早すぎた接触
職員室で先生たちと話をした後、放課後になるまでは図書室で過ごすことにした。本来であれば部外者であるが、転校前の懐かしさがあるということを先生も理解してくれたのか授業を邪魔しないという条件付きで許可をしてくれたのだ。今日の午後はどこのクラスも体育の授業がなく、校庭から聴こえてくる声もないため図書室はとても静かだった。暁は何となく気になった本を一冊本棚から抜き出すと席に座ってぱらぱらとめくってみたが、内容はあまり頭に入ってこなかった。一人きりの時間は、とても、静かだ。こうして童実野高校に居ると、どうしても彼女は思い出してしまう。もう彼はここには居ないのだと分かっているのに、ふとした時に声が聞こえてくるような気がするのだ。遊戯と、もしかしたら獏良も同じような思いを抱えているのかもしれない。考えてどうこうなる問題ではないということは暁もよく分かっているため、静けさに釣られるように徐々にやってきた眠気にそのまま身を任せることにした。時差もあってか、あっけないほど早くに眠りは訪れた。
次にが目覚めたのは夕方だった。時計を確認すると、下校時間を少し過ぎている。せっかく遊戯たちと一緒に帰ろうと思って時間を潰して待っていたのに、これでは台無しだった。
「今からでも追いかければ間に合うかな」
急いで荷物を纏めると、記憶の中から掘り起こした遊戯たちの帰り道を辿るべくは走り出した。一瞬、教室を確認しようかとも思ったが、元クラスメイトに会ってしまうと間違いなく話し込んでしまうので、そのまま追いかけた方が早いと判断した。その判断が間違っていなかったと分かったのは、学校を出てしばらく走った鉄橋のたもとで遊戯、杏子、城之内の後ろ姿を見付けた時だった。がそのまま駆け寄って声を掛けようと思ったところで城之内が突然橋の上から飛び降りてしまい、あまりの出来事に驚いた彼女はその場で足を止めてしまった。追いかけるように遊戯と杏子も土手を降りて鉄橋の下へと走っていくのを見て、ようやくそこで彼女にも鉄橋の下で何か起きているのだと分かり、下を覗き込む。そこには城之内から絶対に関わるなと言われている百済木という不良たちと、今朝方写真で見た少年――いや『クラスメイトの藍神』が居た。
「大丈夫だったか、藍神!?」
「うん。有難う、城之内くん、真崎さん、それに武藤遊戯くん、だったよね」
不良に襲われていた藍神を城之内が乱入して助けた。何もおかしなことはないはずなのに、の中の何かが警鐘を鳴らしていた。ダウト。彼女がずっと信じてきた直感がそう言っていた。礼を言って立ち去る藍神の後ろ姿を見ながら、は今夜の行動を決めた。深夜十二時に三丁目の廃ビル。それが百済木が藍神に指定した場所だった。
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三丁目の廃ビルの周囲には一様にKCのロゴが入った工事現場が並んでおり、この区画が開発途中で放棄されたものだと示していた。工事用ヘルメットを被りデフォルメされた青眼白龍は悔しいがちょっと可愛いと思ってしまった、そのデザインを立案したであろう相手には口が裂けても言わないが。しかし住居がないということは、多少大きな声を出しても通報されたりはしないということである。百済木のような不良がいかにも好みそうな場所だった。が物陰に隠れて見張っていると、まず百済木たちが現れた。その少し後に藍神がやってきたが、その顔からは何の感情も読み取れない。少なくとも、不良に呼び出されて報復が怖くてやってきた、という顔ではないことは確かだった。躊躇いもなくビルの中に入っていった藍神を見送り、時間を開けてからはその後を追いかける。既に藍神の姿は見えないが足音を追いかければどこに向かっているかは分かった。気配を悟られないように慎重に歩を進めていくと、やや離れたところで明るい光が見える。同時に百済木たちの声が聞こえてきたため、はそこからより慎重に進み、ぎりぎり藍神の姿が見えるところまで距離を詰めると柱の影にしゃがみこむ。耳を澄まさなくても、彼らの会話は彼女の耳に届いてきた。
「君たちの記憶に、僕は住んでいるのかい?」
