冬の城
こんな夜更けに一人で郊外の森へと向かう女性に対して始終疑わしそうな顔をしながら運転をするタクシーに乗ることおよそ 1時間。そこから更に2時間弱走ったところで、突如森が開けた先に屹立つ城が視界に入った。日頃から鍛えている士郎とは違うため、ここまで走ってきたことで既に体力は限界に近い。けれども、今は休んでいる暇はない。城の外壁沿いに歩いて入れそうな窓を見繕うと、自分を切り換えるための言葉を紡ぐことで使い慣れない魔術を発動する。大源へと働き掛けることで大気を操作して移動する、現象としては初歩に近いものであることから多少の不安定さはあるものの問題なく目当てのバルコニーまで到達することができた。鍵を外して極力静かに侵入すると中は不自然なくらいに静まり返っている。文字通りここは彼女の『城』だ。だから森に入った時点で、自らの領域に足を踏み入れた者が居るということは既に彼女の知るところであり、恐らくこの行為に然したる意味はない。それでも、万が一という可能性があるからには決して無駄ではないだろう。
頭の中に『いつか』この城を案内された時のことを思い浮かべ、そこから現在の位置関係を割り出す。状況を把握するのに最も適していると思われる広間上部のテラスへの最短ルートを決めたところで、私は廊下を走り出した。幸いにも毛足の長い高級な絨毯が足音を吸収してくれたため、階段を駆け下りる際にも足音が響き渡ることはなかった。 T字路の廊下を進み、突当りで左側へと曲がる。眼下に広がる光景は、私が何とかその時には間に合ったのだということを教えてくれた。
玄関ロビーの中心には圧倒的な威圧感を放つバーサーカーが居る。そしてそのマスターであるイリヤスフィールは最奥に備え付けられた大階段、その上で彼らを見下ろしていた。その表情はあたかも簡単に踏み潰すことのできる小さな虫を見ているかのような無邪気さだった。実際彼女にとってはそうなのだろう。彼らの命など取るに足らないものに過ぎない。
「――お喋りはおしまい? それじゃ始めよっか、バーサーカー。――誓うわ。今日は、一人も逃がさない」
彼女の合図によって響き渡るバーサーカーの咆哮は、心臓を鷲掴みされたかのように身体の芯から揺すぶらせる。勝てない。ここで死ぬしかない。ただひたすらにその事実だけが突き付けられるかのようだった。あれと向き合うくらいならば、ここでこのまま鼓動を止めてしまった方が良い。理性はそう語っている。直接叩きつけられたわけではない私ですらそう感じるのだから、向き合っている彼らはその比ではないだろう。迂闊に動けば待っているのは死だ。それが分かっているから、凛はあくまで静かに一歩踏み出すと何でもないことのようにそれを口にしたのだろう。
「……アーチャー、聞こえる? ――少しでいいわ。一人でアイツの足止めをして」
あぁ、そういうことなのか。その瞬間、私の中で一つの事象について納得がいった。私が『知っている』のはこの日を境に彼は二度と帰って来ないということだけだった。だから、どうして彼が帰って来なかったのか、その理由も過程も何一つとして知らなかった。それは敢えて私に語ることではないと当事者である彼らが判断したからに他ならない。勿論そこには、自分達が生き残るためにむざむざ犠牲にした彼について話すということに負い目もあったのだろう。いずれにせよ、終ぞ聞かされることのなかった一つの結末を、こうして私は知ることとなった。だからと言って、その命令を下した凛を恨むつもりは全くない。それがこの場で最良の判断であることは疑うべくもない。そして――
「ああ。時間を稼ぐのはいいが――別に、アレを倒してしまっても構わんのだろう?」
何よりも本人がそんな風なのだから、外野があれこれと口を出すことでもないと思ったから。果たして彼が何を思ってそんなことを口にしたのか。生き残るためとは言え、自らのサーヴァントに無理難題を突き付けたことを悔いるマスターの気をほんの僅かでも晴らすため。曇った顔は彼女には似合わない、最期に見る顔はいつも通りの強気な彼女であって欲しい。私の勝手な推測ではあるけれど、恐らくそう外れてはいないだろう。未練と呼べるほどの重みはないけれども、その生涯において彼女が彼に与えた影響は決して小さくはない。だから、この再会を経て彼が何を想い、何を感じたのか。それこそ彼にしか分からないことであり敢えて解き明かすことでもないのだろう。既に覚悟を決めた彼に対して、今この場で私に出来ることなどそう多くはない。何のために理を捻じ曲げてここまで来たのかを考えれば、この場に来た時点で何をするかなど決まっているに等しい。そして私は軽い所作でテラスの柵を越えると、後は重力に任せてロビーへと降り立った。
「こんばんわ。イリヤスフィール」
「出てこないつもりなのかと思っていたけれど、そうじゃなかったみたいね。こんばんわ。あなたを招いたつもりはないのだけど、自分から来てくれるなんて嬉しいわ、」
