その名の背負うもの
そのままホテルへと戻り、最上階へと向かう。
幾重にも敷かれているという魔術防壁は、持たされている礼装の御蔭か私には効果を成さない。
それらを素通りした先にある一つの扉。
そこが現在の私の生活拠点だった。
「ただいま戻りました、ケイネス様」
「今日は珍しく早かったな。何か情報でも掴んだのか?」
「はい。英霊と思しき人物と遭遇しました。ジル・ド・レェと名乗っていましたので、恐らくはキャスターのクラスかと」
「それでお前はそのまま帰ってきたのか?」
「まずは報告を、と思いましたので」
深く腰掛けたスツールの肘掛をトントンと叩く神経質な音が響く。
何を言われるか、予想は付いていた。
「何故その場で直ぐに私に連絡を取らなかった。貴様も魔術師の端くれならば使い魔くらいは使えるだろう」
「申し訳ありません。実際に英霊を目の当たりにして気が動転していたのでしょう、考えが及びませんでした」
「やはり傍系は何処まで行っても傍系か。それで良くもアーチボルトの姓が名乗れるものだな」
私は彼の叱責を黙って受け入れる。彼の言うことは間違っていない、私の現在の身分に対して実力が伴っていないのは事実なのだから。それに、この時間が長くは続かないことも分かっていた。毛足の長い高級な絨毯は足音を吸収する。だから、彼はまだ背後に現れた彼女には気付いていないだろう。
「言い過ぎよ、ケイネス」
「ソラウ……」
「はまだ10代の子どもよ。英霊という強大な存在と行き会って冷静な判断力を失ってしまうのも無理はないわ」
「だが、私が同じ頃の歳には既に実践においてもある程度の経験は積んでいた。アーチボルトの本家に養子に来たのならばこの程度のことは出来て当然だろう。後々困るのはそいつだ」
「つまり、彼女のことを想っての発言だったということね。なら、もう少し優しい言い方をしても良いんじゃないかしら。血の繋がりはなくとも、は貴方の妹なのだから」
「魔術師に家族の情など不要だ」
そう言ってケイネス様、いや、お兄様は私から視線を逸らして口を噤んだ。アーチボルトの本家筋に引き取られて以来、彼からは事ある毎に叱責を受けている。その度に『私のためである』と聞いてはいるが、それが建前であるのか本音であるのか未だに判断は付かない。恐らく後者の可能性が高いとは思う。けれども、彼が生来あまり素直な性格ではないことも私は知っていた。戸籍上の兄妹となったのはここ数年のこととは言え、親戚関係は生まれた時からのものだ。彼の人となりというものはそれなりに理解しているつもりだった。
幼き頃より神童と呼ばれ育ったことからその自尊心の高さは折紙付だが、同時に自分より弱き者に対しては手を差し伸べる度量も持ち合わせていた。
故に、彼が私のことを本当のところはどう思っているのか、未だに判断しかねているというわけである。
そして、結論が出ないのならばこちらも曖昧な態度を取るしかなかった。
「ソラウ様。私がアーチボルト本家の人間として至らぬ点があるのは事実です。ケイネス様の叱責も当然と言えましょう」
「、そんな畏まった呼び方をしないで頂戴。私はいずれ貴女の姉になるのよ?」
「では……ソラウお姉様。私のせいでお二人が言い争いをされているのはとても心苦しいのです。どうか、お兄様をお叱りにならないで下さい」
「貴女がそう言うのなら、私がこれ以上続けていては余計な真似になってしまうわね」
「いいえ。いつも私を庇って下さって、ありがとうございます」
「私がやりたくてやっていることよ、気にしないで。今まで自分より下の兄弟が居なかったから、つい助けてあげたくなってしまうの」
彼女の優しさには感謝している。本家の命によって今回の聖杯戦争に同行させられることになった私を彼が疎ましく思っていることには気付いていた。魔術師としてまだ修業中の身である私が此処に居ても邪魔になるだけだということは始めから明らかであったし、出来ることと言えばせいぜい今日のような情報収集だろう。それさえもサーヴァントや使い魔を用いて行えば事足りることである。だから、彼は早々に私をロンドンへと送り返す心積もりであったはずだ。それを留め置くように進言してくれたのは間違いなくソラウだろう。もしも送り返されていたら、本家の人間から受けることになったであろう仕打ちを思えば彼女への感謝は正に言葉に尽くし難い。