「……おまえ、藍神だよな?」
百済木たちに囲まれていたはずの藍神と、彼らの立ち位置は気付けば入れ替わっている。場を支配しているのがどちらか、から見てもそれは明らかだった。そこからは何が起きているのか、一部始終目撃していた彼女にも良く分からなかった。藍神の手にどこからともなく現れた立方体が引き金であったということは理解できたが、どうして百済木たちが橙色の粒子となって消え去ったのか、その仕組みは全く分からなかった。藍神の言うことが本当ならば、彼らは別の次元へ飛ばされたということなのだろう。この場でただ一つ確かなことは、『クラスメイトの藍神』は普通の存在ではないということだ。
「さて、そろそろ出てきたらどうだい。そこに居るのは分かってるよ」
「…………」
「隠れても無駄さ。君たちと僕たちでは世界に対する認識が異なってる。君からは見えてないつもりかもしれないが、僕からはそうじゃない。話をしようじゃないか」
「……本当に話だけで済むならいいんだけどね」
これ以上隠れていることに意味はない。そう判断したは藍神の前に姿を晒すことに決めた。現れた彼女の姿を見て彼は驚いたかのように目を瞬かせたかと思うと、一転して柔らかい表情を浮かべる。違和感のない程度にが視線を向けると、先ほどまであったはずの立方体は既にその手の中にはなかった。
「君はこんな時間に何をしにここへ?」
「その答えを貴方が知らないからだよ、藍神くん」
「その制服、同じ学校だよね? クラスメイトのえっと……ごめんね、名前が思い出せないみたいだ」
「残念外れだよ、私は貴方のクラスメイトじゃない。私は貴方を『クラスメイトの藍神』として知っているのに、貴方は私を知らない。この矛盾が何を意味してるのか、貴方なら分かるよね」
「君が何を言っているのか、よくわからないよ」
が無関係の一般人だと思ったのか、藍神は一変して態度を軟化させていた。しかし、彼女の方がそれを良しとはしなかった。このまま彼に合わせていれば一時的にこの場を凌ぐことは出来るかもしれないが、それではここまで来た意味がなくなってしまう。あの海馬がわざわざ写真を渡して警告してきたということは、この少年には何かがある。それもきっと、遊戯たちや彼女自身にも深く関わっている何かが。それを突き止めなくてはいけないという思いが、今のを動かしていた。
「私の記憶に、いや、貴方に対する認識にずれがあるってこと。こうしてる今も、私の記憶違いだと思いそうになる。でも私の直感が、貴方は嘘を吐いてると言ってる。貴方は何者?」
「君が混乱してるだけだよ、と言っても信じてもらえなさそうだね」
「生憎と、私はもう童実野高校の生徒じゃないから貴方のクラスメイトってことは絶対にないの。だからこの記憶は違うって言い切れる」
「なるほど。その制服は僕を騙すためのものだったってことか」
久々に着てみたいという気まぐれから身に纏った制服はどうやら彼の認識を欺き、切り口となる効果があったらしい。からの指摘を受けて取り繕うことをやめたのか不意に藍神は全ての表情を消し去った。いや、覆い隠したという方が正しいのかもしれない。藍神は暁が遊戯たちの仲間であることを知らないし、は藍神が何者であるのか知らない。お互いに相手の出方が読めず、その表情から何かを読み取ろうにも互いにそれは許さない。故に事態は硬直していた。
「それで、君は僕のことをどうするつもりなのかな」
「それはこっちの台詞。百済木たちみたいに私のことも消すつもり?」
「君が僕の邪魔をするのなら、そうなるかもね。そうじゃなくても、君の知っていることを話してもらう必要はありそうだ」
「素直に話すと思う?」
「嫌でも話したくなるようにしてあげるよ」
いつの間にか藍神の手中には再び立方体が出現していた。それと同時に、と藍神の二人を囲うようにどこからともなく現れた人影が増えていく。そう、人影は本当に突如として現れていた。今ここに現れたというよりも、元からそこに居たがには認識できていなかったという表現の方が正しいのかもしれない。先ほど藍神が『世界に対する認識が異なっている』と言っていたから、彼女の推測はそう的外れなものでもないのだろう。