「今回ばかりは来ないわけにはいかなかったのよ。それで割って入った身で申し訳ないのだけれど、少しだけ時間をもらえるかしら?」
「いいわ。少しだけなら待ってあげる」
5秒後が5分後に延びたところで待ち受ける結末は変わらない。イリヤのこれはそう確信するだけの圧倒的な戦力差があるからこその寛大さである。それも単なる気紛れであるが故に、彼女の気分次第でこの瞬間に殺されるということも十分に有り得た。場は未だに彼女の手のひらの上にある。状況は何も変わっていないし、むしろ士郎達からして見れば私が来たことで悪化したとも取れるだろう。不要な悔恨を遺したくないのであれば、彼らが立ち去った後に姿を現せば良かった。けれども、それはフェアではないと思ったのだ。どうして私がここに来たのか、それをきちんと伝えておくべきだと思ったのだ。私の我儘で遺していってしまう彼にだけは、ちゃんと伝えたかった。振り向けば、どうして来たのか、と言いたいことがはっきりと書いてある凛の顔が視界に入った。その後ろでは悔いるように眼を伏せるセイバーと、見開いた眼で食い入るようにこちらを見詰める士郎が居る。
「なんで来たの。なんてことは聞くだけ無意味なんでしょうね」
「そうね。貴方達のせっかくの好意を無駄にしてしまったことについては申し訳ないと思ってるわ」
「別にいいわよ。止めても来たってことはそれが貴女の決めたことなんでしょうし、私は口出ししない。けど、説明はしなさい」
誰に、というのは言われずとも分かっていることだった。恐らく、凛とセイバーは私がどういうつもりでここに来て、この瞬間に姿を現したのか既に理解している。分かっていないのは未だに処理の追い付いていない彼くらいなものだろう。士郎の方へと一歩踏み出して名前を呼ぶと、漸くけれどもひどく緩慢な動作で彼は反応を示した。
「姉、なんでここに……」
「一言で表すなら、私の我が儘ね」
「そういうことじゃなくて、それは俺が、」
「自分のせい、だなんて思わないで。これはね、今私の目の前に居る『士郎』とは全く関係ない、私の、私だけの問題だから」
「ちょっと、待ってくれ。その言い方はなんか、おかしい。それ、どういう意味だ?」
彼女の気紛れで与えられた時間はあまりにも少ない。全てを語って聞かせるにはとても足りない。それに、時間があったとしても彼に全てを聞かせることは何度巡っても決してないような気がした。これから先なんてものが存在しない私がこんなことを思うのもおかしな話だ。単に、私に話すつもりがないというだけのことなのに。目の前の彼は知らなくていい。その生の最期に自分の誓いを違えたがために、大切な家族に恨まれたくなくて、嫌われたくなくて、ただ謝りたいという自己欺瞞に満ちた理由で永遠にも等しい生を繰り返した愚かな姉が居たことなんて。そして今、目の前の士郎のためでなく、たった一人の『士郎』のためにそれを使い果たそうとしていることも。だから彼の質問には答えずに、私は話を逸らすかのように言いたいことだけを伝えていく。
「ねえ、士郎。これだけは言っておくわ」
「質問に答えくれよ、姉」
「私にとって貴方は私の大切な弟よ。血の繋がりがなくても、今の私にとっての家族は衛宮士郎だけなんだから」
「……藤ねえはどうするんだよ」
「うん。また置いていってしまうことになるから、大河ちゃんには士郎が代わりに謝っておいて。ごめんねって」
ここではない別のどこかで、士郎が居なくなってしまった時の大河ちゃんの様子を私は知っている。恐らく彼女は私が居なくなっても同じように悲しんでくれるのだろう。それを知っていながら、私は彼女を置いていこうとしている。ごめんね、なんて言葉だけで許されることではないということは分かっている。大切な相手に優先順位なんてものは本来ないはずであり、あってはいけない。それでも、誰かを悲しませることになったとしても、もう決めてしまったことだから。
「私が居なくても大丈夫でしょう? だから貴方はいきなさい、士郎」
それが最後の言葉だと士郎にも分かったのだろう。背を向けて玄関から遠ざかるように去っていく私を引き留めようとはしなかった。今の士郎にはセイバーと凛が居る。そう言い聞かせることで振り返りたくなる気持ちを私は抑え込みながら、ほんの少しだけ呆れを滲ませながらこちらの様子を伺うアーチャーの元へと向かう。そうしてアーチャーの隣へと並び立つと、この寸劇に口も挟まず待っていてくれたイリヤを再び見上げた。
「もういいんだ?」
「えぇ、十分過ぎるくらいだわ。待っていてくれて有難う」
「ふーん、あなたって本当に変わってるのね。おにいちゃんも気になってるみたいだし、私からも聞いてあげる。ねえ、。あなたはどうしてここに来たの?」
「妹弟喧嘩を止めるのは、姉の役目でしょう?」
「っ、そういうことね。でも、それを知っていてここに来るなんて、やっぱりあなたどうかしてるわ」
「私は私の行動原理に従ってるだけよ。それがどういうことか、貴女ならきっと直ぐに分かる」