いつだって庇ってくれる彼女には私も親愛の情を抱いている。けれども、私に向けるその関心の十分の一でもケイネスに向けてあげて欲しいというのは無理な願いなのだろうか。心の中に浮かんだその考えを私は言葉にすることは出来なかった。
「それではお兄様。私は自室の方で先ほど遭遇したサーヴァントの魔力を辿れないか試みてみます。何か分かり次第、またご報告させて頂きます」
「くれぐれもこちらの居場所を突き止められないように注意しろ」
「ここ数日の調査の間にダミーの経由点を幾つか用意しましたので、それらを使うつもりです」
「そうか。期待はしていないから無謀な行為だけは避けるように」
「はい。では、ソラウお姉様も失礼します」
宛がわれてた自室へと戻る途中、扉の傍に控える彼の姿が目に留まった。ケイネス様に召喚されたランサーの英霊、ディルムッド・オディナ。思わず睨み付けてしまっていたからか、私の視線に気付いた彼がこちらに目を向ける。ふっと肩を竦めると、呆れたように苦笑を浮かべた。それがどういう意味のものなのか私には分からなかった。ただ、それに微かな苛立ちを感じたことは確かだった。
自室に戻り、そのままベッドへと腰掛けて私は考える。ケイネスとソラウの関係。二人は婚約まで果たし、いずれは結婚するものと見做されている。この聖杯戦争においてもソラウはケイネスを将来の伴侶として支えるために同行していると聞いていた。けれども私には、二人の心が離れていってしまっているように思えた。きっとケイネスも気付いているだろう。二人の仲はこの聖杯戦争に参加したことで溝が深まってしまっていることに。その理由が、あの英霊にあることに。
「魅惑の黒子か……」
あの程度の魅了の魔術を撥ね退けるだけの魔力は当然ソラウも持ち合わせているだろう。もしも魅了の魔術に嵌ってしまっているのならば、それを解除すれば良いだけだ。
しかし、敢えて彼女があの魔術に身を委ねているのだとしたら、話はそう簡単ではない。
名のある魔術師の家系に女として生まれたならば、いずれは別の名のある魔術師の家系に嫁ぐことになるのは分かっていることだ。
自身もそのように教育を受けてきている。
ましてやあのソラウがそのようなことを理解していないとは思わない。
それでも、全てを分かった上でもこれまでとこれからの彼女の人生を捨ててしまえるほどに価値があるものなのだろうか、恋慕の情というものは。
いや、きっと恋慕の情に限ったことではないのだろう。
彼女が焦がれているのは、その心を動かす激情なのだ。
同じように魔術師の家系に生まれた私だからこそ分かる。
これまでの人生において、私には心を揺るがす経験というものは与えられてこなかった。あったとしても、それは負の方向への感情に過ぎなかった。
だからこそ、喜びや慈しみ、そして思慕といった正の感情に惹かれる。
それがどんなものか私には分からないけれど、きっと一度味わってしまえばそれこそ病み付きになってしまうのだろう。
今のソラウのように――。
「それでも、お二人には幸せになって頂きたいと思うのはいけないことなのでしょうか」
それがソラウが心から望むものではないとしても、出来ればそうあって欲しい。ケイネスのためにも。そして、アーチボルト家のためにも。そこで『家のため』という考えが浮かぶ時点で、私はきっと骨の髄まで魔術師の名家の人間なのだと思う。こうして同じ境遇にあるからこそ、ソラウは私をケイネスから庇ってくれているのだろう。そんな優しい彼女から、漸く手にした代え難い至宝を奪い去る。私がやろうとしていることはそういうことだ。
それでも、やらなくてはいけない。
どんな結果を招くとしても、それが・アーチボルトとして私に課せられたことだ。
決意を新たに固めると、私は作業へと取り掛かるべく資材を手に取る。
一刻も早くこの聖杯戦争を終わらせるために、手段を選んでなどいられなかった。