この穏やかな日々とこの愛しい関係

 数日に渡って行われた中間考査もつい先程、最後の科目を終えた。後はホームルームさえ済めば帰宅出来る。 あそこの答えはどうだこうだ、今日の放課後は何処そこに遊びに行こう、などと話す周囲の会話を耳には入れつつ、はぼんやりと外を眺めていた。 級友達が一喜一憂する試験は彼女にとって退屈なものに過ぎない。多少の違いはあるとは言え幾度も解いたことのある問題なのだから、どんなに覚えが悪い人間でも千を越えて繰り返せば嫌でも頭に入る。 も生来から頭が良いというわけではない、ただ他の人間より反復学習の回数がやや多いというだけだ。それでもやっていることは反則に近い、言わばカンニングと同様だろう。 だからこそ、は常に手を抜く。社会において「良い成績」が与えてくれる恩恵は大したものであるが、彼女が望んだのはそんなものではないのだから。

 心にあるのはいつだってただ一人の姿。 目に焼き付いて離れない、最期の姿。

 大切なものは増えたけれど、それだけは変わらない。それを見失ってしまえばが此処に存在している意味さえも無くなる。 辛いと思ったこともあった。もう止めたいてしまいたいと思ったこともあった。途中で止めるなんて許されていなかったこともあるが、それでも続けてきたのはどうしても叶えたい願いがあったからに外ならない。 こうしている間に彼がどうしているかを朧気に理解していたことも、彼女を支えていた一因と言えるだろう。
 胸に刻んだ始まりの瞬間。それを思い出していたからか、は無性に弟に会いたくなった。 士郎であるが、彼女の「士郎」ではない彼。けれども彼女の弟であることに何ら変わりはないのだと、そう思えるようになれたのはいつからだったか。 どうしようもなく遠い「彼」の代わりとして身近な彼に縋る、酷く現金な理由だったと記憶している。 繰り返す中で理解したのだ。彼女の「彼」はただ一人だけれど、その世界における彼女を取り巻く人々の優しさは決して変わらないのだと。
 奇しくも今日は土曜日。士郎の学校も午前中で終わりだ。 小学校と高校では同じ午前授業と言えど終わる時間は異なるが、今は中間期間。ホームルームを終えて直ぐに向かえば、校門で待ち伏せをすることも可能だろう。 たった今決められたこれからの予定を頭に巡らせて、は楽しそうに笑みを浮かべる。その笑顔は、放課後を心待ちにしている級友達と変わりないものだった。


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 計画を実行して校門で待ち伏せていたを見た士郎の反応は中々に見物だった。

「土曜登校お疲れさま、士郎」
「なっ・・・・・・」
「んで此処に居るかって聞かれたら、偶には士郎と一緒に帰りたいと思ったからよ。冷蔵庫に足りないのって何だったかしら?」
「それなら卵と人参と、あとコーヒーもそろそろ切れるから買っておいた方が・・・・・・ってそうじゃない!」

 大きな声に反応するかのように二人への視線が集まる。頭一つ飛び抜けた高校生らしき人物と一緒に立つ士郎を、生徒達は物珍しげに眺めながら下校していた。 ただでさえ目立っているのに声を荒げては今のように更に注目を集めることになってしまう。何より、相対している姉はにこにこと笑顔を浮かべてこの状況を楽しんですら居る。 だから、混乱する頭を何とか働かせて、士郎は今この場において最善と思う行動を取った。すなわち、この場からの離脱である。
 姉の手を取って走り出した士郎にあったのは、とにかく場所を移さないと埒が明かないという、ただそれだけだった。 手を掴まれて驚いたように目を開いた後、それまでとは違う、くすぐったいような照れたような笑顔をが浮かべていたことを、彼は知らない。



 マウント深山商店街まで来たところで、繋がれていた手はあっさりと離されてしまった。 かなりの距離を走ってきたため呼吸は乱れていたが、会話が出来ないというほどではない。 士郎は傍らで膝に手をついて息を整えている姉を見上げて此処に来るまで腹に溜めていた思いをぶつけた。

