心臓を撃ち抜かれた

 彼は変哲のない人生を送っていた。魔術師の家系に生まれ、かくあるべしと育てられた。彼自身もそれを疑うことなく、定められた道筋をそのままに歩いてきた。幸いなことに彼は才能というものに恵まれていたようで、その道を歩き続けることにそれほどの困難はなく、障害につまずくということもなかった。だから、決められた通りに時計塔へと進み、一族の、魔術師の悲願と言われる根源を目指すことに疑問を持つことはなかった。こんなものか、と思いながら変わり映えのない日々を過ごす。そこそこに知り合いや友人と呼べるような存在も居たけれども、長い人生の中でこの一時、交錯しているだけの人間関係だろうと割り切っている側面もあったのだろう。心の底から信頼できるというような相手は居なかった。
 そしてふとした瞬間に、彼は自分の中が空っぽであるということを自覚する。やらなくてはいけないし、そう望まれているので魔術を学んではいるが、自分が学んでいることに対して強い思い入れというものもあまりない。言われているから根源を目指しているが、彼自身の熱はそこになかった。だからと言って他の生き方を目指すというのも、魔術師という家系柄、色々と面倒事が付き纏う。煩わしいことをしてまで、進みたい別の人生があるわけでもない。そういう家に生まれてしまった以上、流されるままに生きること自体に不満があるわけでもないので、まぁこのままでいいかなと、そう思っていた。

 そんな彼にとっての転機は、ある一人の東洋の少女との出会いと共に訪れる。時計塔に「アオザキ」が来た。その噂話は瞬く間に広まり、流行などにあまり興味のない彼の耳にまで届くほどであった。「アオザキ」と言えば、協会からも異端とされる東洋の島国にある魔導の名門、『魔法使い』の家系だ。魔術に関わったことがある者であれば子どもでも知っている名前である。聞くところに寄れば「アオザキ」の後継者は類稀なる逸材として幼少期より当代の『魔法使い』の下で教育を受け、協会も注目をしていたという。そんな「アオザキ」がどうして時計塔へとやってきたのか。聞こうとしなくても耳に入って来るそれらの情報を、彼は適当に聞き流していた。彼の性格上、「アオザキ」とか『魔法使い』とかそういうことに関心はなかったし、自分とは関わりのないことだと思っていたからだ。時計塔の敷地は広大であり、同じ科に所属をしていても、課程が違えば顔見知り程度の存在にしかならないこともある。「アオザキ」がどこに所属をするかは知らないが、よっぽどのことがない限り顔を見ることもないだろう、そう思っていたのだ。
 その日の彼は、一般に『時計塔』と呼ばれる第一科の建物を訪れていた。今となっては何の用事があり訪れていたかは彼自身にも定かではない。彼にとって印象に残っており、重要であるのはその日その場所で彼女と出会ったということだけだからだろう。奥まった敷地に入り込みさえしなければ、『時計塔』は建物自体は魔術協会の中でも取り分け一般的な方であった。独立した学園都市としてロンドン近郊に居を構える他科とは違い、ロンドンの町中に位置していることもあり表向きは老舗の大学ということになっているという部分も理由の一つであろう。縦横に走る廊下を歩いていれば行き交う様々な相手を目にする機会もある。その少女とすれ違ったのはたまたまだった。目の前を横切った少女の黒檀の黒髪がふわりと彼の眼前で揺れたところで、彼はその黒髪の持ち主に目をやった。いざという時の魔力を溜めておくため男女問わず魔術師には長髪の者が多い。また、多国籍の集う時計塔において黒い髪もさほど珍しいものではない。加えて長い黒髪を持ち、着物という異国の装いを常に身に纏う少女がノーリッジの養子に居るのを知っている。だから、その少女の容姿自体がそれほど珍しいものであったわけではなかった。深い理由はない、直観的に視線が引き寄せられたのだ。「おい見ろよ、「アオザキ」だ」ひそひそと騒ぎ立てる周囲の声から、あぁ彼女が例の子なのかと思う。何故かそのまま見送るのが惜しくて、顔を一目見てみたいと思って、彼は一工程の詠唱を口にした。

「何か、私に御用でしょうか?」

彼の足止めによりこちらを振り向いた彼女はティーンエイジャーのあどけなさを残しつつも静かな面立ちの上に眼鏡をかけていた。東洋人の外見は幼いというので、彼の印象に2つか3つ足したくらいが彼女の年齢としては的確なのかもしれない。

「初めまして、レディ。貴女のお名前をお聞かせ願いたいのですが」
「それが人を足止めしてまで聞きたいことですか?」

彼女が不愉快さを隠そうともしないことについては、多少強引に足止めをしたことについては自覚があるので、その反応も仕方がないものとして彼は受け入れる。そして彼女が名前などそこらでいくらでも言われているだろうと暗に言っているのも分かっていた。前置きはいらないからさっさと本題に入って欲しいということなのだろう。ただ、彼女の予想とは裏腹に彼には本当に他意などなく、純粋に彼女の名前を知りたい、それだけしかなかった。

「えぇ、僕は貴女自身の口から貴女の名前を教えて頂きたい」
「蒼崎橙子」
「有難う御座います。貴女によくお似合いの名前ですね」
「それで、ご用件は」
「用件と言われましてもたった今目的は果たせてしまったのでこれ以上は何も出てこないのですが……あぁそうですね、ではもう一つだけ。ミス・アオザキ、僕と結婚して頂けませんか?」

名前を尋ねた時と全く同じ調子で、彼はそう口にした。取り立てて深い考えがあってのことではなく、用件、と言われて思い付いたのがそれだったのだ。直観、というものを彼の家系はその魔術特性からも重んじる風潮があり、家のことなどさほど関心を持たずに過ごしてきた彼が、この瞬間生まれて初めて魔術師『らしい』行動を取ったと言えるのかもしれない。彼女にしても想定の範囲外の出来事だったのだろう、らしくもなく驚愕の表情を示していたが、それでも他の誰よりも彼女の立ち直りが早かった。柔らかい笑みを浮かべたかと思うと、かけていた眼鏡を外し、こう口にした。

「おとといきやがれ」


 そのまま身を翻すと、茫然とする周囲をものともせずに彼女はその場を立ち去っていった。後に残されたのは今言われた言葉の意味を考える当事者である彼と、とんでもない出来事の一部始終を目撃してしまった外野のみ。その後、あの「アオザキ」に結婚を申し込んだ人物が居るという話は彼女が時計塔へと来たという情報と同じくらいの速度で広まることになる。時計塔内で彼女の行く先々に彼が現れる姿が風物詩として語れるようになるのはそのもう少し先の話である。

2017.06.04