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 彼女はいつもふらりとそこに現れた。不定期に、正に思い立ったから足を向けてみたといったように訪れる。それは一重に彼女の仕事の都合上、休みの取れる日が定まっていないということによるものであると以前聞かされたことがある。しかしそうであったとしても、せめて店の開いている時間に来るか、そうでなければ連絡の一つでも予め寄越して欲しい。今日も今日とて表に掲げているCLOSEの看板を物ともせずに店内へと入ってきた彼女を見て、草薙はそう思わずにはいられなかった。

「あのなぁ……何度も言うとるけど、百歩譲って突然来るのはかまへんとしても、」
「『ノックするなり、一声掛けてから入ってきてくれへん?』でしょ」
「分かっとるのに実行せんのはタチが悪いで」
「十束だって一々そんなことしてないじゃない」
「あれは特別や。あいつを基準にするもんやない」
「特別ねぇ……私もその括りに入るかと思ったんだけど、違うのかな?」

軽い口調は変わらないものの、それまでとは声のトーンが変わったことを感じてグラスを磨くために手元に落としていた視線を上げると、思いの外真剣な眼差しをした彼女の視線とかち合う。そしてその瞳が微かにではあったが揺れていることに気付いてしまったから、次に発しようとしていた言葉を飲み込まざるを得なかった。自分が思っている以上に彼女の精神は不安定である。そのことを改めて草薙は感じていた。  自己というものを構成しているはずの『これまで』に食い違いがあるというのはどんな状態であるのか、当事者以外には全く想像も付かないことだろう。ましてやそんな状態に晒されている彼女の心情への理解に至れるわけもない。もちろん草薙を含めた周囲の人間にも戸惑いがないわけではない、ただ彼女の抱いているものはそれを遥かに越えているということだった。こちらが何気なく口にする言葉一つ一つに対して、彼女はその向こうにあるかつての自分を見ているのだろう。そしてその中にある齟齬に気付いては、どちらが『正解』であるのか判断がつかず、不安に駆られる。正解も不正解も、そのようなものは初めから有りもしないのに―― 彼女の現状をまた一つ目の当たりにしたことで強張る表情を、柔らかいものになるように努めながら草薙は口を開いた。

「そりゃ違うやろ。責任者の俺としては嬉しゅうないことにここは吠舞羅の溜まり場になっとって、十束はうちのNo.3なんやから」
「で、対する私は吠舞羅とは無関係な一般人」
「せやな。ただ、お前の場合はその頭に『俺らの高校時代の友人』っちゅう修飾語が付くけどな。せやからここに来るなとは俺も言わん、友達にそないな冷たいこと言われへんよ」
「……草薙は優しいねぇ、そんなに甘やかすと付け上がるよ?」
「別にえぇよ、付け上がっても。お望みとあれば幾らでも甘やかしたるで」
「軽すぎ、一瞬でもときめかせてくれる程度には心を込めてくれても良いのに。まぁ、それは私も言えたことじゃないか。安心して、今度からはちゃんと入る前に声くらいは掛けるから。今日は特別」

そう言うと、彼女は店内に設置されたソファへと向かっていく。いつもカウンター席に座る彼女の普段とは違う行動を不思議に思い、その行動を追った先で草薙は全てに合点がいった。ソファには座ったままの態勢で船を漕いでいる一人の少女の姿があった。その横に静かに腰掛けた彼女は今にも落ちそうになっていた少女の頭を優しく支えると、自分の膝の上へと横たえる。そして結わえられた小さな赤い帽子を眠りの妨げにならないように外し、慈しみを込めて髪を撫でるのだった。草薙が自分の方を見ていると気付くと、彼女は口許に立てた人差し指を当ててみせる。そのジェスチャーの意味するところを正確に理解した草薙は、黙って肩を竦めてみせると再び手元のグラスを磨く作業へと戻った。



「そろそろ起こしてあげた方が良いんじゃないの、草薙さん」
「二人とも起きるまで待つつもりやったけど、そうもいかれへんよなぁ」

彼女が訪れた時には照明を点けずとも明るいくらいだった店内は、今や傾き切った夕陽の赤に染められている。疲れていたのか暫くするとアンナと同じように眠りに落ちた彼女を見て、後から来た十束は珍しそうにしながらも起こさないように気を遣っていたが、それも頃合いだった。既にいつ誰が来てもおかしくはない時間帯であり、このような無防備な状態を不特定多数の相手に見られるのを彼女が好むとは思えない。どうするべきかなど、考えるまでもないことのはずだった。

「どうしても寝かせておいてあげたいなら上に運んであげるって手もあるけどね」
「俺がアンナを運ぶんなら、それでもかまへんよ」
「それってつまり駄目ってこと?」
「どうなんやろなぁ……俺にも分からん。出来るんなら、このまま寝かせといてやった方がえぇような気もしとるっちゅう、それだけや」
「別にそんなに難しく考えることないって、きっと大丈夫だよ」
「『なんとかなる』、か」
「そうそう、なるようになるって。ね、アンナ」

いつの間に目を覚ましたのか身体を起こしたアンナが、その言葉に答えるようにこくりと頷いた。
彼女が目覚める時はまだ訪れない。


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