謀は密なるを貴ぶ
弓道とは古来心身の鍛練をする日本の武道であった。最近では大会も多く開催されるようになり競技としての側面が大きく取り沙汰されているが、その作法の中に古来からの流れは連綿と息づいている。三宅明人は今、同級生の一射を見て深くそれを感じた。三宅は中学の時から弓道部に入っており、県大会に出場したこともある。そもそも始めたきっかけは世話になった先輩が弓道部であったからだが、高校でも入部を決めたのは3年間続けていた弓道に対してそれなりに思うところがあったからである。弓道が何たるか、そんなことは今更説かれるまでもなく彼の中では既に定まっている。それでも先の同級生、Aクラスの
の一射に目を奪われたのは彼の射法八節があまりにも綺麗だったからだろう。放たれた矢は決して正鵠を得るわけではないが、残心を終えるその瞬間まで、目を離すことができなかった。
「
は、どうして弓道部に入ったんだ?」
弓道部は運動部の中でも活動への参加においてペナルティもなく、比較的規則自体が緩い部活に当たる。大会において団体戦も存在するが、矢を放つその瞬間を切り取ればあくまでも弓道とは個人競技と言える。大会も他者との競い合いというよりも、己の実力をどこまで伸ばせるか、言うなれば自己との戦いである。そんな弓道部においては、必然個人間の対立は影を潜めている。それでも一応は運動部であるため学年を越えての上下関係にはそれなりに気を遣う面はあるが、横の関係は気軽にとまではいかないがフラットに近く、AもDも関係なく会話をすることくらいはあった。更衣室内には弓道場の片付けを任された2人しか居ないという状況も功を奏したのだろう、
は三宅の質問に対して言葉を選びながら答えを返す。
「前から武道に興味があったから、高校入学を機に始めようと思ったんだ。剣道や合気道よりはスマートだと思ったから、弓道にした。大した理由じゃなくて悪いな」
「いや、始める理由なんてそれぞれだろ。それよりも高校から始めてもう的に当てられてることに驚いた」
「弓道は没頭できるから、楽しくてな。射位に入ると、頭の中を空っぽにして目の前の的のことだけを考える。他のことは何も考えなくていい、その時間が好きなんだ」
なりの言葉で語られてはいるが、それは弓道の本質をよく捉えていた。矢を放つ「離れ」こそ弓道において最も重要だと考えられがちだが、実際にはその後の「残心」こそが重要とされている。それこそ弓道とは矢を的に当てるだけの単純なスポーツではないということをよく表している。兎原は的に矢を当てることが楽しいのではなく、矢を構えてから放ち終わるまでの時間が楽しいのだと言った。
「おまえ、弓道向いてるよ」
「中学から弓道部の三宅に言われると自信が持てる、ありがとな」
「普通なら嫌味に聞こえるところをさらっと言うんだな」
「気を悪くしたなら謝罪する」
「いや、文武両道かつ清廉潔白な人柄はさすがAクラスだなって思っただけだ」
「三宅の方こそ、それ嫌味じゃないのか? 俺はそんな大した人間じゃない」
謙遜しているわけではなく、
の表情は心からそう思っていることを物語っていた。着替えの終わった
がスチール製のロッカーの扉を閉めたことで会話が途切れる。それはこの話はもう終わりだという合図のようだった。三宅の帰り支度が済んでいることを横目で確認すると、
は部室の入口へと向かう。施錠を終えた後の鍵は寮まで持ち帰ってはならず、必ず部活終了後には一度職員室へと戻す規則になっている。三宅は一緒に行くことを申し出たが「待ってる人たちが居るんだろう?」と
からは固辞されてしまった。着替える片手間に携帯を操作していつものメンバーと連絡を取り合っているのを見ていたらしい。三宅にも頑なについていくことを主張するだけの理由はなかったため、鍵の返却は
