼女がある日突然居なくなることはもうないとやっと納得することが出来たのだろう。名残惜しそうにしながらもから手を離して、鈴は戸口で待っている理樹の元へと向かった。病室から出る直前、もう一度振り向くと「明日来るからな」と念を押すように確認をする。それに対してから「また明日同じ時間に待っているよ」という答えを得たことで、鈴は漸く部屋を後にしたのだった。その姿を見送ると、深い溜息を一つ吐いてはベットに身体を預けた。それは彼女自身のこれまでの行いが鈴を不安にさせて居るのだと分かっているからこそ、思わず出てしまった溜息だった。戸口に佇んで、そんな一連の流れを見ていた彼女の兄は隠そうともせずに声を出して笑っていた。

「ふふっ、も大変だね」
「……誰のせいだと思ってるんですか」
「そもそもの原因は僕かもしれないけれど、9割方は自身のせいだろう? 幾らでも誤魔化しようはあったはずなのにそれをしなかったんだから」
「それをしなかったのは私の甘えです、分かってますよ」
「まぁ、そこがらしいと僕は思うけれどね」

 とて、鈴のことに関しては兄のせいだとは端から思っていない。それでも、目の前で愉快そうに笑われては不平の一つも言いたくなるというものだった。それも結局は言い様にあしらわれてしまったが。歳を重ねてあの頃の兄の年齢に追い付いたところで、その間に年齢を重ねているのは彼もまた同じことであり、いつまで経っても彼の方が上手ということなのだろう。付け足しのようでありながら重要そうに締め括った彼の言葉がそれを物語っていた。

「さて、それじゃあ僕も今日はお暇するよ」
「もう帰られるのですか?」
「直枝くんと棗さんと話して疲れているだろう? これ以上は負担になるから駄目だよ。それともは僕に何か話したいことでもあるのかな?」
「いえ、別に何も……」
「そう。じゃあ看護士を呼んでくるから今日はもう大人しくしているんだよ」
「あ……っ兄さん」

 連日のように訪れては空白の10年を埋めるかのように他愛のない話を一方的にされていたため、何もせずに帰ると聞いては何だか拍子抜けをしてしまった。思わず尋ねてしまったことにも当然深い意味はなかったはずだった。けれども、そのまま出て行こうとする兄を彼女は反射的に呼び止めていた。そして、彼女自身でさえ意図して行ったことではなかったのに、それを予想していたかのように彼は落ち着き払った様子で振り返るのだった。

「ん、なんだい?」
「あの……ありがとう、ございました」

 思い返せば再会してからは一度たりともその言葉を彼に向けて口にしたことはなかった。それは理樹に話したように、やはり何処かで納得がいかないような気持ちが残っていたからだったのだろう。理樹の言葉を受けてそれを吹っ切れた今だからこそ伝えなくてはいけないとそう思ったから、それは自然と出ていた。

「どういたしまして」

 何に対しての礼かなど聞かずとも分かっているのか、彼は柔らかく笑うとそれだけ告げて部屋を出て行ってしまった。敵わないな、と思わされる。一生掛かってもが兄に勝てる日は来ないのだろう。そうでなくとも彼が戻ってこなければ、彼女が自力で現状を打破することは出来なかったことを思えば一生頭が上がらないことは間違いない。それを彼に告げたところで、当然のことをしたまでだと返ってくることは考えるまでもなく分かることだった。だからこそ、敵わないのだ。身近に居るもう一人を思い浮かべながら、『兄』という存在の強大さをはつくづく実感させられていた。
 彼女以上に重症であったもう一人は未だに集中治療室の中におり、身内である鈴でさえ面会は許されていないらしい。今でも、目を閉じればあの時の光景が鮮明に蘇る。あれを見ているからこそ不安がないわけではないし、一刻も早く会いたいという気持ちはある。しかし自身もベッドの上から動くことを許されていない状態にあるため、恐らく顔を見れるようになるのはもっと先のことになるだろう。今の彼女に出来るのはせいぜい自身の回復に努めることだけだった。そのことに対するもどかしさもあったが、それが生きているということなのだと思えば、多少の不満は飲み込むことが出来た。全てを過去のこととして皆で笑い合える日が訪れるのは、きっとそう遠くないはずだから。

(2014.5.18)
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