選択の行方
月の裏側に来てからのBBによる役割の書き換えは、極一部の例外を除いてほぼ全てのNPCに適用されていた。聖杯戦争を円滑に運用するための役割が割り当てられていたのだ、全てをBBが掌握している以上は彼らにその役割は不要でありその権限も持たないということなのだろう。当然、彼女にも書き換えは適用されていた。元々の役割はアリーナを含む校内全域のデータ管理の監視員であったが、今は清掃員となっている。とは言っても、SE.RA.PH.において埃などが蓄積することはなく、概念上のゴミに当たる不要データも自動スキャンによって素早く取り除かれている。購買部の店員としての仕事をこなしている言峰などとは異なり、彼女には仕事らしい仕事はないに等しい。かつての居場所であった図書館の司書室も今の彼女の権限では入ることすら適わないことから、必然、彼女は目的もなく校内をぶらついていることが多かった。
何も日々刻々と校内に変化が訪れるわけでもないので、真新しいものがあるわけではない。むしろこの場は停滞と安寧と不変が約束された最後の楽園であり、やがて訪れる破滅の約束された箱庭でもある。ただ、彼女は無為な時間を過ごすことに慣れていた。変わらない時間においてさえも一筋の面白みを見出すことが出来れば、それだけでどうとでも出来るということを彼女は知っていたから。故に、彼女は今日もそこへ足を運ぶのだ。
「こんにちは、作者様」
「飽きもせずにこの俺にわざわざ会いに来るとは相変わらずの暇人だな、おまえも」
「義務も責務も、目的も目標も、そして願望すらもないのだから暇を持て余すのも仕方ないわ」
「それこそ自業自得だ。確かにおまえは誰の敵でもなければ誰の味方でもないが、故に誰とも相容れない。それこそBBよりもな」
「そこまで言わなくても良いんじゃないかしら」
「物書きである以上、俺も使う言葉には拘りがある。そこまで、というのがどの程度のことを指しているかは知らないが、俺からすれば妥当過ぎるくらいだ。そもそも、他人に言われるまでもなく自覚していることだろうに」
「分かっていても目を逸らしたい現実、というものよ」
「現実逃避なぞしたところでおまえの生きる世界は何も変わらんぞ」
「それでも一時であれ逃げ出したいから人は物語を読むのでしょう」
世界から目を逸らし耳を塞いでしまうことは簡単だが、それでは生きていくことが出来ない。だから人はそれを忘れられる時間を求めて虚構の世界へと逃げる。現実では有り得ないような幻想に浸ることで、ほんの僅かな時間であっても自由になれるから。私であって私ではない自分がそこには居る。だから、砂上の楼閣であると知りながらも人々はそれを求めてしまうのだろう。ずっと向き合って生きていくなんてことはしんどくて堪らないから。
「読者の有り方なんて俺が知るか」
「知ってしまったら作者様は色々と無駄なことを考えなくてはいけなくなるものね」
「いや、書きたかったことが伝わろうと伝わらなかろうと俺は気にしてはいない。周囲の反応なぞ一々気にしていたら物書きが勤まるわけがないだろうが」
「それって矛盾しているような気がするのだけど」
「自己の在り方すら見失ったようなやつに何を言われたところで痛くも痒くもないな」
「ごもっとも」
ここに『有る』がここに『無い』ものであること。そして役割を持つという意味では彼女はNPCに近いのかもしれない。けれども単一存在として確かな歴史を刻んできているという点において、決定的に違っていた。さりとてマスターであるわけでもなく、当然サーヴァントでもない。恐らく、一番存在として近かったのはあの教会に居た姉妹であろう。ただ、明確な目的を持って自らの選択でやってきた彼女達に対して、彼女がここに居るのは自分の意志によるものではない。かつて何処かで交わした何かによって、彼女は比喩でなく「気付いたら」ここに居た。その交わした「何か」は既に彼女の中で失われて久しいもので、何故ここに居るのかという答えは最早彼女自身さえも知るところではない。その事実は表であろうと裏であろうと何も変わらない。異質にして異常にして異物。故に誰とも相容れず、誰よりも孤立している。彼女に出来るのは、何もせず何も考えずに単調な繰り返しの流れに身を任せることだけなのだから。
