der Mond

moony lunacy moonstruck lunatic
月は人を狂気に駆り立てる。
近くて遠いこの惑星の衛星。
月、ツキ、つき――。



「なんでてめぇが此処に居るんだよ」

夜の闇が世界を支配する時間、あるマンションの前で黒のコートを纏った少年が口を開いた。

「あら、可愛い彼女が帰りを待っていたというのに、随分な言い草じゃない?」

そう言って、白い服を着た少女は腰掛けていたガードレールから飛び降りる。 着地の足音すらしないその動作は、重力の存在に疑いを感じさせた。

黒き少年の名をバクラ。
白き少女の名をという。

「本当に『可愛い』奴は自分で言わねぇよ」
「それもそうね。そもそも私はバクラを待っていたわけではないもの」
「ふん、分かっていても口に出して言われると面白くねぇな」
「カルシウムが不足しているなら、牛乳をお薦めするわ」

怒りの原因が自分であると分かっていながら、彼女はぬけぬけと言ってのける。 何を言っても受け流してしまうのは眼に見えている。 だから、バクラも一時の感情に任せて怒りをぶつけたりはしない。 理由は簡単、無駄な行為だからだ。 彼女との付き合いの中で学んだことの一つ。

「……それで?」
「『それで?』あぁ、散歩に来たのよ。今日は満月だから、月に誘われたのね」
「月ねぇ…お前がそんなロマンチストだったとは知らなかったぜ」
「それは違うわ、バクラ。私は月がただ美しいだけじゃないことを知っているから」
「へぇ、お月サマは何をするんだよ?」
「月は人を狂わせるのよ。満月や新月の夜には、殺人、自殺が増加し、出血が多くなるの。ほら、美しいだけじゃないでしょう?」

月について話す彼女は、どこか神聖で超越的な雰囲気を放っていた。 夜風が月光に照らされたその長い髪を揺らす。 その様子を見て、ふと頭に思い浮かんだ言葉。

「ムーン・チャイルド」
「え、なぁにそれ?」
「前に宿主が言ってたんだよ。なんでも、月に取り憑かれた人間のことをそういうらしいぜ?」
「取り憑かれるているつもりは無いのだけど、ね」
「そうかよ。それにしても、こんな夜によく何事も無く此処まで来れたもんだな」
「それは私が何かされる方? それともする方かしら?」
「さぁ、知らねぇな」
「どちらにせよ、心配してくれたことには変わりないものね。ありがとう」
「勝手に言ってやがれ」
「照れなくても良いのに……。そんなお優しいバクラさんに一つ良いことを教えてあげるわ。さっきのあれは嘘よ」

『さっきのあれ』と言われても、どれのことか分かるわけが無い。 それが嘘であったら、良いことに分けられる類のことであるのは確かだが―― バクラが思考に耽っていると、胸元にトスンとの頭が降りてきた。

「本当はバクラに会いに来たのよ」
「はっ、珍しいこともあるもんだぜ」
「もう、せっかく素直になってあげてるんだから、もう少し喜んでくれたって良いじゃない」

彼女自身、決してバクラが喜んだりしないことは理解している。 敢えて口にするのは、戯れのようなもの。 バクラの腕が背中に回されている、それだけで十分なのだから。 顔をあげて頬に手を添えて彼女は言う。

「バクラの肌は本当に白いわね。きっと月の光に焼けたのね」
「……また月かよ」
「今日の会話のテーマは月よ。知らなかったの?」
「知らねぇよ。白か……これはオレの色じゃねぇよ」
「獏良君の、でしょう? 分かってる、でも私が知ってる貴方はその色よ。私は『今』のバクラしか知らないもの」
……」

そう言った彼女は、ほんの少しの寂しさを滲ませていた。
三千年前のことについて話してことは無い。 それでも、何か感じ取っていたのだろう。 彼女なら有り得ないことでは無いと思ってしまうのは、それだけが謎めいているからか。

「それとも、訪れるべき時が来たら知ることが出来るのかしら? それなら私は知らないままでいいわ」
「お前……気付いているのか?」
「私は何も知らないわ。見た事も無いその漆黒のコートが何を意味するかも分からない」
「黒は闇だろ。宵闇と同化するのが黒だ」
「そうかもしれない、でも私は黒って好きよ。熱を吸収する黒は、暖かいわ」
「つくづく変わった奴だぜ」
「あら、それこそ今更だわ」

この黒を指して『暖かい』と言う。 闇そのものであるこんなオレでも、お前は『暖かい』と言うのか? 戻ることの出来ない道を歩むオレでも。

「ねぇ、バクラ。私は今夜、月が貴方を連れていってしまう気がしたの、輝夜姫のように」
「莫迦莫迦しい妄想だな」
「そうね、バクラは月に還る輝夜姫と言うより、月に住むうさぎだものね」
「おい、どういう意味だよ」
「そのままの意味よ」

白い身体を震わして、くすくすと笑いを零す。 下らない、口に出す価値すら無い事が頭を過ぎる。 そんな彼女の方がよっぽど輝夜姫のようだ、と。

「蓬莱の玉の枝も、燕の子安貝も無い私が貴方に捧げられるのは愛だけ。もし貴方が居なくなってしまう時、どうやったらバクラを引き止められるかしら?」
「なら……あの月に誓いな」
「月に? でも月は……いえ、バクラが言うならいいわ。今夜の月に誓いましょう、貴方への愛を」
「上等だ」

見上げるの顎に手を添えると、バクラは薄く開かれた唇に自分のものを重ねた。 そのまま、手を後頭部に回してしっかりと抑え、深く口付ける。 それはまるで、誓約の口付けのようだった。

誓うは月。 同じ形を留めない、刻一刻と変化するもの。 それが意味するのは不変ではない。 恐らく、彼女は全てを分かっていたのだろう。 バクラが近い内に居なくなることも。 それでも彼女が月に誓ったのは

『眼に見える姿が変化しようと、月は常に変わらず其処に有り続けるのよ』

光なき新月の夜であっても、この惑星に居れば月が消えることは無い。 何処へ行こうとも、彼女の想いは変わらない、そう思っていたから。
だが――



「此処にはあの月は無ぇんだよ」

千年パズルの中の世界には。 頭上の空は偽りの空。 月は、無い。

「悪いな、。月が無けりゃ、誓いも無効だ」

一緒になんていられないことは最初から分かっていた。 分かっていても、求めずにはいられなかった。 この闇すらも受け容れた、あの白い存在を。

「三千年の宿命すら投げ出したくなるくらい、愛してたぜ」

最後まで告げることの無かった想いを闇に紡ぐ。 彼女と自分を繋ぐ月さえ無いけれど、届くことを願いながら。


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