神さえも知らない5秒間

「乙坂隼翼はいけ好かない奴だ」

 彼について語る際のの第一声は必ずと言って良いほどに常に同じであった。
 曰く――まず第一印象が良くない、最悪という表現でも足りないくらいに。

 熊耳が連れてきたからには『同じ』であり、信頼のできる相手には違いないのだろう。それでも、さも以前から知っているかのような口振りで彼女達の名前を呼びながら「はじめまして」という言葉を口に乗せる。そんな彼の態度には強く反発心を覚えたのだった。この点については、七野にも一定の共通見解を得ることができていた。お陰で警戒心の解けていなかった七野との間に仲間意識が生まれ、結果的に彼の中の『仲間』という括りに彼女も入れたことについては唯一良かったことだと言えるだろう。もちろん、相対的に見れば彼の参入は喜ぶべきことであり、彼の存在、その能力は彼女達の未来にとって救いとも呼べるものであったのは疑う余地もない事実である。諸手を挙げての歓迎とまではいかなかったものの、目時も前泊も、七野でさえも彼が必要不可欠なメンバーであることは理解していた。それはもまた例外ではない。
 だとしても、それとこれとは別であるとでも言うかのように、彼への第一印象は彼女の中に深く根付き、消えることも薄まることもなかったのだ。誰に言われたわけでもないのに、どうしてかその感覚を忘れてはいけないような、そんな気がしていたのかもしれない。


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「寒い、暖めて」

 部屋に入ってくるなり腕を差し伸べながらが口にしたそれは彼女の口癖のようなものだった。の能力は一定時間、彼女以外の存在の時間を止めることができるという時間操作だ。隼翼の時間跳躍には及ばないにしても、時間を操ることが出来る能力は脅威的であると言える。ただ、彼女のそれには時間を操作する間、1秒毎に体温が失われていくという制約があった。実質10秒止めておくことすら難しい、他の者達と同じく使い勝手の悪い欠点だらけの能力。だからその能力を使用した後、彼女は周囲の人間に伝えるのだ、「寒い、暖めて」と。
 多くの場合、その役目は付き合いの長いメンバー5人の内の誰かに回ってきた。一番は熊耳、次点が目頭、前泊と七野は同じくらいの頻度で――隼翼にだけは、その役目が回ってくることは一度もなかったが――。そして今日も突然のの要求に驚くでもなく4人は顔を見合わせると言葉なく相談をしたのか、数秒もしない内にその中から熊耳が彼女を手招きした。それを受けては呼ばれた方へと駆け寄ると、さも当然のように熊耳の腕の中へと収まるのだった。

「熊耳、暖かい」
「はいはい。おまえは相変わらず冷たいけどな」
「好きで冷たいわけじゃない。それに普段は冬場に重宝されるくらいには暖かい方」
「なら冬までの貸しってことにしとくか」
「冬場って熊耳起きてるの?」
「どういう意味だそれ」
「熊のぷーさんは冬眠するかな、と」
「放り出すぞ、おまえ」
「まって、やだ、ごめん、まだ寒い」

 引き剥がそうとする熊耳に対して必死にしがみついているその様子は色気やそういった雰囲気というものは皆無で、その光景は周りからも『いつものこと』として受け流されている。熊耳にしても、年齢にしては小柄な体格であるを異性というよりも小さな女の子として捉えているのか、世間的に見れば抱き合っているとも言える現状において、特に羞恥などを感じている様子もなく慣れた様子で彼女とじゃれ合っていた。にしても同じようなもので「寒いから暖めて欲しい」というだけのことであり、その相手は親しい相手であれば同性でも異性でも構わないと思っている。ならばどうして隼翼には頼まないのか。他の4人には頼んで彼には頼まないという状況から、当然のように出てきたその疑問はかつてに投げかけられたことがあった。それに対する彼女の答えは「隼翼はただでさえ体温低そうだから、分けてもらうのは悪いと思って」とのことだった。それが本心からの答えであったか否かはわからないが、当事者である隼翼自身が気にしていない様子であったため、以降その話題について語られることは自然となくなっていった。
 ただ、話に上らないというだけで、気にかけていないわけではなかったのだろう。温もりを分けて欲しいのだと彼女が誰かに強請るたびに、彼女に唯一触れられないことを否応なしに彼は意識せざるを得なかったのだから。


