交わらない平行線はやがて一つの結末を生み出す
がその場所に足を向けたのは何も深い理由があったからではない。ただ何となく、足が向いたから。それだけであった。強いて言うのならば、まかり間違っても顔見知りの人間に出会うことがない、というくらいのものであろう。当然そのような場所は他にもいくらでもあるし、むしろより確実性を高めるならば新都や電車を使って市外へと出るべきであったと言える。その手間を惜しみ、この深山町で事を済ませようとしてしまった。だからこそ、今こうしてこのような予期せぬ事態に遭遇してしまっていた。
深山町に住むものならば知らぬ者は居ない紅洲宴歳館、泰山。昼なお締め切られた窓ガラスから店内の様子は分からないが、ある意味で噂に名高いこのような場所に平日の昼間から好き好んで訪れる者など早々居るまい。そう思っていたのが彼女の間違いだったのだろう。世の中には常識という枠組に捕らわれない者も存在しており、有り得ない味覚を有した人間が居るということも絶対にないとは言い切れないのだから。
「食うか――?」
「結構です」
目が合うとあたかもそうすることこそが自然の流れであるように麻婆豆腐を勧められたが、迷いなど微塵も感じられない速度ではそれを断る。昼食時のピーク時であるにも関わらず、経営の存続が思わず心配になるほどに店内は閑散としていた。よって席は幾らでも空いているのだが、これも何かの縁ということで地獄の釜のようなそれを勧めてきた相手、言峰綺礼の対面へとは腰掛ける。彼女が断ったことにより、彼は再び眼前の皿の中身と正しく格闘とも呼べる食事を再開していた。額を伝う汗を拭うこともせず、一心不乱に皿の中身を口へと運ぶ。これを格闘と言わず何と言うのか。見る見る内に減っていく麻婆豆腐のその最後の一口も胃の中へと消えたところで、言峰は漸く机上に置かれたグラスを手に取る。グラスの中身が全く減っていないことから、彼は水を一口も飲むことさえなくあの麻婆豆腐を平らげたことが分かる。以前からこの神父は何処か一線を画した存在であるとは思っていたが、いよいよ人外そのものではないのか。彼の食事風景を目の当たりにしてしまったの中ではそんな疑問が浮上してきていた。
「それで、おまえは何故ここに居る?」
「それはどういう意味で聞いているのかしら? この店の麻婆豆腐を軽々と平らげた人が発した言葉であることを考慮すると、この店である理由を聞いているわけではないのでしょうね。であるならば、私の答えは『昼食を摂りに来たから』よ」
「それは何とも奇妙な話だな。私の知る限りでは、おまえが昼食をここで摂る必要はなかったはずだが」
「今日は講義はないもの、わざわざ大学に行く理由はないわ。この町に住んでいるのだから何もおかしなことはないでしょう? 」
「あくまでもしらを切るというのであれば、こちらから取り立てて追及するつもりはない。しかし、目を背けたところで転がり始めたものはどうあっても止めることはできんぞ」
言峰がそれを彼女に突き付けようとはしないのは、他人に指摘されたところで幾らでも逃げ道はあるからだろう。自分の口で説明しなければ意味はないのだ。そのことに彼女自身も気付いていないわけではない。始まってしまったからには彼女に出来ることは何一つとしてない。特に、今回ばかりは手助けさえも邪魔になってしまう。唯一出来ることと言えば、極力あの家を空けるようにすることだけなのだ。故に、彼女はここに居る。大学に行く日でもなければ彼女が外食することはなく、あの家で彼が予めのために用意しておいてくれた食事を美味しく頂くのが平素の彼女であるにも関わらず。あまつさえ、今日の彼女は体調不良の義弟を家に残して出掛けてきていた。本来の彼女からは到底考えられない行動であると言えるだろう。しかしそれも仕方がないことなのだ。何故なら家には『彼女』が居るのだから。『これまで』と照らし合わせれば事は既に取り返しの付かない方向へと進み始めていると言える。ただそこにあることだけで刺激をしてしまうのならば、そもそも同じ空間には居ない方が良い。つまるところ、これはなりの精一杯の抵抗なのだった。
