悲劇の主人公気取り? 滑稽だね
そこは太陽の恵みが存在しない、永遠の闇を思わせる暗い地下だった。唯一の光源は不安定な蝋燭の灯火のみ。
それさえも、燃え尽きるまであと幾許の猶予も残されていないだろう。
その中を迷うことなく進む確かな足取りが聞こえる。カツン、と一際大きな音を立てて、影は立ち止まった。
目の前には鉄格子。見据えるのは境界の向こう。
「今日はお別れを言いに来たんだ、新しい当主様から全員出て行けとの命令でね。三日以内に出て行けだなんて無茶振りもここまでくると清々しいよ」
「俺には関係ない」
「そうだね。こんな所に閉じ込められて、戸籍まで取り上げられて飼い殺しにされてる貴方には、可愛い可愛い妹が当主になろうと関係ないか」
「好きなだけ言ってろ。今の俺には、関係ない」
「……何それ。悲劇の主人公気取り? 滑稽だね」
酷く冷めた声音はそのまま立ち去る気配すら感じさせた。
碌な返答を寄越さない相手に愛想が尽きたのだと、そう思われた直後、鉄格子が大きな音を立てて揺さぶられる。
仮にも人を内に閉じ込めておく目的を持つ鉄格子が、柔な作りをしているわけもない。だがしかし、彼女が振り上げた足は紛れもなく鉄格子を揺らし、今もなお振動は収まろうとはしていなかった。
「いつからそんな腑抜けになった? たかだか八年、外界から切り離された程度でもう音をあげたってわけ? 情けない、それじゃ彼に愛しい妹を取られるのも当然だ。そんな奴にはこのまま一生此処で朽ち果てるのがお似合いだろうよ!!」
「なら教えろよ。『俺』じゃない俺がどうやって関われって言うんだ? 無理だろう、そんなことは。だから、俺はいつかアイツから全てを奪う、取り戻す。俺が『俺』に戻るために、必ずな!!」
振り上げた時と同じように音もなく足が下ろされる。先ほどまでの激昂はその成りを潜め、服の乱れすらない。
訪れた時と寸分も変わらぬ姿で彼女は其処に佇んでいた。
「それでこそ貴方、遠野四季だね。安心した、これで本当に心置きなくさよなら出来る」
「まさか俺の心配をして下さったとは、驚きだな」
「義理は果たすタイプなんだ。さて、これでここに来るのはもう琥珀ちゃんだけ。実は寂しかったりするんじゃない?」
「是。と答えたら?」
「お別れのキスくらいならしてあげてもいいけど」
「くだらねぇな」
「戯言だからね。それじゃあ、ここから出たら私にも会いにきてよ」
彼が再びその足で大地を踏み締める日、それは復讐の始まりを意味する。すなわち、彼に会うということは生の終わりとなる。
それでも彼女は、何の躊躇いもなくそれを願いさえする。
「約束だからね」
木霊のようにその言葉が反響した。
瞬きの間だったのか、それとも酷く長い時間が経過したのかもしれない。地下は元通りの静寂を取り戻す。
変わり映えのない静けさは、彼女の訪問さえも幻だったと錯覚を起こしそうになる。
ゆらりとその炎を瞬かせた後、ふつりと消えた灯火だけが確かに時が刻まれたことを示していた。
人が生活するには圧倒的に明かりの乏しい空間から、最低限の明かりは備えられている通路へと出る。明るいとは到底言うことの出来ない場所であるにも関わらず、微かな眩しさすら感じさせる。あの空間がそれ程までの闇に閉ざされているということに他ならなかった。
通路は二人が擦れ違うのもやっとというほどしかない。遮蔽物もなく、ここで誰かと出くわしたら隠れてやり過ごすということも不可能だった。単調に響き渡る足音は既に伝えている。あと数歩もすれば二人は互いの顔を視認するということを。
「あらあら、刀崎のお嬢様ではありませんか。このような場所でどうされましたか?」
「昔のように気楽に呼んでくれても良いのに、どうせ今日で最後なんだから。ねぇ、琥珀ちゃん」
「うふふ、相変わらずですねー。お言葉は嬉しいですが幼い頃ならいざ知らず、今ではそんな無作法なことは出来ませんよ」
「それは残念。数少ない友人だからこそ、今日くらいは名前で呼んで欲しかったんだけど」
「それはもう一方にお願いして下さい。それにしても、せっかくお嬢様が槇久様の眼を掻い潜らずに来れるようになったというのに、秋葉様ったら酷いことをなさるものです」
「彼女なりの考えがあってのことでしょ。そういえば、琥珀ちゃんはどうして私のことずっと見逃してくれてたの?」
「野暮なことをお聞きになるんですね。貴女は私の唯一のお友達だったじゃないですか」
他に理由などありはしないと、さも当然のように笑顔と共に告げられた言葉。綺麗過ぎる模範解答と、ぴくりとも揺らがない表情。
それらが何よりも雄弁に語っている、明かされない理由の存在を。
何の利もなく見逃すわけがないということは彼女も最初から分かっていた。だから、どろどろの汚濁に塗れた裏側を敢えて覗き込む必要はないのだ。
素直に言葉通り受け止めておけば良い。最後くらいは眼を逸らしたくないなんて、ただの欺瞞に過ぎない。
それでも、これが最後なのだ。
「……それが本意ならどんなに嬉しかったことか」
「お疑いなるなんて、刀崎のお嬢様ったら冷たいです。いくら私でも傷付いちゃいますよ?」
「冷たいのは昔からだよ。知ってたのに、結局は友達を助けようとはしなかった。今だってそう。いずれ友達がどうなるか分かってるのに何もしようとしない。ほら、冷たいでしょ?」
「そうですねぇ……きっと、私が肯定すれば貴女の罪の意識は多少なりとも軽くなるんでしょうね」
「…………」
「だから、頷いてなんてあげませんよ」
だがしかし、よく見ればそれが先程のものよりも微かに感情が乗せられたものであることが分かっただろう。
喜怒哀楽を一つ以外捨て去ったはずの彼女が晒してくれた一抹の感情。どんなに僅かであったとしてもそれで十分だった。
「琥珀ちゃんならそう言うと思ってたよ」
「でしたら友達ならではの以心伝心ですね」
「そうなのかな?」
「そうですよ!」
「ならそういうことにしておこうかな。ばいばい、琥珀ちゃん」
「はい。お気を付けて」
触れ合うように擦れ違った後、彼女はもう振り返らなかった。これ以上出来ることなど何も無いから。友の抱える重荷を共に背負うことが出来ないのならば、その行いを止める権利などあるわけもないのだから。
全ては手遅れ。
動き出した歯車を止める術など無力な彼女は持ち合わせていなかった。
彼女の背中が見えなくなるまで視線を逸らさず、足音が聞こえなくなるまで立ち尽くしていた。それは彼女との最後の時間を惜しむ気持ちだったのか、それとも単に使用人としての見送りだったのか。
「それでも貴女は私の唯一の友達でしたよ、ちゃん」
音にならない呟きは溶けて消えた。