異状なし(0)

午後十時。
夜も深まり、町からは一つまた一つと明かりが消えつつあった。 一見して何の異常も無い、静かな町並み。
その裏側では、今日も獣が蹂躙を繰り返している。

「まだ始まったばかりだと言うのに、ご苦労なことよね」

 誰にともなく呟きを漏らし、は暖を取るため手に息を吹きかける。 十月初旬、まだまだ暑いくらいだと思っていたが今夜は冷える。 せめてもう少し温かい格好をしてくるべきだったとも思うが、今更取りに戻るのも面倒だった。 それにあと数分もしない内に目的の人物は来るだろうから。 きっと今から戻っていたのでは入れ違いになってしまう。

「これは帰ったらまた怒られるかな」

 寒くなかったなどと嘘を吐いたところで、彼には直ぐに見破られてしまうのは眼に見えている。 けれど嫌味を言いながらも、温かい紅茶を用意してくれるだろうことも分かっているから。 その様子を想像したが無意識の内にくすりと笑いを零したことでその存在に気付いたのだろう、彼女の方へと近付いていた足音が止まる。 音の主へと視線を向けると、その人物は眼を見開いて驚きを露にしていた。

「やっぱり今日も一人なのね。こちらとしては都合が良いけれど」
姉? なんでこんな所に居るんだよ」
「それは勿論、貴方に会いに来たからに決まってるじゃない」
「俺が言いたいのは、なんでこんな時間に外に居るのかってことだ。それに、俺に会いたいならうちに帰ってくれば良いだろ」
「そういうわけにはいかないの。だって用があるのは衛宮士郎ではないもの」

 ふっと沈黙が落ちた二人の間を、ざわりと風が凪ぐ。 その間に顔を覗かせていた何かは、まるでそんなものは気のせいだとでも言うように掻き消えていた。 どうやらはっきりと言わねば、彼は認める気は無いようだ。

「改めて、初めましてアンリ・マユ。それとも、久しぶりと言った方が良いかしら?」
「何言ってんだよ、姉」
「私の前では『貴方』で良いと言ってるのだけど。むしろそうして貰った方が私としても落ち着くから」
「…………で、いつから気付いてた?」
「最初から。気付いたわけじゃなくて知ってるのよ」

 がらりと表情を変えた彼は、衛宮士郎の顔をしていても既に別の何かだった。 同じ顔であってもその内面によって受ける印象が変わることを良く知っているでも、思わず見返してしまう。 それ程までに彼が浮かべる表情は衛宮士郎のものとかけ離れていた。 ここまで違うのならば彼女としてもいっそ違う存在として割り切れた。 頭では分かっていても、やはり弟の顔をされると目の前に居るのがどちらなのか分からなくなってしまう時があるから。

「知ってるねぇ……なぁ、アンタは覚えてんのか?」
「完全にではなくても飲まれたことに変わりはないわ。とは言っても、ほとんど覚えてないけれど」
「ふーん。それでさ、オレにどうして欲しいわけ。こうして会いに来たってことは何かあんだろ」
「特にして欲しいことは無いわよ、貴方がやりたいようにしたら」
「はぁ? 用があるとか言ってただろうが」
「一方的に伝えたいことがあっただけ。知っての通り『今』の私は遠坂邸で生活してるから、何か困ったことがあったら来ると良いわ」

 面倒臭そうに顔を顰めながら頭をかいていた彼がぴたりと動きを止める。 ぽかんとした無防備な表情は当然のことであるが良く知るものと似ていて、は自然と笑みを浮かべた。
 仮初の姿とは言え他にも選びようはあったはずだ。 にも関わらず敢えて衛宮士郎をその器として選んだのは、彼なりに思う所があったからなのだろう。衛宮士郎が過ごす日常というものに。 何よりも、彼自身はこの世全ての悪という役割を押し付けられただけのただの青年に過ぎない。 だからこそ、目の前のものが十年前の惨事をもたらした直接の原因であったとしても、は邪険にしようと思ったことは一度も無かった。

「意外だな。てっきりアンタには嫌われてるもんだと思ってたんだけど?」
「私は別に貴方のことを嫌ったつもりは無いわよ。家を出たのはそうする必要があったからだもの」
「なら、あそこで生活してるのも必要だったからってか」
「面倒だからそういうことにしておきましょう。それともう一つ、忠告があるのだけど聞く気はある?」
「はいはい、聞かせて頂きますよ、と」
「まだ先の話だけれどその時に会えるか分からないから、ついでね。貴方が終わらせたいと思ったら、もう私に会っては駄目よ。手遅れになってしまうから」
「意味分かんねーんだけど。頭の悪いオレにも分かるように説明してくんない」
「私の傍に居ると可能性が広がってしまうから。今の貴方にとっては歓迎することでも、終わらせたいと思っている時には迷惑な話でしょう」

 この町で起こり得る可能性を全て引き寄せた世界。 本来ならばこれ以上の広がりなど起きる余地は無い。 しかし、にはこれまでの世界が記憶として内抱されている。 そして個人の記憶を介することによって、元の可能性は別の可能性へと変化を遂げていた。 故に彼女が見てきたものは、この世界にも存在しない新たな可能性として数えられてしまう。
今はまだ良い。 この世界は始まったばかりであり、彼も聖杯戦争を続けたいという彼女の願いを叶える為に動いている。 けれども、いずれ終わりは訪れる。 そうなれば新たな可能性など邪魔になるだけだ。 時には最悪の結末を招くことすらもある。 そのことが分かっているからこそ、彼から離れる為には家を出たのだ。

「そりゃそうだな、ご忠告どうも。まー先のことなんて分かんねぇけど?」
「頭の片隅にでも留めておいてくれたら良いわ。その頃になったらきっとまた誰かが教えてくれるでしょうし」
「オレなんかよりよっぽど詳しいだろ、アンタ。まるで見てきたみたいだぜ」
「それは質問? 既に答えを知っていることを聞くことに何の意味があるの」
「本人から聞いてみたいっていう興味本位」
「私がそれに答える義理は無いんじゃないかしら」
「冷たいこと言うなって。オレの好奇心を満たすのに協力してくれても良いんじゃねぇの。なぁ、ねーちゃん?」

 彼はからかうような調子でその呼称を口にする。 にやにやとした笑いを浮かべていることからも、それが仮初の姿に乗じた悪ふざけであることは明らかだった。 例え一時の夢のようなものだとしても、衛宮士郎と衛宮の関係が姉弟であることは変わらない。 しかし彼がそう思っていないように、彼女もそうは思っていなかった。 姿形は同じとは言え、やはりどうしようもなく根本的な部分が異なっているのだから。

「悪いけど、弟にも話してないことを貴方に話すつもりはないわ」
「あっそ。ちなみにそれってどっちのこと言ってるわけ?」
「自分で考えたら。第一、それは欠片じゃないでしょ」
「だから言っただろ、興味本位だって。っても、アンタにとって『弟』はもう一人しか居ないみたいだけどな」
「……何が言いたいの」
「べっつにー。そろそろ帰るかな、面倒なヤツに来られても困るし」

 せいぜい満喫してろよ。 そう言い残すと、彼はひらりと手を振って立ち去っていった。 呼び止めたところで彼は反応しないだろう。 もしも振り返ったとしても、それはきっと先程まで会話をしていた相手ではない。 だから、もまた彼に背を向けて坂を上るのだった。


今夜も冬木市に異状は認められない。

2012.04.01.