Dear my friend

 失踪から半年後、桜井京介は帰ってきた。深春や蒼とは違って東京を離れて彼を探すことが出来なかったには、それはとても長い時間だったと言える。だから連絡を貰った彼女は京介が帰ってきたことに歓喜し、そして知らされたその状態に愕然としたのも無理は無い。全てそのままに帰ってくるとは思っていなかった、最悪の事態さえ覚悟していたというのに。話し掛けても何の反応も返さない彼を目の当たりにすると、とても平常ではいられなかった。その場で泣き崩れたりしなかったのは、せめてもの意地だったのだろう。病室を出て、其処に居た綾乃に縋り付くようには涙を流した。

 原因が分からない。それは回復の手立てが無いと同時に、『もしかしたら』という気持ちを抱かせるものだった。しかし、蒼と同じように起こるかもしれない奇跡を信じるにはは世界の無情さを知り過ぎていた。期待をして裏切られた時の辛さを誰よりも恐れ、結果としてその気持ちを厳重に鍵を掛けて仕舞い込む道を選んだ。そうしては、ただ彼が此処に居ることを確かめる為に広尾のマンションに通うようになった。蒼のように語り掛けることはせず、その手を握り隣に座って過ごすだけの時間。彼女にはそれで十分だった。それでも、心の何処かでは期待していたのだろう。深春も彼女以上に奇跡を否定していたが、やはり同じだったに違いない。鍵を掛けて仕舞い込んだつもりで、厳重過ぎたそれはいつも存在を主張していたのだった。

 だからこそ、ある時それに気付いた。には蒼のような直観像記憶能力は無いが、1週間に2度通っていたこともあり部屋の家具や小物の位置は覚えていた。初めは気のせいかとも思った。自分の記憶違いの可能性も十分に有り得たから。そして念入りに自身の記憶を照らし合わせた結果、それが気のせいでは無いことを確信したのだ。蒼の身長では決して届かない位置に置かれた本が入れ代わっていることを。
それ以来、は微かに動いている小物や本を見付けた際には、なるべく元に戻すようにした。言うなれば証拠隠滅に近いだろう。同時に、彼女は京介の表情や仕種を注意深く観察するようにした。人は完全に表情を消すことは出来ない。どれほど巧妙に演技をしたところで、それは僅かに顔を出す。そうした部分を見出だすことで、少しずつは自身の仮定を確信へと変えていった。



 その日、兼永に2時間程席を外して貰うよう頼んだ後、は京介と向かい合っていた。見る者を魅了するその顔は相変わらず微動だにせず、作りものめいている。その顔が正に『作っている』ものであることを彼女は知っていた。

「ねぇ、京介」

 こうしてが京介に声を掛けるのは病院で再会して以来のことだ。今まで声を掛けなかったのは、何度呼び掛けても決して返ってくることが無いことに彼女が耐えられなかったからだ。けれど確証を得た彼女は、もう躊躇わなかった。

「京介だってもう分かってるんでしょ、私が気付いてるって。蒼に気付かれないように、代わりに証拠隠滅してあげてたものね」

 もしも京介が意識を回復しているならば、誰よりも蒼がそのことを知っている筈である。蒼にそういった様子が見られない限りは、なるべく隠すべきだと思ったのだ。その為に、は証拠隠滅のようなことをしていた。それらは彼女が勝手にやったことであり、感謝をして欲しいわけではなく状況証拠として示したのだが、京介の様子に変化は見られない。予想はしていたが簡単には尻尾を出してはくれないようだ。彼が彼女の言葉を聞いているのは間違い無いだろう。それならば、とは反応が返ってくるまで好きなように話すことにした。

「そろそろ夏ね。貴方が失踪した日から、8ヶ月も経つことになる。半年の間、京介が何をしてたのか、蒼と深春からは聞いてないわ。綾乃さんから少し聞いただけ。二人と違って私は北海道まで行ってないから、出来るなら京介に直接聞きたいと思ったの」

 周囲の反対を押し切って京介を探しに行くことが出来なかったことをは悔やんでいた。東京から動くことも叶わなかった自分に、京介の過去を聞く権利があるのかが分からなくて、蒼と深春には尋ねることが出来なかったのだ。こんなことを考えていると知れた時点で二人には怒られるだろう、それでもは京介から直接聞くことに決めた。それも『京介が話しても良いと思った時に聞く』という制限を付けて。そうしなければ、彼女自身が納得出来なかったから。

