甘えるということ
その日、目覚めた時からには違和感があった。いつもであれば時間が来れば自然と目が醒めるというのに、今朝に限っては目覚ましがいつの間にか鳴っており、それを止めてからも起き上がるまでに随分と時間が掛かってしまったのだ。昨晩は調べものをしていて遅くなってしまった。恐らくその夜更かしが原因だろうとは結論付けると、着替えを済ませて布団を畳んで窓を開ける。ようやく起き上がることのできたばかり身体であっても、長年の間に身に染み着いた行動は取り立てて頭で考えずともこなすことができてしまったから、起床が遅くなってしまったということに対して急ぐ気持ちの方が大きかった彼女はその違和感をなかったものとして自室を出る頃にはすっかり忘れてしまっていた。
大学生であるの生活リズムはこの家で生活する誰とも異なっている。だからと言って一人だけ朝をゆっくりと過ごすような真似ができるわけもなく、こうして衛宮家の朝食が出来上がる七時には必ず居間に顔を出すようにしていた。中高生の頃と同じように起きれば良いだけのことであるので、それを苦であると思ったことはない。何よりも彼女自身が朝食は皆と一緒に摂りたい思っているのだから、むしろ幸福であると言えるだろう。台所に立つ士郎と桜に「おはよう」と声をかけると、既に食卓の前に座って新聞を読んでいた大河とテレビを見るセイバーと向かい合うように座る。料理の苦手なに手伝えることと言えば配膳くらいであるが、朝の忙しい時間帯には下手に手を出すよりも士郎と桜に任せてしまった方が効率が良い。加えて最近ではその役目はライダーのものへとなりつつあるので、食事の準備においてがするべきことはほとんどないと言っていい。代わりに後片付けを担うことでせめてもの協力をしている状態である。もっとも、二人きりで暮らしていた頃よりこの邸の広さを感じることが少なくなったことを思えば、それは彼女にとっては些細な問題に過ぎなかった。
対象的な様子のライダーと凛が現れた頃には、食卓の上には湯気を立ち上らせるいつも通りに美味しそうな食事が並んでいた。全員が腰を下ろしたところで「いただきます」と手を合わせて箸を付ける。が何よりも一日の始まりを感じる瞬間だった。今朝の調理は主に士郎が担当したのだろう、味噌汁からは慣れ親しんだ香りがした。桜の作るものも美味しいが、にとって『家庭の味』というとやはりそれは士郎の作るものである。この味を一生味わうためにも士郎には小姑の同居にも理解のあるお嫁さんを貰って欲しい、というのがかねてからの彼女の願いであるくらいだ。それほどまでに士郎の作る料理が好きであるにも関わらず、今朝のの箸の進みは遅かった。衛宮家の食卓は底のない胃袋を持つ約二名により戦場のようなものであり、特に大河とは付き合いが長いことから遠慮もなく隙を見せれば横からひょいと取っていかれることも少なくはない。だから箸を止めてぼんやりとするなど、どうぞご自由に取って下さい、と言っているに等しい状況である。それを頭では分かっているのだが、の手は完全に止まってしまっていた。
「さん。手が止まってるみたいですけど、どうかされました?」
「ん、ごめん。なんか変なものでも混じってたか、姉」
「ううん、そんなことないわ。士郎と桜ちゃんのご飯は今日も美味しい。昨日夜更かししたから、少しぼうっとしてしまったのね」
最初にの異変に気付いたのは白米のお代わりをよそうために常に食卓に気を配っていた桜だった。その言葉で士郎も顔を上げると、ほんの少し眉をしかめる。作り手としては食べる側の手が止まっているからには、自分が何か失敗をしたのではないかと思ってしまうのだろう。それを杞憂であると否定すると、これ以上は士郎に要らぬ気を揉ませまいとは意識して箸を料理へとつけていく。昨晩の夕食以降は何も口にしていないためお腹が空いていないというわけではなく、食べようと思えば食べることはできた。の箸が再び動き始めたのを見て、桜の発言から彼女へと集まっていた食卓の注目も徐々に逸れていった。しかしその後も思うように食は進まず、結局のところの朝食の半分は大河の胃袋へと収まることとなったのだった。