「で、どうして姉が俺の学校の前で待ってるんだよ」
「それはっ・・・さっきも、言ったでしょう? 士郎と、一緒に・・・っ帰りたかった、からよ」
「学校はどうしたんだよ」
「中間試験・・・・・・今日で終わったもの。怒って、る?」
「別に怒ってはいない、ちょっと驚いただけだ。今度から、そういうことは朝の内に言っておいてくれよ」
「うん、ごめんね。突然思い付いたから」
姉ってさ、そういうとこ藤ねえと似てるよな」
「どういうところ?」
「いきなり突拍子も無い行動するとこ。滅多にしないから、した時は藤ねえ以上に驚かされるけど」

 多少は悪いと思っているらしいものの、行動自体についてはあまり反省はしていないにこれ以上何を言っても無駄だと思ったのだろう。 呆れたような口調ではあったが、その声に険は含まれていなかった。 士郎が彼女に勝てた試しはない、それは出会った5年前からずっと変わらない。 普段は切嗣やあの雷画も関心するほどに大人びて居るというのに、不意に子ども染みた振る舞いをする。 その度に向けられる士郎からの苦言を、は聞いているのかいないのか良く分からないにこにことした笑顔で受け止める。 そのくせ、大事なことだけはしっかりと聞いているのだ。 だから士郎は彼女には勝てないと思うし、それで良いとさえ思っていた。

「ほら、買い物行くんだろ。姉だけじゃ何買えば良いか分からないみたいだし、俺が手伝ってやるよ」
「士郎は頼りになるなぁ」
「あのさ、料理して欲しいとは思わないけど、せめて冷蔵庫の中身は把握しといて貰わないと困る」
「そうは言っても、必要もないのに冷蔵庫の開け閉めするのは勿体ないでしょう?」
「分かった。ならメモ渡すから、買い物行く時は事前に言ってくれ」
「今日みたいに士郎が一緒に来てくれたら問題ないのに」
「普段は時間が合わないだろ。とにかく、この話は帰ったらするってことで、さっさと買い物終わらせて帰ろう。今日はじいさんも居るんだからさ。じゃないとまた適当にインスタントで昼済ませるぞ、あの人」
「そうね。それに私達もお腹空いちゃうものね」

 分かったなら行くぞ。そう言って歩き始めた士郎に対して、は依然その場所に留まったままだった。 数歩もしない内に姉がついてきていないことに気付いて怪訝そうに振り返った士郎に対して、彼女は笑顔で手を差し出す。

「・・・・・・一応聞くけど、何してるんだ?」
「士郎が手を引いてくれるのを待っているのだけど?」
「なんでさ」
「だってさっきはそうしてくれたじゃない」
「あれは、あの場所から移動するためにとっさにしたことで・・・・・・!」
「士郎は私と手を繋ぐのが嫌なのかしら? ほんの少し前まで良くこうして歩いていたのに」
「嫌とかじゃなくて、恥ずかしいだろ普通に! なんで12歳にもなって姉貴と手繋がなきゃいけないんだ!」
「仲良し姉弟みたいで良いでしょう?」

 口調は穏やかであるものの、その瞳は要求を聞いてくれるまでは意地でも此処から動かないと告げている。 どうやら今日の姉はとことん自分を困らせないと気が済まないらしいと士郎は嘆息する。 彼女にも言ったように、別に手を繋ぐこと自体が嫌なわけではない、要は彼の羞恥心の問題だ。 そもそも、訳の分からない我儘をぶつけてくる姉など置いて行ってしまえば良い。 その場合、士郎の財布には買い物をするだけのお金が入っていないのでそのまま帰宅することになるが、昼ご飯を作るくらいの食材は冷蔵庫にあるので買い物は後からまた行けば良いだけのことである。 そうしたところで彼女は、士郎ったら酷いわね、とほんの少しの不平を漏らすだけだろう。 分かっていても実行することが出来ないということが、衛宮士郎たる所以なのかもしれない。 だから、頭を抱えるようにして再度溜息を吐いた後、彼は彼女の手を取るのだった。

「これでいいんだろ!」
「うん、ありがとう」
「あーもう、ほんとさっさと買い物して帰るからな!」
「はいはい。それじゃあ、行きましょうか」

 赤面している顔を見られないためか、はたまた目を合わせたくないからか。 頑なに視線を逸らす士郎と、その様子を嬉しそうに見つめる。 彼女の視線は紛れもなく弟を見守る姉のもので、その姿は誰から見ても仲睦まじい姉弟のものだった。

2012.12.26.