未知を恐れる

 大学を卒業してすぐに地元である沖縄に戻ってきて、新社会人なりに真面目にこつこつと仕事をする日々を送っていた。地元とは言っても、高校時代はスケートに明け暮れていたのでお世辞にも素行が良かったとは言えないため、連絡を取るべき知り合いもあまり思いつかなかった。全く思い当たる節がなかったかと言うと語弊はあるが、慣れない仕事に対する疲労と面倒臭さから気付けば後回しになってしまっていた。
 後悔先に立たず。偉大なる先人の教訓にはきちんと従っておくべきものであるとつくづく思わされたのは、たまたまランチに入った店が連絡を取った方がいいかもしれないと頭の片隅にはあった知り合いの店だった時のことだ。お手頃価格のランチメニューに惹かれたのがそもそもの間違いだったのだろう。そしておひとり様だからとカウンター席を希望したことが第二の間違いだった。ランチタイムの飲食店はどこも忙しい。カウンター越しに出されたセットのサラダを受け取ろうとしたところで、コックコートを纏った人物と目が合ってしまった。

……?」
「え、虎次郎……?」
「おまえ、いつの間に戻って……!」
「そっちこそ、なんでこんなところに 」
「俺のことは今はいい!それより、戻ってたならなんで連絡くらい寄越さない!?」
「ちょっと、別にそこまで言われるほどのことじゃなくない? 連絡しようとは思ってたし」
「どうせおまえのことだから思ってただけで、面倒だったんだろ。そういうところ直せって前から言ってただろ」
「なんでそんなことあんたに指図されなきゃいけないの」
「俺はおまえのために言ってるんだ!」

気まずいとかではなく、ただただ面倒臭かった。こんな面倒なことになるなら、さっさと連絡取っておけば良かった、というのはこの瞬間だけでも頭の中で何度も繰り返した。どうやらこの男は店のオーナー兼シェフのようで、このまま私と話していて昼時のお店が回らなくなっても責任が取れない。何とか話を切り上げて厨房に戻らせて、「この後まだ仕事あるから!」と食事を終えた後は逃げるように立ち去ろうとしたものの、しっかりと次の約束をさせられた。
 そのまま済し崩し的に薫とも再会させられ、気付けば虎次郎の店に三人で集まることが増えていた。空白の時間はなかったことにはならないが、それでも以前と同じように接してくれる彼らの存在は、私にとって少なからず有難いものであったことは事実だ。そして悔しいことに虎次郎の料理は自分が作るものよりもずっと美味しかったので、新社会人にもお手頃価格ということもあり昼間のランチにもかなりの頻度で通っていた。従業員の人たちにも"オーナーシェフの知り合い"として認識されてしまっているので、若干の居心地の悪さは否めないが、食事の満足感がそれを凌駕していた。そんな納得がいかない気持ちを抱えながらも、ついつい通ってしまうのは、ある意味胃袋を掴まれてしまっているのかもしれない。もちろんそんなことは先のことも合わせて、間違っても口にするつもりはなかったが。



 その日は、閉店となった店内で定位置となっているカウンター席に座りながらグラスを傾けていた。いつもなら埋まる隣の席は今日は仕事の食事会があるとかで空席のままだ。互いに社会人になったのだから、そういうことも珍しくはない。ましてや薫はどこでも引っ張りだこの人気AI書道家だ。オフシーズンの今は比較的暇にしている旅行代理店勤務の私と同じに考えては失礼だろう。
 飲み過ぎだ。と横から注意する声がないから、気付けばついついハイペースでグラスを開けてしまっていた。だからだろうか、普段なら口にしないような本音をぽつりとこぼしてしまったのは。

「……私も男だったら良かったのにな」

何度となく繰り返しているそれは、願い、ではないのだろう。そんなことを言ったところで生まれもった性別はそうそう変えられないし、叶うはずがないということは誰よりも自分自身が分かっている。分かっていても、思わずこぼれてしまうことがある。それは昔から決まって、自分の手の届かないところで彼らが何かをしている時だった。

「突然どうした?」
「別に。昔からずっと思ってるよ。ずるいなぁって」

聞いて欲しかったわけではない。というのはあまりにも苦しい言い訳だろう。二人きりしか居ない店内で、カウンターの向こう側に居る彼が、聞き逃すことなどまずないのだから。ならどう答えて欲しかったのか、と聞かれるとそれはそれで返答に困る。だって自分でも分からないのだから。それでも考えてしまうのだ、"もしも男だったら"、今だって彼らと一緒に滑ることができていたんじゃないかと。少なくともSに参加することに躊躇はしなかったし、『ジョー』や『チェリー』と呼ばれる彼らに距離を感じることもなかっただろう。たかが性別、されど性別。女だから、という冠言葉は大人になってより一層の重みを増してのし掛かってくる。面倒なことばかりだった。
 話し過ぎた。と思って口を閉じた時には、その場に落ちた沈黙がやけに息苦しく感じた。いつもはうるさいくらいに喋るくせにと顔を上げてみれば、あまり見たことのない顔をした虎次郎がそこにはいた。

「俺はお前が女で良かったけどな」
「別に慰めて欲しいわけじゃないから、適当なこと言わないで」
「適当なこと言ってるように見えるか?」

ここで「見える」と答えてしまうのは簡単なことのはずなのにそれを言葉にすることができないのは、きっと得も言われぬこの空気のせいだった。ここは勝手知ったる昔馴染みの店で、この場に居るのはその勝手知ったる相手のはずなのに。

こんなのは知らない。

今日この場に居ない相手に心の中で悪態を吐く。変な空気になってるのも、伸ばされる手を前にして身動きが取れないのも、全部全部薫が居ないせいだ、ばか。直前まで水に触れていたからか、虎次郎の手はやけに冷たく感じられて、包み込むように大きな手がそっと頬に触れた瞬間にびくりと肩が跳ねた。覗き込むように近付けられた顔はやっぱり見たことない顔をしていて、このままではまずいと頭の中ではずっと警鐘が鳴り響いている。確かめるように動かされる指の感触に背中がぞわりとした。細められた目を見て、危機感が最高潮を迎えた私が手を振り払わなくてはと思ったのと、圧を感じていた大きな身体と添えられていた手が離れていったのはほとんど同時だった。

「……顔が赤い、飲み過ぎだ。今日はそろそろ帰れ」
「別にまだ酔ってないし」
「家まで送るからちょっと待ってろ」
「平気、一人で帰る」
「そんな状態で帰ったら危ないだろ。何かあったらどうする?」
「別に大丈夫だってば、じゃあね!」
「おい、っ……!」

椅子に置いてあった鞄を掴み、呼び止める声を振り切るようにして店を飛び出す。既に日が落ちてから何時間も経っている、周囲の人通りも疎らになっていたこともあり、なりふり構わずに全速力で走った。追い掛けてきた虎次郎に捕まったら、何かが決定的に変わってしまう気がして怖かったのだ。そうして私は得体の知れないなにかから、逃げ出した。

2021/05/23