単なる寝不足にしては些か度合いが過ぎている。自身どうしたものかと思案しながら食器の片付けをしていた時に、それは不意に訪れた。視界が傾き、意識が遠退いていく感覚。あぁ倒れるんだな、それならお皿を置かないと割れてしまう。他人事のようでありながらそれでも指一本動かすこともできないもどかしさ。そして、暖かい何かに支えられると同時に皿を持つ手を覆うように被せられた掌の感覚を最後に、は意識を手放した。
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次に目覚めた時、は見慣れた自室の天井を見上げていた。今朝きちんと畳んだはずの布団は再び敷かれており、その上に自分は横たわっているらしいと理解したところで身体を起こそうとすると、それは横から現れた手によって制される。
「まだ寝ていなくては駄目ですよ、」
「セイバー……?」
「はい」
「どうして、私は寝ているのかしら?」
からからに渇いた口内は言葉を紡ぐのも億劫にさせるが、は掠れた声で何とかその疑問を口にする。これだけは聞いておかなければならないと思ったからだ。それに対してセイバーは呆れたように一つ溜め息を吐くと、起き上がろうとしたことで乱れたの布団を直しながら彼女の疑問へと答えてくれた。
「貴方は朝食の後片付けをしている最中に倒れたのですよ」
「私、倒れたの?」
「そうです。まったく、これだけの高熱を出していながら気付いてなかったとは。大事にならなかったから良かったものの、はもう少し自分を労って下さい」
「そう、だったの。朝から少しおかしいかなとは思ってはいたのだけれど」
「姉弟だからですかね。シロウもそうですがも、貴方たちはいつも自分のことを二の次にしてしまう」
「……ごめんなさい」
「謝罪は結構です、それよりも早く治して下さい。そちらの方が私も、他の皆も嬉しいでしょう」
「ありがとう」
熱を測るために額に乗せられたセイバーの掌が心地好く、再び瞼が落ちそうになったところで、廊下から近付いてくる足音が聞こえたかと思うと部屋の襖が勢いよく開け放たれた。
「やってらんないわ、ほんと」
額に手を当てながら疲れきったようにそう口にすると、部屋に入ってきた人物――凛はセイバーと同じように枕元へと座った。そしての目が覚めていることに気付くと「良かった、目が覚めたのね」と先程とは打って変わって笑顔を浮かべるのだった。
「リン、貴方がこちらに来たということはあの二人は?」
「放ってきたわよ。流石に私もこれ以上は付き合ってられないもの」
「しかしそれでは……」
「なによ、それならセイバーがあの二人止めてくれるの? 私はもう嫌よ、勝手にやらせておけばいいじゃない。あぁもう、どうしてこういう日に限って弓道部は活動があるのかしら。桜も藤村先生も出掛けちゃうし……」
二人の会話を聞いていて、そういえば桜や大河の姿が見えないことには気付いた。桜は病人が居れば積極的に看病に当たるであろうし、大河は彼女の横で無闇に騒いでいそうなものである。今日は日曜日ではあるが、二人共学校に出掛けたのであればこの場に居ないのも納得である。そしてライダーは、明日もアルバイトがあると昨夜聞いた。そうなると『あの二人』というのが誰を指すのか自ずと分かってしまい、は今度は頭が痛くなるような感覚に襲われた。今も枕元で疲労感に満ちた発言をする凛を見ていては、素直に嬉しいという感情よりも申し訳ないという気持ちが先行するのも当然だった。
「大体、看病なんて誰がしてもそう変わらないと思わない?」
「確かに。身体を休めることで体力の回復に努めるわけですから、治すという本人の気概に寄るところが大きいと言えますね」
「でしょう? まぁ自分でできないことに関しては誰かの助けがいるけれども、その助けを与える相手は誰でもいいと思うのよね。はどう思う?」
「二人の言うことも一理ある。でも、病院で世話をされるより身近な人に世話をして貰った方が気は休まる、じゃない?」
