餌付け
目覚めは心地良い風と共に訪れた。身体をくすぐる、ほどよい暖かさの風を感じる。
そして、うつ伏せになった身体の下には草の感触が……ちょっと待て、それはおかしくはないだろうか。
昨夜は寮の自分の部屋で寝たはずだ、間違っても野宿をした覚えはない。
そもそも、今日は『いつ』なのだろうか? もしもまた世界が始まったのならば、自分の記憶と今の状況に食い違いがあっても不思議ではない。まずは日付を確認しよう。
そう考えて立ち上がったはずなのに、驚くほどに地面が近い。いや、そうではない、視界が低いのだ。
そして地面を踏み締める足元にはふにふにとした弾力がある。灰色の体毛に覆われた4本の手足全てに。
ここまできて自分の身に何が起きているのか理解出来ないほど鈍くはない。『そんなことは有り得ない』と切り捨てることは容易であるが、それこそただの現実逃避だ。
なにせこの世界では何が起きても不思議ではないのだから。であるならば現状を正しく把握することこそが解決の糸口となるだろう。
結論を言ってしまえば、目覚めたら私は猫になっていた。
どうして猫になったのかは分からないが、まずはこれが一時的なものかどうかを知る必要がある。
『今回』私に与えられた役割がこの姿だと言うのであれば、ある意味で問題はない。しかし『』という人間がきちんと存在するのであれば、当然いつまでも猫の姿のままで居るわけにはいかない。
今居るのは、恐らく中庭の茂みの何処かだろう。普段であればこの学園内を歩き回ることに一切の不自由は無いが、この身体でも同じように考えるのは危険だ。
体力的にも移動距離は短いに越したことはない。となれば、この近くにおいて接触出来る相手として思い当たるのは一人しか居なかった。
人と猫の視点に多少戸惑いながらも、何とか舗装された広い道に出る。ほどなくして目当ての人物は彼女の定位置である木陰の下で見付かった。
いつものように読書に勤しむ彼女の下へと歩み寄り、その名前を呼ぶつもりで私は言葉を発した。
「にゃあ(西園嬢)」
耳に届いたのは猫の鳴き声。こうなることは予想していた。
いくらこの世界が特殊であるとは言っても、これが通じるなどという甘い考えは流石に私にも持てはしない。だから、そういう意味では西園嬢の反応も予想の範囲内ではあったのだ。
「鈴さんの猫でしょうか? ごめんなさい。わたし、猫にはあまり慣れていないので」
「にゃ〜(やはり通じない、か)」
「お腹が空いているのでしたら、パンでも食べますか?」
何か落ち込んでいる雰囲気だけは伝わったらしいが微妙にずれている。しかし、起きてから何も口にしていないために空腹感は確かにあったので、一先ずその提案には肯定の意図を示しておくことにした。脇に置かれた鞄から取り出されたパンの耳を、差し出されるがままに西園嬢の手から食べる。猫の姿であるとは言え、流石に地面に落ちたものを食べることには抵抗があったからだ。
どれくらいそうして居ただろうか。その手から直接食べ物を受け取ったことや警戒心がほとんどないことが幸いしたのか、西園嬢の猫に対する苦手意識も薄れたらしい。今ではその毛並みを堪能するかのように、私の身体を撫でていた。
空腹が満たされたことと撫でる手つきの心地良さから流されてしまっていたが、こんな所でゆっくりしている場合ではないとふと我に返った。
そんな当たり前のことすら忘れ掛けていたということは思考回路も猫に近付いているのだろうか。だとすれば、全く持って洒落にならない事態だった。
「にゃ! にゃーん! (こんなことしてる場合ではない! 教えてくれ西園嬢、今は何月何日だ?)」
「あなたが何かを伝えようとしているのは分かります。ですが、わたしはドリトル先生ではないので動物の言葉は理解出来ません」
「にゃ……(このまま、どうにもならないのか)」
「お力になれなくて済みません」
「にゃ〜(いや、西園嬢のせいではないよ)」
「あ……もしかしたら、動物同士なら少しは理解出来るかもしれませんね」
「オン!」
直ぐ近くから吠える声が聞こえたのと、黒い影に覆われたのは同時だった。私よりも身体の大きい何かが背後に立っていることで、地面さえも暗くなったように感じられる。
見上げるようにして振り向くと、顔を覗き込むようにしてじっとこちらを見ているストレルカが居た。体躯の大きい犬であるとは思っていたが、この姿になって見るとその大きさには恐怖すら覚える。