「逆に質問させて貰うわ。言峰神父、貴方はそれを止めようとするのかしら? それともその勢いを増すようにと後ろから力を加えてしまうのかしら?」
「おまえが何を案じているのか。それについては私の推測に過ぎないが、どちらにも関与するつもりはないと答えておこう」
「何もする気はないと?」
「あぁ、今のところはな」
「実に含みのある答えで結構だわ」
乞われさえすれば言峰は動くだろう。それは一見救いのようにも見えるかもしれない。だが、それは補助であって救済では決してない。問題は誰のための行為であり、その結果として誰が救われるか、だ。そして、苦しんで傷付いて決断をするのは一体誰なのか。手を差し伸べることは彼女にとってはとても簡単なことであるが、その気軽さは後に別のものへと変わり、自身へと降り掛かってくるだろう。今更この身がどうなろうとにとっては大したことではない。長い長い年月を経て、彼女の目的は既に果たされている。ただ、彼女に何かあれば悲しむ人が居る。そこには事態の中心に居る『彼女』もまた含まれているのだ。
「そういうおまえはどうするつもりなのだ、衛宮よ」
「私が今ここに居ることが全てを物語っていると思うのだけれど、それでも答えは必要?」
「不干渉。それが本当に可能であるならば、むしろおまえはここには居ないだろう。おまえは身近なものであればあるほど、甘い。困ってる人間全てを救う。表面上のおまえはそんな夢幻にも近い思想を抱えた人間の下で育った人物像に相応しく、真っ当に歪んでいる。だが真に追い込まれた際にあれらが多数を選ぶのに対し、おまえは身近に居る少数を選ぶ。衛宮とはそういう人間だろう」
「それこそ、わざわざ貴方に指摘されるまでもないことだわ。そんなことはね、生まれた時から十分過ぎるくらいに知っていることなのよ」
彼女はかつて、ただ一人を生かすために多くを殺した。そのつもりがあったかどうかは関係なく、その事実がここには存在しないとしても、それが彼女の真実だ。かの養父の下で彼と共に成長してきたことを思えば、どうしようもなく彼女はずれている。確かに彼らと同じ方向を見ることは出来なかったが、その方向を見る彼らを見続けることはできたから。彼らの生き方が間違っていないように、この生き方もまた間違ってはいないのだとそう思っている。それを否定することなど、誰よりもこの言峰にだけはされたくはなかった。
「貴方の言う通り、私は『正義の味方』にはなれない。でもね、私は『正義の味方』の味方なのよ。だから――貴方はやっぱり私の敵ね」
正面に位置する顔を真っ直ぐに見返しながらそう告げると、は立ち上がって店の外へと向かう。時間を潰すだけのための話相手としてこの神父ほど適していないものはいない。これ以上の会話を続けたところで益になることはなく、むしろ見たくもないものを直面化させられるだけだろう。そう判断した彼女にとって、この場所に留まる理由はもうなかった。
「こうも敵対意識を堂々と表明されては背後から刺されても文句は言えんぞ?」
「お天道様の下で後ろ暗いことをしようという人はまず居ないでしょう」
「では、夜道には気を付けることだな」
「ご忠告痛み入るわ。あぁ、別に貴方のことをどうこうと言っているわけではないわよ?」
「言うに及ばないことを敢えて口にするということは、何かしら思うところがあるということではないのかね」
言峰と会話をしながらも店の出口へと向かっていたは、店を出る直前で足を止めると「誤解があるようだけれど」と切り出した。
「私は言峰綺礼という個人は決して嫌いではないわ。好きにもなれないでしょうけれどね」
そう言い残すと、は手を掛けていた扉を押してそのまま泰山を後にした。帰る家への道程は遠く、その果てに待ち受ける結末も未だ見えはしない。