 +++


 何度繰り返そうとも一度も訪れることのなかったその機会は一つの終わりを前にして、不意に彼の元へとやってきた。皆を、有宇と歩未を守るために集めた資金で学校を作る。そのために残された視力と引き替えにもう一度だけ跳ぶことを熊耳に伝えた隼翼は、親友と別れた後に最後となるであろう光景を目に焼き付けていた。次に目覚めた時にはこの両目は光を写さなくなっている。時間跳躍能力の代償として視力を失っていることに気付いた時から、いつかはそんな結末を迎えるであろうと覚悟はしていた。それでも、光のない世界というものが少しだけ隼翼は恐ろしかった。何も見えない、そんな状態の中で失敗を犯さずにやり遂げることが果たしてできるのか。やり直しはもうできない、この次で失敗をしてしまったとしても『その次』は存在しないのだ。
 熊耳にはあぁ言ったものの、一人になれば隼翼の中には不安が次から次へと止めどなく沸いてきた。何も見えない暗闇しかない世界、果たしてそこでこれから先の道筋を正しく歩んでいくことが可能なのか。目を閉じてこれから自分が身を置くことになる世界を疑似的に作り上げることで、揺らぐ自分自身に問いかけていた彼の耳に――「隼翼」――その声は酷く大きく聞こえた。暗闇の中から抜け出した隼翼の目に光と共に入ってきたのは、いつもと変わらない見据えるような瞳をしたの姿だった。

「よぉ、どうした」
「隼翼を探してた。多分、これが最後だと思うから。跳ぶんでしょ、もう一度」
「……聞いたのか」
「うん、教えてくれた。熊耳は知ってるから。だから、言っておきたくて」
「おまえが、俺に?」
「そう。ずっと、ずっと、私が言いたかったこと」

 無意識の内に、は強調するような言い方をしていた。それこそが、彼女の中でくすぶっていた思いだったからだろう。今だけではなく、彼女には知覚することのできない『前』からずっと、ずっと。その思いは何度も彼女の中に芽生えて、彼に伝えられることなく、忘れられていった。それでも繰り返すたびに彼女の思いもまた繰り返し、始まりをいつの間にか見失ってしまったのだ。だからこそ、熊耳に聞いたはきっとこれが最初で最後の機会だとそう確信をして今ここに来たのだ。

「とりあえず、目つぶって」
「唐突だな。やっぱ『なんで』とかは聞かない方がいいんだよな?」
「うん。痛いことはしないから大丈夫」
「わかった、これでいいんだろ」
「ありがとう。そしたら両手出して」
「ほらよ」
「いいって言うまで、目開けないでね」

 念を押すように注意をすると、ひょいと簡単に差し出された隼翼のその両手に、は手を重ねた。一瞬ぴくりと彼が反応をしたのは、突然触れたものに驚いたからだろう。久しぶりに触れた彼女の手は冷たくはなかった。目を閉じた隼翼の顔を見ながら、はそっと口を開いて思いを語り始めた。

「隼翼が時間跳躍する度に視力を失っていること、これまでも知ってたんだと思う。時間系の能力者はその能力に応じた『何か』を失うという仮説があって、私もそうだから」
「やっぱおまえは気付いてたんだな」
「確信はなかったけど。私の体温はみんなに暖めてもらえば戻る。でも、隼翼の視力はどうあっても戻らない。私達のために能力を使ってくれているのに」
「……もしかして、おまえそんなこと気にしてたのか?」
「だって私は隼翼に何もできないのに……これ以上、隼翼に何かしてもらうなんてできない。だから隼翼には言えなかった」