「それともう一つ。北海道に行っていない私は、貴方の声を8ヶ月も聞いてないことになるの。だからね……そろそろ、京介の声が聞きたいわ」
「……降参だよ、

 不意に耳に届いたそれを、彼の声だと認識するのに少し時間が掛かった。それは聞き慣れていたものよりも、ずっと穏やかな声だったからだろう。声に釣られるようにして見詰めた彼の顔には、先程までとは違い確かな表情が浮かんでいて、その眼はしっかりと彼女を捉えていた。

「声が聞きたい、と言われたら流石に黙ってるわけにはいかない」
「我慢比べは私の勝ちってことね。でも……声が聞きたかったのは、本当よ?」
「分かってる、嘘だったら僕も返事をしなかったよ。それで、言いそびれてることがあるんじゃないの」
「何でもお見通しってわけか。それが貴方だから、まぁいいけど」

 彼女にとっては信じ切れなかった奇跡が起こったばかりだというのに、京介はまるで何事も無かったように接してくる。感動の再会に泣き出すような年齢はお互いとっくに過ぎているのでそれが自然な反応なのかもしれないが、もう少しこちらの気持ちも考慮して欲しい。そうして何処か釈然としない思いを抱えながらではあったが、はその言葉を口にする。

「おかえりなさい、京介」
「うん、ただいま」

 正確に言えば、京介が使った『言いそびれていた』という表現は間違っている。にとって、この言葉は意識のある京介に言ってこそ意味があったのである。だから、意識的に彼女はこの言葉を封じていた。そして失踪から8ヶ月経った今、漸く京介が『帰ってきた』ことを彼女は受け容れたのだった。

「来るとしたら深春の方が先だと思ってた、君は確信を持つことは出来ないだろうから。門野さんから何か聞いた?」
「違うわ。忘れてるようだけど、貴方の表情を読むことについては蒼よりも私の方が得意だったでしょ」
「読み取れるような表情を浮かべていたつもりは無いよ」
「あのね、私はそれを仕事にしてるの。どんな小さな変化でも分かるわよ」

 先に根負けしたのは自分であるのに、に見抜かれたことに京介は拘っていた。蒼も言っていたように纏う雰囲気は穏やかなものになったが、そういう負けず嫌いなところは変わっていない。彼の変化を悪いものだとは思わないが、変わらない部分を見付けると『彼はやはり京介なのだ』と安心出来た。

 それから二人は近況の報告をした。それは数週間振りに会ったかのような気軽さで行われ、とても8ヶ月振りに再会したとは思えないものだった。話の中で京介は『久遠アレクセイ』について触れようとはせず、も彼が話してくれるまで待つと決めていたので敢えてそれを追求しようとはしなかった。
そうして話が蒼や深春にまで及び、綾乃と深春の関係について意見を交わしていた時のことだった。

「──綾乃さんは自分から言うような人じゃないから、深春が言わない限りあの二人は進展しないと思うんだけど、京介はどう思う?」
「焚き付ければ言うんじゃないの。……あのさ、
「何? 交際の申し込みならお断りよ」

 は何かを言い掛けた京介を遮り、その先に続くだろう言葉を先んじて止めた。

「まだ何も言ってないけど。話も聞かないつもり?」
「聞いても同じだから。私はもう貴方と付き合う気は無いの」
「10年前とは違う、あの時と同じ気持ちで言っているわけじゃない、と言っても?」
「昔のことは関係無いわ、私も京介もあの頃とは違うことは分かってる。それにあれは私にも責任があるし、貴方だけを一概に責めるつもりは無いから」

 丁度大学院に入った頃だっただろうか、一度だけ京介とは所謂恋人という関係となった時期があった。大学に入学して以来、友人として親しく付き合ってきたこともあり一番近くに居る異性だったから選ばれた。始まりはその程度のことだっただろう。が留学をするのを期に、一年後には終わりを迎えたその関係は、深春や蒼すらも気付いていなかった。つまり、その期間における二人の関係は何ら変化しなかったということだ。原因は彼女と京介がそれぞれに抱える問題にあった。それが、どうしようも無いことだったということはどちらも理解している。だから、今に至るまで二人は変わらない友人関係を続けていられたのだろう。そしてあの頃とは今では状況が違う、そのことは二人とも良く分かっていることだった。