凛のようなタイプはもしかしたら身近な人間であればあるほど借りを作ってしまったと考え、むしろ仕事として割り切っている看護士などにしてもらった方が気負わずに済むのかもしれない。その辺りの考え方は人それぞれだろう。ただ、にとっては看病をしてもらうのであれば見知らぬ他人よりも身近な人の方が良いということであった。自分のことを心から気遣うその姿に、心配を掛けて申し訳ないという気持ちとは別に嬉しく思う部分もあるのだ。大切に思ってくれているのだと、感じることができるから。
「それに、私はお姉ちゃんだから、弱ってる時でもないと甘えられないかなって」
「…………。あの二人がどっちが看病するしないで張り合う気持ちがちょっと分かったかも」
「そうですね。私も恐らく今リンと同じ気持ちかと思います」
「まぁ、それとあの二人の好きなようにさせるのとは話が別だけど。枕元で騒がれちゃ治るものも治らないし、かと言って今の貴女にどっちか選んでっていうのも無理な話よね」
意識がはっきりしているものの焦点の定まらぬ視線で自分を見つめるの姿を見て、未だに熱は下がっていない彼女の状態を察した凛は、再度溜息を吐いた。他の事柄であればまだしも、のことに関して凛やセイバーが彼らに口を出すということは少しばかり躊躇する行為であった。彼女にとって『家族』という関係性を持つ彼らに対して、あくまでも二人は部外者なのである。そこに敢えて踏み込んでしまっても良いものかというその点が、凛とセイバーに行動を起こすのに二の足を踏ませていた。もしも今の彼らの行動に口を挟める人物が居るとすれば、それは彼らと同様に彼女にとって『家族』である人だけだろう。だからと言って、このままあの二人を放っておけば、そう遠くない内に彼女の元にはオートミールが二皿届けられることになりかねない。再び居間に戻るか否かを凜が思案している正にその時、その人物はあたかもタイミングを見計らったかのように現れた。
「たっだいまー! 気分はどう? 少しは落ち着いた? たしか前にがここに置いてある薬あわないって言ってたの思い出してうちの持ってきたから、後で飲んでね。あ、それとりんごも買ってきたのよ」
襖を開け放つと同時に部屋に響いていた声の主は、未だに床に臥せっているの姿を確認するとその勢いを瞬時に消し去った。そして驚くほど静かに枕元へとしゃがみ込むと、額に当てた掌から伝わる温度の高さに眉を寄せる。
「もー駄目でしょ。季節の変わり目は温暖差が激しいから気を付けること、っていっつも言ってるじゃない」
「……弓道部の練習は?」
「病人は余計なこと気にしなくて良いの。桜ちゃんが『ここは大丈夫ですから帰ってさんのこと看てあげて下さい』って帰してくれたのよ。遠坂さんもセイバーちゃんも、看ててくれてありがとうね」
「いえ、看病というほどのことはしていませんから」
「そんなことないわよー? 一緒に居てくれる人が居るってだけでも弱ってる人には十分だもの」
気が弱ってる時は人恋しくなっちゃうのよね。と言いながら、何かを探すように部屋の中を見回すと、純粋に不思議だと言うように当然の疑問を口にした。
「ところで、お姉ちゃんの一大事だっていうのに士郎は何してるの?」
核心に切り込むようなその質問に対して、セイバーとお互いに顔を見合わせてから仕方がないというように凜が語り始めた事情を聞くと、常に陽気な彼女にしては珍しく呆れたような溜め息が漏れた。
「士郎にはちょーっとお灸を据えないといけないみたいね。それとアーチャーさんにも」
「あんまり、怒らないであげてね?」
「はいはい、分かったわよ。に免じてきつくは叱らないから、あなたは大人しく寝てること!」
「うん。ありがとう、大河ちゃん」
そう言い置いて大河が立ち去ってしばらくした後、台所の方からそれは凄まじい音が聞こえてきたが、誰一人としてその様子を見に行こうとはしなかった。触らぬ虎に祟りなし、ということだろう。ほどなくして大河は小さく切ったりんごを乗せた皿を持って部屋へと戻ってきた。それだけであの二人が作っていたはずのオートミールがどこへいってしまったかというのは想像に難くない。しかし当然気付いているはずのがそれを指摘することなく美味しそうにりんごを食べているため、セイバーと凜は無言でそっと部屋を後にしたのだった。