「多勢に無勢、という言葉くらい知っているだろう。大人しく質問に答えてくれればこちらも手出しはしないさ」
「口約束は信用するなって耳が痛くなるほど言われてるんだよね。話したところで解放して貰えるって保証なくない?」
「あくまでも話すつもりはない、と?」
「ペラペラ喋ったってバレると後から面倒だし。というか、私は今日こっちに帰ってきたばっかりだから、貴方が知りたいようなこと本当に知らないと思うよ?」
「それが真実かどうかはこちらが決めることだ。どうやら君は実感を伴わないと分からないタイプのようだ」
その言葉が引き金となったのか、立方体から発せられる橙色の光と同じものがの身体からも立ち上る。発光しているというよりも、分子が解けていっているという方が正確だろう。現に、床の灰色のコンクリートが見えるほどにの手は透けていた。そんな状況になっても『まずいことになったなぁ』などと考える余裕が彼女にあったのは、これまでにそれなりの場数を踏んできていたからだろう。藍神にはまだから情報を引き出したいという気持ちがあるからこそ、百済木たちのように早々に彼女を消し去ることをしていない。であれば何かしらの情報を引き換えにすれば危機を脱することはできるが、は自分が彼にとって価値のある情報を何一つとして有していないことが分かっていた。できたところで、せいぜい海馬の名前を出すくらいだ。その程度のことでは最早納得はして貰えないだろう。となれば、他の手でこの状況を抜け出す方法を捻り出すしかなかった。
何か使えるものはないか、がそう思いながらポケットに手を入れると、指先に何かが触れた。悟られないようにそのまま指先と掌で探り、それが写真と共に海馬から渡されたものであると気付く。常に持ち歩くようにと伝えられたため、制服へと着替えた際にポケットへと滑り込ませた覚えがあった。わざわざ渡してきたからにはそれなりの意味があるはずだ。癪ではあるが他に頼れるものもない、縋るようにそれを握り締めると身体から立ち上る光が僅かに弱まり、手足に感覚が戻ってくる。これならいける。そう思いが伏せていた顔を上げると、じっと観察するようにこちらを見ていた藍神と目が合った。
「話す気になったかい?」
「悪いけど、死んだ兄から『友達は大事に』って言われてるか、ら!」
いつものように腰に巻いていたブレザーを解き、眼前の相手に向けて投げ付ける。と同時にはしっかりとした足取りで出口へと向けて走り出した。一瞬の目くらましと突然の全力疾走、一つ一つは大して効果はないが二つ合わせれば意表を突く程度の効果はある。何より、あの場から抜け出してさえしまえば彼は追ってこないだろうという予感がにはあったのだ。実際のところ、ビルの出口に辿り着いても誰かが追って来る気配はない。恐らく彼にとって彼女の存在など瑣事に過ぎない。であれば、目の前から居なくなれば追いかけてまで何とかしようという相手ではないのだろう。
「藪蛇突かないで様子見しておけば良かったかなぁ……」
これで今後、もしもが彼の前に姿を現すことがあれば嫌でも警戒されることになった。極力会うことは避けたいところだが、遊戯たちの側に居るとなれば『クラスメイトの藍神くん』を無視することはできないだろう。そもそもは彼が何者で、どんな目的で動いているのかすら知らない。圧倒的に情報が足りていなかった。そんな中で本丸に切り込むのはあまりにも無謀だったと思う。彼女のそうした思い付きの行動を諌めてくれる相手はもう居ないのだから、少しは自分で考えて行動をするということを学んでいかないといけない。敵側からの情報収集に失敗したとなれば、次に聞くべき相手は言うまでもない。一先ず人気のない工事現場を離れつつ、状況報告のメールを入れる。朝にでもなれば勝手に向こうから連絡が来るだろう。途中から極度の疲労感に襲われながら何とかチェックインしたホテルの部屋まで辿り着いたところで、ベッドへと倒れ込むようにダイブするとそのままは意識を手放した。『制服を着たまま寝ると皺になるといつも言ってるだろう』そんな懐かしい幻聴を聞いた気がした。