機に臨み変に応ず
長期休みの中では比較的短いと言える冬休みが明け、年度最後となる三学期の幕開けと同時に学年混同の特別試験が始まった。冬休みの間に
の元に坂柳からの連絡が入ることはなかった代わりに、神室を連れ回していたという話は彼の耳にも届いている。いつからかは分からないが一抹の疑念が芽生えた時から、坂柳にとって
は使い勝手の良いコマではなくなったのだろう。それでも彼女は彼を排除せずに手元に置いている。坂柳と同じだけの才を有していればその意図を察することもできるのだろうが、そうではない外野からは、到底理解しがたい理由があってのことだということくらいしか分からない。しかし彼にとってはそこに彼女なりの理由があるというだけで十分であった。背信の証拠はなく、コマとして手元に置く理由がある。であれば彼は『幼馴染』という立場を行使し続けることが可能なのだから。
「有栖」
「気にしすぎですよ、
くん」
「有栖がどう思っていようと俺が嫌だから」
内に抱える感情を忠実な犬としての仮面で覆い隠して自身の前に立つ
を戦略的思考を切り離した坂柳がどう感じているのかは分からない。今もこうして、特別試験期間中に唯一男女の接触が許されている食事の際には常に傍らにあって彼女の行住坐臥に文字通り彼は手を貸している。それが合宿二日目に彼女がCクラスの山内によって転倒させられた件を受けてのことであると、彼らの関係を知る者は各々勝手に解釈をしているだろう。そう見せているのは
であるし、それを良しとしているのは坂柳だ。神室、橋本、鬼頭など彼女の手足となる人間は他にも居るが、直接的に触れることを許されているのは彼しかしない。少なくとも彼女の中で『幼馴染』の
はそのように位置付けられているということなのだろう。思い返してみれば、差し出す手を拒絶された記憶はこれまでに一度としてない。片手に軽く添えられた小さな手を握りながら、そこにどのような意図が込められているのか全く分からないことが
には逆に恐ろしかった。
「そういえば、
くんのグループはどうですか」
「有栖が俺の心配をしてくれるとは珍しいな」
「心配ではありません、ただの確認です」
「俺から報告するまでもなく、橋本から連絡がいってると思うんだが」
「あまり引き延ばすようですと何か隠したいことでもあるのかと穿ってみたくなりますよ。たしかあなたのところは同じ弓道部のCクラス三宅くんがリーダーでしたね」
「龍園なら大人しくしてるよ。その経緯に疑わしいところはあるが、あいつがCクラス……じゃなくて今はDか、のリーダーを放棄したという点は紛れもない事実だな」
有栖が聞きたいのはそっちだろう、と返せばいつもの笑みが彼に向けられる。その表情からは一瞬彼の背筋をひやりとしたものが駆け巡ったことまで伝わったかどうかは読み取れない。恐らくは本題を引き出すための前振り、そして未だに確信を掴ませない
の反応を見るためのものだったのだろう。彼女が執拗に弓道部と三宅にこだわるのは、綾小路と近しい関係にあるが故だと推測をするのは容易い。三宅を糸口として
がいずれは綾小路と繋がりを持とうとしていると考えているのかもしれない。当たらずとも遠からずといったところではあるが、今のところ
にそのつもりはなかった。布石を打っておくのも悪くはないと思うが、彼にとってまだそれだけのリスクを犯すに値する状況ではない。だから弓道部も三宅のことも、純粋に気に入っているというのが偽らざる本音に近い。もっともそれを坂柳に伝えたところで理解はしてもらえないことも分かっているから、敢えて
も口にすることはしない。口にしてもしなくても、結果は変わらないのだから。
「そうですか。他には何かありませんか?」
「少なくとも、俺のグループにおいては有栖の関心を引くようなことは起きてないな。それこそ何かあるとしたら橋本の方だろう」
「
くんから見て、何もないと」
「少なくとも今の段階では」
そこまで話をしたところで本棟と分棟を繋ぐ廊下の前へと着いた。
が手を支えていたのと反対の手で持っていた杖を差し出せば、重ねられていた坂柳の手はするりと離れていった。名残惜しさなど全く感じていないが、自然とそのような表情を浮かべている。彼にとって長年の習慣にも等しいそれは意識するまでもなく身に付いている動作だった。
「言うまでもないと思いますが、私を失望させないで下さいね」