 暖めて欲しい。その言葉をが彼に向けなかった理由は隼翼からしたらきっと『そんなこと』なのだろう。彼は皆のために自らの能力を使うことを当然のことだと思っている。時間跳躍という能力を持った自分にしかできないことであり、世界を変えると約束をしたからには必ず成し遂げねばならない、そのためには視力が失われていこうとも何度だってやり直す。負担だと、重荷だと感じたことはないに違いない。そんな彼だからこそ、は言えなかった。自分を削っていくことを当たり前のように思ってしまっているこの人は、きっと求められればどこまででも自分を差し出してしまうのだろう。その優しさは万人に向けられるものではないけれども、少なくとも『全ての能力者』はその対象に含まれていて、もまたその一人なのだから。ほんの些細なことに過ぎないとわかっていた、それでも彼にこれ以上の何かを求めるようなことはしたくなかったのだ。

「なるほどな、そんな理由で俺はハブにされてたってわけか。俺はてっきりには嫌われてるのかと思ってたぜ」
「理由はそれだけじゃないけど、隼翼のことを嫌いだったことはないと思うよ。これまでもずっと」
「でもおまえ、最初に会った時すごい顔して俺のこと睨んでただろ」
「あれは隼翼がひどい顔してたから」
「俺が?」
「そう。『はじめまして』なんて思ってないくせに、やるせないような、たまらないような顔して言うから」

 そんな顔をするくらいなら『はじめまして』なんて言わないで欲しいと、はあの時そう思ったのだ。彼のことがわからない私たちが悪いことをしているかのような、そんな気分になったから。隼翼と関われば関わるほどに、の中でその思いは大きくなっていった。何度も出会っているはずなのに、彼のことを何も知らない。彼が辿ってきた道筋を確かに共有していたはずなのに、今の自分にはそれがわからない。彼の苦しみも、悩みも、自分には理解することができない。それがにとって何よりも歯がゆくて、隼翼と話している時はいつだってひどい自己嫌悪感に苛まれていた。何とか態度には出さないように気を付けてはいたけれども、表情はどうしても強張ってしまったから、彼が彼女に嫌われていると誤解するのも仕方ないのかもしれない。

「私は隼翼を嫌いだと思ったことはないよ。これまでのことは今の私にはわからないから断言できないけど」
「いや、はずっと変わってない。そのおまえが言うんなら、これまでもずっとそうなんだろう。誤解してて悪かったな」
「ううん。私こそごめん」
「ところでそろそろ目開けてもいいか?」
「あと少しまって。言いたいこと、まだ言ってないから。――あのね、隼翼」
「なんだ?」
「私は次もきっと何も覚えてないけど、でも『はじめまして』はもうなしにして欲しい。覚えてなくても、これまでがなくなったわけじゃないから。全部なかったことにしてしまうのは寂しい」
「わかった。もう言わない、約束する」
「もう一つ、これは私のわがままだけど……手貸して」

 そう言うと、はこれまで重ねているだけだった隼翼の手を取って、時間を止めた――

     ・
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――――「もういいよ」その言葉を合図に隼翼は数分振りに目を開けた。ほんの僅かの間、光を閉ざしていただけなのに世界は眩しいとさえ思うほどに随分と明るかった。これから先はこうした体験をすることさえもないのだろうということに感慨に耽るよりも、何故か目を閉じた時よりも近距離にの顔があるということに隼翼は意識を持っていかれた。それほどまでに近くに彼女が居たことに加えて、隼翼の両手がその手に包まれるようにして彼女の頬に添えられており、状況は彼の思考を飛ばすには十分過ぎるほどだった。

「えーと、? 俺も混乱してるんだけど、これどういう状況なわけ?」
「だから、私のわがままだって。覚えていて欲しい、私がどんな顔をしていたか」
「そのためによく見て、触って覚えろって?」
「うん」
「そんなことしなくても忘れるわけないだろ。っていうか、手ぇ冷た! おまえ時間止めただろ、今」
「気のせいじゃない?」
「いや、明らかにさっきより手冷たいからな、頬も冷たいし。誤魔化すなって、ほんと何したんだよ?」
「ぜっったい内緒」

 10秒にも満たないその空白の時間、静止した世界の中で何が起きたのか。その答えは彼女の胸に秘められたまま、知ることはもう叶わない。けれども、それは確かにこの世界で起きた出来事だった。

2015/09/18