彼女が何であるのか。そしてこの後に待ち受ける結末を知っているからこそ出てきた言葉だった。天の杯である彼女だけは、恐らく私がどうしてここにきたのかその本当の意味を理解することが出来るだろう。ただ、目的を理解することと思考を理解することは別物だから、その時になってもやはり彼女は私のことを「変わっている」と称するのかもしれない。
「さて、話は終わったか? こちらとしては良い加減待ちくたびれているのだが」
「私の方から話すことはもう何も。どうぞ、後は好きにして」
「そう言う君は、出てきただけで何もしないつもりか?」
「出来ないことを出来るとは言わないことにしてるの。だから、可能な範囲で貴方をサポートを行うことくらいはさせて貰うわ、とだけは言っておきましょう。アーチャーは凛から言われた自分の仕事に集中してくれたらいいから」
「そうか。では、期待に応えるとしよう」
その一言が引き金になったのだろう、一息の間に緊迫化した空気はまるで肌を刺すかのようにぴりぴりしている。眼前にそびえ立つバーサーカーへイリヤから命令が下されると同時に、背後から三人が駆け出す足音が聞こえた。任されたのは彼らが逃げ果せるまでの時間稼ぎ。魔術を用いた戦闘は得意ではないが、目的が勝利ではなく時間を稼ぐということであればそれなりの役目を果たすことは出来る。それが出来るようになったのも幾度にも渡って時間を重ねてきたからであり、『最初』の私は何も出来なかった。だから――
「――初めてね、こうして一緒に戦うの」
「君が戦場に立つことはなかったからな」
「私もいつまでも待ってるだけじゃないのよ。……貴方は、聞かないのね」
「付き合わせてしまって悪いとは思っているさ」
「思ってもいないことは言うものじゃないわ。でも、ありがとう」
我が儘を押し通してここまで来たが、彼の邪魔をするつもりはない。傍に居れば恐らく彼はこちらにも注意を割かねばならなくなってしまう。それはあのバーサーカーを前にしてあまりにも命取りな行為だと言える。そうさせないためにも、迫り来るバーサーカーの初撃が届くよりも前に隙間を潜り抜けると、そのままの勢いを殺すことなく私は階上へと向かった。意外そうな顔をしてみせたイリヤに対して攻撃の意志がないことを示してみせ、彼女の横へと降り立つ。最もバーサーカーの攻撃が届くにくい場所、それはマスターであるイリヤの横に外ならない。サーヴァントでもなく、魔術師としてもさして優れているとは言い難い私であれば、いつでも殺すことが出来ると判断したのだろう。イリヤもアーチャーと戦うバーサーカーを呼び戻してまで直ぐにでも私を始末しようという気はないのか、ごく普通の様子で話しかけてきた。
「は戦わないのね。アーチャーなんてバーサーカーが相手ならあっという間にやられちゃうよ?」
「向き不向きをわきまえているの。私は自分に出来ることはちゃんとやってるわ」
「そう、あなたはそういうタイプの魔術師なのね。まぁいいわ、どんなに堅固な守りでも創り手を消せば済む話だもの」
イリヤはこの城に起きた変化を正確に読み取っている。私が行使した魔術がどんなものであるのか、それも既に理解しているのだろう。それでも、どんなに強力な魔術であろうとも担い手である私を殺しさえすれば消えてしまうものであるのなら、大した問題ではないと、そうイリヤは言っているのだ。事実その通りではあるけれど、少なからず時間稼ぎという目的は果たすことができるなら、それで十分だった。元より生きて帰るつもりはない。今度こそ最期まで共にありたい。これはそういう我が儘なのだから。後はその時を迎えるまで、彼の姿を目で追い続けながら待っているだけでいい。しかしこうしてせっかく彼女が隣に居るのであれば、何か話をするという手もある。私が何を言ったところで、今のイリヤには何も遺らないかもしれない。だとしても、言葉を交わすことは無意味ではないだろうから。
「ねぇイリヤ、少し昔話をしましょうか。不可能だと分かっていながら、それでも囚われのお姫様を救出しようと何度でも頑張った人の話」
必ず帰ってくると約束したのに、決して戻って来ることはなかった。イリヤにとってはそれが事実であり全てだ。だから今更何を話したところできっと彼女は聞いてはくれないだろう。既に問題はそうした段階を越えてしまっている。けれども、切嗣さんは彼女を見捨てたわけではなかったということ、それだけは覚えていて欲しかった。今は敵対行動を取らざるを得ない相手であったとしても、彼女もまた義妹であり大切な家族だ。叶うことなら、士郎と一緒に幸せになって欲しい。
結局のところ、死を前にして私が思うのはいつでも家族のことだった。ある意味では縛られているのかもしれない。けれども、いつだってそんな風な自分も悪くないと思う。始めから終わりまで貫き通せたのであれば、それは偽物ではなく本物だと思えるから。『衛宮』という名前を背負うに足る存在になれたのなら、今度こそ、思い残すことはもう何もないだろう。