食堂からの一連のパフォーマンスは学年を問わず視線を集めるには十分なもので、当然この別れ際に告げられた言葉も多くの生徒が耳にしている。それでも言葉に込められた意味を正しく理解できているのは、彼ただ一人であることは確かめるまでもないことだった。であれば返答に言葉は不要であり、微笑みを一つ返すだけで十分だった。
++++
坂柳を見送った
がこの合宿中に充てがわれた部屋へと戻れば、珍しいことに同室者はまだ一人しか戻っていなかった。いつ誰が戻ってくるともしれない環境ではあるが、こんな機会でもなければまず二人で会話をすることもないであろう相手。加えて幸いなことにこのグループに他にAクラスの生徒は居ないため、最悪途中で誰かが戻ってきたところで大きな弊害とはならない。話をするには御誂え向きの状況だった。
「こうしてちゃんと話すのは初めてだな、ドラゴンボーイ」
「……その呼び方をしたら殺すってお前のとこのご主人サマに警告してあるが、聞いてねえのかよ」
「聞いてはいるが他に会話の取っ掛かりが思い付かなかっただけだ、悪かった。龍園翔と話がしてみたかったんだ」
「俺は坂柳の犬と話すことなんざねぇよ」
「坂柳有栖の幼馴染ではなく、
個人として話がしたいと言っても?」
「ハッ、口先だけなら何とでも言える。何かを探るつもりなら時間の無駄だぜ」
部屋の奥、窓側の2段ベッドの上段。この部屋における龍園のスペースであるその場所へ行くために
が上段に登るための梯子に手をかけて登ろうとすると、頭上から激しい揺れが襲ってきた。確認せずとも龍園が梯子を蹴ったのだと分かり、上へと登ることは断念する。考えてみれば、そう広くもない2段ベッドに男二人が肩を並べ合うというのもぞっとしない話だった。しかし顔を突き合わせることは無理でも表情を確認したいという気持ちは諦めることができず、反対側の壁に置かれた2段ベッドの上段へと
が登ったところで、向かい側から呆れたような視線が向けられる。
「そうまでしてテメェに話したいことがあるとは思えねえな」
「ならまず先入観を捨てるところから始めてくれ。俺としてはこれまでのところ龍園は単にこっちに興味がないから気付いてないだけだと思ってる」
「興味がないってところは当たってんな。言いたいことがあるならはっきり言えよ」
「それはできない事情が俺にもあるからできたら察して欲しいところなんだが、まぁ俺のことは今はいい。今日は綾小路がどうやったらその気になってくれるかを聞かせて貰いたい」
「おまえが?」
「そう、『俺が』知りたいんだ。龍園なら分かるんじゃないのか」
「知らねぇよ」
「どうしてその名前を出す、とは言わないわけだ」
向かいから苛立たしげに聞こえてきた舌打ちが龍園にとって先ほどの言葉が失言に近いものであったと伝えている。龍園がリーダーを放棄したことについてあれこれと追究をするつもりは
にはない、彼らが一様に口を割らないのであればそこにはそれなりの理由があることは推して知るべきことだからだ。もっとも、
の質問はそこに隠されているある事実を前提としているため、結果として追求しているのと同じことでありそれもまた龍園にとっては気に食わない点なのだろう。
「お前のその反応が見れただけで十分だから、今日のところは引き下がるよ」
「次があるとでも思ってんなら相当おめでたいヤツだな」
「俺の意図に気付いてさえくれれば、決して可能性は0ではないと見てる」
「ククク、大した自信だ。テメェに俺が動かせるとでも?」
「まさか、俺自身にそんな価値はないことくらいは分かってる。俺はさ、龍園翔のことをそれなりに買ってるんだ。だから少し前まではお前でもいいかなって思ってたんだよ」
少し前という言葉の意味するところ、そして暗に今はそう思ってはいないということが伝わったのだろう。相手の機嫌がやや降下したことを
は正確に感じ取っていた。引き際を間違えれば今後に差し障りが出る。素早く2段ベッドの上から飛び降りて着地を決めると、彼は振り返らずに部屋を退出した。部屋の直ぐ外で数分待ってみたが、龍園が追い掛けてくるような気配はないことも想定の範囲内だった。一度は部屋に戻ったにも関わらず食堂へと戻るのは見る者によっては不信感を抱かせるかもしれないが、なにせ『あの龍園翔』の居るグループである。多少のイレギュラーな行動も理由付けには困らないと判断し、
は再度食堂へと足を向けることにした。合宿今日で折り返しの4日目、恐らく機会はまた巡ってくる。興味を向けるには至らずとも、多少なりとも龍園翔の注意を引く。今のところはそれで十分だった。
2018/08/06