その隣に居るヴェルカに対しても、だ。ストレルカと比べれば随分と小さいと感じていたヴェルカもまた、こうして見れば大きいと感じる。
全身が黒い体毛に覆われているヴェルカは体躯が大きいだけのストレルカ以上に得体が知れないもののように思えてしまう。
二匹に敵意がないのは分かるのだが、それでも私は思わず身を隠す場所を探してしまった。
「駄目ですよ、ストレルカ、ヴェルカ。猫さんがこわがってます」
「見ない猫だな、西園女史が餌付けでもしていたのか?」
「いいえ、来ヶ谷さん。わたしもそちらの猫には先ほど会ったばかりです。ただ、何か困っているようなので、能美さんと彼らならばそれが分かるのではないかと」
「わふっ! わ、わたしですか?」
「なるほど。犬と猫とは言え、動物同士ならば多少は意志の疎通が取れる。それにクドリャフカ君が居れば、その猫の言いたいことも分かるかもしれない。ということか」
「あくまで希望的観測に過ぎませんが」
「わかりました! お役に立てるかどうか分かりませんが、不肖クドリャフカ、やってみます!」
確かに人と猫の間で意志の疎通が成立するのは鈴のように普段から触れ合っている場合だけだろう。しかし他種族間とは言え動物同士ならば、或いは成立するかもしれない。
それをストレルカやヴェルカと親密であるクドリャフカへと伝えることが出来れば、一応は会話として成立するだろう。
私を怯えさせないようにと気遣ってくれたのか、ストレルカは座り込んで目線を近くしてくれている。微かな期待を胸に抱きながら、私は傍に寄って彼女の蒼い瞳を正面から見つめた。
「にゃあ(はどうしている?)」
「ォンォン」
「どなたかを探しているのですか?」
「うなぁー。にゃん? (若干違うな。なら、今日の日付はどうだ?)」
「ヴー!」
「今はお昼ですよ?」
「にゃ……(どうにも齟齬がある、この方法も駄目か)」
「なんだか気落ちしているようだな」
「やっぱり無理があったんでしょうか?」
「ご、ごめんなさいですー」
全く通じていないというわけではないのだが、少しずつずれているのだ。やはり猫と犬とでは無理があったということだろうか。
猫同士なら意志の疎通が取れるのかもしれない。けれども、そもそも私が普通の――という表現はおかしいかもしれないが――猫語を話しているかも不明だ。
事によっては鈴の猫にも通じない可能性もあるということになる。それに、鈴と猫の意志疎通が完璧だという保証は何処にもない。
普段の私達から見れば意志の疎通が取れているように見えるが、実際のところ猫がどのように考えているかは分からないのだから。
出来るのならば『人』に直接伝えたいが、それは先の西園嬢で不可能だということが分かっている。
ならばやはり鈴の猫を介する方法が、最も成功する可能性が高いということになる。
鈴の猫。そこまで考えて私はとても大事なことを忘れていたと気付いた。この状況になって何よりも最初に思い付いて然るべきだったことに。
そう、私は誰よりもまずレノンに会いに行くべきだったのだ。
「にゃ! にゃあ! (レノン! レノンが何処に居るか知らないか!?)」
「オン!」
「どうしましたか、ストレルカ?」
「ォンォン!」
「なるほどなるほど、そうなのですかー」
「ふむ、何か分かったのか?」
「はい。猫さんが探している方の居場所をストレルカが知っているので案内する、と言っています!」
能美嬢の言葉を応えるように立ち上がったストレルカがこちらに向けてぱたりと尻尾を振る。ついてこい、ということだろうか。
彼女が本当にレノンの居場所を知っているかどうかは分からない。
それでも今は、彼女を信じてついていくしかないだろう。
私がついていくことを決めたのが分かったのか、ストレルカは前触れもなく一気に走り出した。
その姿を見失わないように、私は小さな身体を必死に動かしてその後を追い掛けて行った。
「行ってしまいましたね」
「猫さんの探している方が見つかるとよいのですがー」
「ヴァウヴァウ」
「そうですねーヴェルカの言う通りです。ストレルカが一緒なのですから心配することなんてないですよね」
「そういえばあの猫」
「どうかしましたか、来ヶ谷さん。先ほどの猫について何か思い出したことでも?」
「なに、そう大したことじゃないさ。野良にしては随分と毛並みが良かった、それだけのことだよ。
――いや、そう気にすることでもなかったな、忘れてくれ」