離れたくない。
離したくない。
離れなければいけない。
もう無理なんだということは分かっていた。
国内外の緊張は高まっていた。正に一触即発の状態。いつ何時振り切れたとしても不思議ではない。だから、事が起こる前に一刻も早くやらなくてはいけないことがある。もっと早くにしなければいけなかったのに、ずっと引き延ばしにしてきた。それも、最早限界だった。肺の中の酸素を全て吐き出し、受話器を手に取る。回すのは何度も掛けてきた番号、間違えることはない。
「ギルベルト、大事な話って何?」
1時間もしない内に呼び出した相手は現れた。は、俺からの久しぶりの呼び出しに少し嬉しそうな雰囲気を纏っていた。自惚れなんかじゃない。この数百年ずっと共に過ごしてきたからのだから、それ位のことは分かる。そんな些細なことですら、今日で見納めだが。
「プロイセンだ。今から言うのは国としての俺からの言葉だからな」
「ドイツ帝国としてってこと? ルートの、ドイツからの伝言か何か?」
「そういうことになる。ちなみに決定事項だから反論は一切認めねぇ」
『国として』そうは言っても『プロイセン』という名の国は、もう無い。全て、弟に渡した。今あるのは『ドイツ』だ。そのことを後悔したことはない。
「変なこと言うね。私のような国でもない地域がドイツ帝国の決定に反論出来るわけないじゃない、分かってるでしょ?」
「まぁな。じゃあ伝えるぜ」
「良いけど、ギル……じゃない、プロイセンがそんなに躊躇うなんて珍しい」
いつもはどんなことでも邂逅一番に伝えてくるのに。何かを感じ取ったのか、不安げな顔をする。考えていることが分かるのは俺だけじゃない。にだって俺の考えていることは分かる。短くは無い、付き合いだから。けれども、この関係も伝令を伝えたら終わる。既に決まっていることで、俺個人の問題でも無い。始めはそうだったかもしれない、だが今は国家の問題になっている。そうしたのは他の誰でも無い、俺自身だ。逃げ道はもう無い、現実から眼を背ける時間は終わりだ。言わなければいけない。決意を固め、口を開いた。
「良く聞け。今日限りではドイツ帝国から離反する。明日からお前はドイツの一部じゃない、独立国だ」
「な、に…それ……どういこと!?」
「言葉の通りだろ。は自国の意思でドイツ帝国から独立するんだよ、つまり俺達の敵だ」
「知らない、私そんなの聞いてないっ! 誰が、誰が決めたの!」
「そんなもん、総督以外に誰が居るっていうんだよ。は北方人種が少ない、そしてケーゼルという地があることでこっちの守りが弱くなる」
「だから……私を切り捨てるの、この戦いに勝つ為に」
「そういうことだ。物分かりが良くて助かるぜ」
言うべきことは言った。どれだけ泣き叫ばれようと罵られようと構わない、これが俺の選んだ道だ。だから、視線を逸らさずにの顔を見る。今にも泣き出しそうで、それでも決して涙を零そうとしないその顔を。それでも心は痛んだ、覚悟はしていた筈なのに。泣かないで欲しい、なんて俺に言う資格は無いかもしれない。けれど、笑っていて欲しい。苦しむ姿を、悲しむ姿を、傷付いた姿を見たくなかった。そこに俺は居なくとも構わないから。
もうあの時のような目には合わせない。突き放すことになっても護りたかった。昔の自分が見たら、今の自分を嘲笑するだろう。護るべきものを遠ざけるなんて考えもしなかったことだ。大切なら傍においてどんな外敵からも護り通す、かつての自分はそうだった。弱くなったとは思わない、けれど黒鷲と言われた頃の自分はもう居ない。それは紛れも無い事実だ。今の俺の最善はこれだ、それが互いを傷付けるものだったとしても。
「もし……もしも私に、皆みたいな戦力があったら最後まで一緒に戦えた?」
「どうだろうな、変わらなかったんじゃねぇの」
「そっか、そういう問題じゃないんだね……」
「もう良いか? だったら早く戻って準備しろよ、明日になっても居たら攻撃するぜ」
「待って」
これ以上話すことはない、とばかりに背を向けたら呼び止められた。どうあっても振り向くことは出来ない、これ以上は俺が限界だった。一刻も早く此処を立ち去らなければ、余計なことを言ってしまいそうだったから。だから、振り向かずに応える。
「……なんだよ」
「最後に、一つだけ教えて。国としてじゃない、ギルベルトの考えが聞きたい」
『最後』という言葉に胸が痛んだ、自分のせいだというのに。そして気付いた。こうして名前を呼ばれることすらもう無いのだと。その声で紡がれる自分の名をもっと聞いていたい等と思ってしまう。それが自分の決心を鈍らせることも分かっているにも関わらずだ。
「ギルベルトは、私のことどう想ってた?」
一番聞かれたくないことを聞いてくる。お前は、俺になんて答えて欲しいんだ。一番望んでいることはどうあっても言うことは出来ない。これ以上哀しませたくないのに、俺の存在が、何よりもお前を哀しませる。いっそ嫌いになれたらどんなに楽か。分かっているけれど、それが出来ない。
「ねぇ、ギル……」
「俺は……俺は、お前のことを愛してた」
「ありがとう。私もギルベルトのこと……愛してるよ」
『愛してた』と『愛してる』
たった一文字異なるだけで、こんなにも違う。そして、その一文字が今の俺には言えない。言ってしまえば、を縛りつけることになる。だから、俺は自分の心を偽る。全てを過去にする為に。
「私は、ギルと一緒に過ごせて幸せだった。それは掛け替えの無い時間だったよ。ギルは、どうだった?」
「質問は一つ、だろ」
「そう、だったね……ごめん」
「話は終わりだ」
「うん。じゃあね、ギルベルト。ばいばい」
振り向きそうになる自分を必死で押し止める。出来ることなら、今直ぐその身体を抱き締めてやりたい。これしか無かったのか、他にも道は無かったのか。何度も繰り返した問を心の内で発する。きつく握り締めた拳から血が滴るのが分かった。それに気付かない振りをして、もう片方の手で扉を押す。
「待ってるから、いつまでも」
背後で扉の閉まる音がした。その場でしゃがみ込んでしまいたかったが、速足で自室へと向かう。がいつ出てくるとも限らないから。辿り着いた自室の扉を後ろ手で閉め、そのままずるずると壁に寄り掛かって座る。無性に叫びたい気分だった。
「くっそ、俺だって幸せだったに決まってるだろっ!」
孤独だった。同じように戦う存在として生まれた筈の奴は別の道を歩み、同盟等に縁も無い自分は常に独りだった。プロイセンの第二代皇帝であるフリードリヒ2世は即位してからその生涯を通して傍に居た。しかし、国家という存在である彼が生きる長い年月の中で、その時間は僅かなものに過ぎない。変わらずに、彼の傍に居たのは彼女だけだった。共に過ごした時間は、弟であるドイツよりも長い。彼女の存在が『独りでは無い』と、思わせてくれた。そんな彼女と過ごした時間が、幸せでなかった筈が無い。今でも瞼を閉じれば、初めて見た彼女の笑顔が鮮やかに思い出される。
『人』でない自分に生まれ変わりなど存在するかは分からない。それでも、もし生まれ変われるならば、自分は何度でも彼女に会いに行くだろう。結末が変わらないものだとしても、確かに幸せだったと思える時間が其処にはあるから。
「全てが終わったら、もう一度会いに行く」
どうかそれまで彼女が災禍に見舞われないことを。あの笑顔が失われることのないように。
1939年9月1日WWⅡ開戦
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