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その晩、灯りも消えて皆が寝静まった頃にはふと目を覚ました。朝からあったけだるさのようなものはほとんど薄れている。これならばと思い身体を起こそうとすると、またしても誰かの手によって彼女はそれを制された。ただ昼間のセイバーの時と違った点は、がその手を掴み返し、再び寝かせようという意志に逆らったことだろう。
「……大人しく寝ていたらどうだ」
「一日中寝てたら、今度は身体が痛くなるわ」
「せっかく下がった熱をまた上げる気か」
「自分の身体のことだもの、大丈夫かどうかくらいは判断できる」
「高熱に気付かず、倒れた人間の言葉では信用に欠けると思うがね」
「何と言われようとも、今は起きていたい気分なの。ねぇいいでしょう?」
手を掴んだまま強請るように言う彼女に対して、折れたのはもちろん彼の方だった。が道理に叶わないわがままを言うことは基本的にない。だからこれは体調を崩しているからこそ出る発言であり、彼女なりに甘えているということなのだろうと思えば、どうするかなど彼にとっては最早決まりきっていることだった。そうした彼女への自分の甘さに対して溜息を吐きながら、掴まれているのとは逆の手を起き上がる彼女の背中を支えるように添える。そんな些細なことでも彼女は嬉しそうに微笑むのだから、彼としてはたまったものではない。気付けば掴まれていた手は、いつの間にかてのひらを合わせる形に握り直されていた。
「二人して大河ちゃんにこっぴどく怒られた?」
「…………」
「相変わらず、大河ちゃんには敵わない、と」
「それは君も同じだろう」
「そうね。やっぱり大河ちゃんは大河ちゃんだから」
一見すると彼女の説明は意味を成さないものであったが、彼にも思うところがあったのかそれに対する反論はなかった。藤村大河という存在は彼らにとっては『家族』なのだから。血縁関係の話を持ち出してしまえば、それは彼と彼女も、そして彼らを育ててくれた人も、この屋敷で暮らしている誰一人として持ち合わせてはいない。そうしたものではなくもっと別の部分で繋がっている。それを強く実感させてくれる存在こそ大河なのだろう。だから、真の意味で掛け値なしに彼女が甘えられる相手というのはきっと衛宮士郎ではない。昼間の様子を見ていてもそれが誰であるかは明白だった。そんなことに思い耽っている彼の眉間をぐりぐりと圧す指があった。
「何をしているんだね、君は」
「眉間に皺、すごいことになってる。何を考えていたの?」
「大したことではないさ」
「そうやってすぐはぐらかす。言わなければわかるまい、とでも考えてるのでしょうけど、顔にまで出しておいて気にするなという方が無理な話よ」
「……君のために俺に何ができるか考えていたんだ」
零すように呟かれたその言葉を聞いたは信じられないものを見たかのように何度も瞬きをした後、弾けたようにくすくすと声に出して笑い始めたのだった。驚いたのはまさかそんな反応が返ってくると思っていなかった彼の方で、一転して不機嫌を隠そうともしない顔となる。そんな彼の様子を察したのか、未だ収まらない笑いを噛み堪えつつ彼女は「違うのよ」と必死に否定の言葉を口にした。
「だって、貴方がそんなこと言うと思ってなかったんだもの」
「悪かったな、似合わなくて」
「そうじゃなくて、正義の味方は特定の誰か一人の味方ではないでしょう。その貴方が、私一人のために何ができるかってそんなことで悩んでいたのかと思うとおかしくって」
「君は……」
「ねぇ、士郎。私は貴方が貴方だから好きなのよ。正義の味方である貴方に、私だけの味方になって欲しいなんて望んだことは一度もない」
「そうだったな」
「それでも、私のために何かをしたいと言ってくれるなら、眠るまで手を繋いでいて。それだけで私は十分だから」
願いというにはそれはささやかすぎるなものだったが、にとっては彼に望むものとしては過ぎるくらいだった。もたれかかるようにして寄り掛かってきた彼女を片方の手で抱き止めながら、彼は繋がれたもう一方の手に力を込める。甘えるように顔をこすりつけてくるのを見て沸き上がる葛藤に苛まれつつも、彼はその手を離すつもりはないのだろう。穏やかな彼女の寝息が聞こえてくるまで、寄り添った影が離れることはなかった。