「自惚れじゃなくて、僕は君に好かれてると思ってる」
「そうね、間違ってないわ」
「だったら理由を聞かせて欲しい、友人としてしか見れないからか?」
「違うわ。京介のことは好きよ、友情の意味でも……恋愛の意味でも」
「それならどうして」
「また居なくなる人と付き合うのはごめんだもの。残される側の身にもなってみて」

 この半年間、は待たされることの辛さを知った。彼の安否が保証されていなかったこともあるのだろうが、ただ待つことしか出来ないというのは身を切るような辛さだった。増してや今度は長ければ3年もかかるというのだ、とてもじゃないが待っていられないと彼女が考えるのも仕方の無いことだろう。の言い分が正論だった為か、反論が思い付かない京介は黙り込んでいる。そんな京介の様子を見て、少し胸の空く思いを感じながらは不意に話題を変えた。

「ねぇ京介。私って貴方や深春や蒼、それと神代先生と一緒に居ることが多かったじゃない?」
「そうだね。美術史専修でも無いのに先生の部屋に出入りしてた学生は君くらいだ」
「暇さえあれば行っていたものね。その御蔭で出会いも無くて、三十路過ぎて未だに独り身よ」
「何が言いたいんだ?」
「この先も出会いがあるかどうかなんて分からない。だから、35歳になっても相手が居なくて、行かず後家になってたら貰ってくれるかしら?」

 確かに学生時代、は常に神代の研究室に頻繁に出入りをしていた。京介や深春以外に大学の友人が居た可能性は低い。しかし、社会人となってからも出会いが無かったとは必ずしも言えないだろう。は美人と評しても差し支えない容姿をしている、両親から見合いを勧められることもある筈だ。つまりは、そういうことなのだろう。遠回しに伝えられたの気持ちに、京介は微かに笑みを浮かべた。

「今のはプロポーズと取ってもいいのかな」
「……出来れば遠慮願いたいわ。プロポーズは男性からするものでしょ」
「それは偏ったジェンダー発言だと思うけれど、もしかして照れてる?」
「っそうよ悪い!? というか告白してきた筈の京介は何も言ってないのに、なんで振った私の方がこんなこと言わなきゃいけないのよ! おかしいでしょ!!」

 今更その程度で恥ずかしがるような年齢でも無いと思っていたが、結婚についてとなると話は別だったらしい。は赤くなった顔を隠すように横を向き、半ば八つ当たりのように言葉を吐き出す。そんな彼女を見て、ここまでうろたえるのは久々だなと思いながら何処かでそれを可愛いと思っているのを京介は感じていた。そして自然とを引き寄せて抱き締めると、彼女が望んでいるだろう言葉を呟いた。

「愛してる、
「……振られたくせに、そういうこと簡単に言わないでよ」
「我侭だな君は。どうして欲しいの」
「何も言わなくて良いから。今は黙って抱き締めてて」

そうして、貴方の存在を感じさせて欲しい。

続く言葉は、の心の中でだけ呟かれた。



 それから数日後、深春から京介がまた消えたことをは聞かされた。帰り際に告げた言葉「次なんて無いわ。さっさとロシアでも何処へでも行っちゃいなさい」その言葉通りになったことに彼女は満足そうにするのだった。怒るでもなく悲しむでもない、そんな彼女の様子を見て深春は不可解そうにしていた。

 時々、あの日のことは夢だったんじゃないかとは思うことがある。そういう時に限って彼からの葉書が届くので、その考えは直ぐに打ち消されることになる。蒼や深春、神代先生と同じく何も書かれていない真っ白いポストカードだけであったが、それで十分だった。むしろ全く同じだからこそは平常でいられたのだろう。あの時、彼女は恋人ではなく友人として彼を待つことを選んだのだから。季節は一巡して、また夏になった。時間制限まで、あと2年。

今日も彼女は変わらずに、桜井京介(とも)の帰りを待っている。


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