「馬鹿。というのは正しくおまえのような人間のことを言うのだろう。赤の他人のために、人生を、そして死後すらも捧げる奴などそうは居ない。喜べ、おまえは俺がこれまで見てきた中でも上位を争うほどの馬鹿者だ」
「そのくらいのことなら貴方に言われるまでもなく理解してるわ」
「ならば目を逸らすな、それは誰でもないおまえの選択の結果だ。かつてのおまえが願い、そう決めた。それを忘れてしまったというのなら、おまえはその程度の存在に自分を賭けた大馬鹿者だったということだろうよ」
「なら今の私は大馬鹿者なんでしょうね。顔を合わせれば浮かぶ感情はあるけれども、核となる「何か」は磨耗してしまっているから」
「磨耗、というのは実に便利な言葉だな。削り取られてしまったからもう戻ってこない、この繰り返しの中でそれは避けようのない事態だった。とでも言いたいのだろうが、そんなものは同じことだ。おまえ自身に取り戻そうという気が無いから、こんな月の裏側なんていうファンタジックな場所にまで来る羽目になったんだろうが」
言葉尻はどうあれ、アンデルセンの言っていることはただただ事実である。生前の彼女は死の間際に『誰か』を想い、『何か』を誓った。そのためならばあらゆる物を捨てるという不退転の覚悟を持って、この永遠とも思える時間を渡り歩くことを決めたのだろう。しかし巡り巡って、肝心なことが彼女の中から抜け落ちた。それが『誰か』は分かる、行く先々で必ず出会うのだから間違えようもない。けれども、彼のために『何』を想っていたのか、それが分からない。幾度も顔を合わせようとも、ただそれだけだった。分からなくなってしまったのはいつからだったのだろうか。そこで立ち止まって振り返ることが出来ていたら、無為な時間を過ごすことはなかったのだろうか。そうではない。辿り着けない何かに対して諦めを抱いてしまっていた彼女自身が、それを選んだのだ。辿り着けないのであれば、目指す場所を無くしてしまえば良いのだと。
「分かれ道というのはいつ如何なる時においても目の前にあるものだ。故に、おまえのこれまでは常に選択の連続であったはずだ。こうして、わざわざ俺の話を聞きに来ていることもおまえの選択の一つだろう。敢えて自分を批判する言葉が聞きたいというその精神は俺には理解できんがな」
「その辺りは貴方のマスターと似たような理由なんじゃないかしら」
「あれと同じだと? ますますもって理解できんな。いや、説明は不要だ。聞きたくもないからな」
「都合の良い耳をお持ちのようで」
「だから言っているだろう、取捨選択は人間が本能的に取る行為だと。そうだな、餞別代わりに俺からおまえに選択肢を与えてやろう。なに、遠慮はするな。毎日飽きもせずに話し掛けてくるおまえとの会話に、そろそろ俺はうんざりしていたんだ。選択が決まるまではもう来るな、もちろん決まっても来なくて構わんぞ」
「随分と嫌われてしまったようね」
「おまえの中の尺度は好きと嫌いしかないのか? だとしたら随分と極端な人間性だな。まぁいい、今は関係ないことだからな。俺がおまえに送る選択肢は三つだ。進むか、立ち止まるか、引き返すか。それだけだ」
「それで伝わると思っているの?」
「これで伝わらないなら俺のお前に対する評価が誤りだったというそれだけのことだ」
「その時は貴方の特技を書き換える必要があるということね」
「減らず口を叩いている暇があるのなら頭を動かせ」
選択肢を読み解くことはそう難しいことではない。これまでの会話で全て語られているのだから。けれども、どれか一つを選ぶとなれば話は別である。それはこれまでの全てを否定し、或いは己から目を背けることであり、そして世界に抗う覚悟である。選ぶことは容易いが、それを実行するとなれば限りなく不可能に近い。それこそ404光年の距離を越えるようなものだ。時間はある、時間だけはある。今の彼女が持っているものなど、時間と名前くらいしかないのだから。
故に、彼女はいつか
それは恐らくどれほど不可能であろうとも貫くと決めた、あの始まりの誓いと同じだけの意味を持つことになるはずだから。