に任せてお言葉に甘えて一足先に帰路へとつく。部活が終わった大半の生徒は寮へと直帰するか、けやきモールの方へと向かうか、そのいずれかに分かれる。
はそのどちらでもない方角に向かうことが多いことを三宅は思い出したが、校門を出てけやきモールへと歩き始めたところですぐにどうでもよくなった。彼にとって考えるべきは、この先に待ついつもの友人たちとの時間をどう過ごすかということだったからだ。
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三宅と別れて職員室へと鍵を返却して目的を果たした後も
は校舎内を歩き回っていた。放課後に校舎内に留まることそれ自体にペナルティはない。この学園の教師は基本的に生徒への過度な干渉を行わないため、誰に見咎められることもなく
は自由に校舎を歩き回る。一見すると目的もなく歩き回っていると思われた
はとある部屋の前へと辿り着くとそこで初めて歩みを止めた。肩から提げた鞄のショルダー部分を握る手に無意識に力が入っていたことに気付くと、一度だらりと力を抜いてから
は目の前の扉を開け放った。
「待たせたな、有栖」
「時間通りですので問題ありませんよ、
くん」
「それでも俺が部活に行っている間、有栖はここで待ってたんだろう?」
「それはどうでしょうか。私も一度寮に戻っているかもしれませんよ」
「戻る理由がない。俺の知る坂柳有栖は意味のないことはしない」
がそう言い切ると、椅子に腰掛けた目の前の少女は肯定とも否定ともつかぬ笑みを浮かべる。それは飼い主の命令に従順な犬に「よくできました」と向けるものとよく似ていた。二人の関係は一般に幼馴染と呼ばれるものであるが、坂柳有栖にとって
とはその程度の存在でしかない。
はそれを理解した振る舞いを見せながらも、表向きは彼女の幼馴染としてのスタンスを貫いていた。だから周りは、
を体の不自由な幼馴染のことを気遣う好青年と捉える。その中の一握りの人間が、幼馴染という立場に固執して坂柳に良いように扱われる愚かな男だと評する。そしてただ一人だけが、彼の本質を見抜いていた。
「
くん、部活は楽しいですか」
「何となく始めたわりには楽しめてるよ」
「そうですか。結果的に嫌悪する私と一緒に居る時間が減って、よかったですね」
「まさか。大好きな有栖と一緒に居られる時間が減って残念だよ」
「では今すぐ弓道部を退部して下さい」
「それはできないな」
「なぜですか?」
「俺が弓道部に入っていようと入っていまいと有栖の組み立てる展開には影響しない。無意味な手を有栖に打たせるのは俺の本意じゃないからだ」
の言葉からは嘘を感じられない。誰かがこの場を目撃すれば、坂柳は何を言っているのかと思うことだろう。自分の損得ではなく彼女の損得を考えて判断を下す。こんなにも幼馴染思いで、こんなにも便利な駒は居ないだろうと。事実、
は『本心から』坂柳を気遣っている。己の背信がもたらす結果をよく心得ているからこそ、これまでひたすらに己の心を偽る術を
は研鑽してきた。それでも坂柳を完全に欺くことはできなかったが、証拠さえ掴ませなければそれは推測の域を出ることはないものだ。だから坂柳に何を言われようとも、
自身がそれに是とさえ答えなければ彼の本心が詳らかになることは決してない。坂柳が信じるか信じないかはもはや問題ではないからこそ、見透かすように向けられる坂柳の視線を
はただ受け止める。
「帰ります。寮まで送ってください」
「仰せのままに、俺の有栖」
は坂柳の足下に傅くと、そのまま小柄な彼女の身体を両腕で抱き上げる。自然な動作で首に回された細い腕に、
は僅かに視線を向けるが直ぐにそれは正面へと戻される。乱暴に触れれば直ぐにでも壊れてしまいそうな矮躯を硝子細工のように丁重に扱いながら、
は無言で寮への帰路を歩み出す。アリスを落下する穴へと誘う、白ウサギがその役目を果たすのはまだ先の話。
2017/11/01