逃げる
追い掛けて、追い掛けて。必死に足を進めているのに、それでも前を行く背中はどんどん遠ざかっていく。呼び止めたら止まってくれるのかもしれない。しかし息はとっくのとうに切れていて、口から漏れるのは酸素を求める短い呼吸音ばかり。止まって息を整えている内に、きっともっと遠くへ行ってしまうだろう。どんなに大きな声で叫んでも届かない場所へ。だから、追い掛け続けるしかなかった。
本当は分かっていた。だって初めから知っていたのだから。どんなに頑張ろうと、共に歩くことは出来ないのだと。ずっと一緒には居られないのだ。直ぐ近くに居るはずなのに、一歩でも近付こうとすればその距離はとてつもなく広がってしまう。近くて遠いこの場所で、見ていることだけが許されていた。だからかもしれない。ふと、その腕の中に居た存在のことを思い出したのは。あぁ、もしも『そう』だったら、ずっと一緒に居られたのに――
「オン!」
いつもよりもずっと近くに見える地面と、そこに映り込む黒い影。見上げれば心配げにこちらを覗き込むストレルカが居た。この小さな身体ではどう頑張ってもストレルカのペースにはついていけず、私は途中で力尽きてしまっていたのだ。どうやらこの身体は思っている以上に小さいものであるらしく、体力も普通の猫よりもずっと少ないように感じる。今の自分の姿を確認したわけではないが、もしかしたらまだ子猫なのかもしれない。例えそれなりの体力があったとしても、狩猟犬であるストレルカについていけるかどうかはまた別の問題であるが。
「ォンォン!」
「にゃあ(大丈夫だよ)」
「オンオン!」
「にゃー(もしかして、運んでくれるのか? 確かにそちらの方が早いとは思うが)」
「オン!」
猫になっているからと言って私にストレルカの言葉が分かるようになったわけではない。人であった時と同様に、何となくこんなことを言っているのではないかという予想を元に反応を返しているに過ぎない。
あくまで会話は一方通行だ。こちらの言葉が向こうにある程度は伝わっているというだけでも幸運と思わなくてはなるまい。
決して正確な意志疎通が取れているわけではないのだろうが、それでもストレルカが私の首元をくわえるようにして持ち上げたことから大体のところにおいては間違っていなかったらしいと分かる。
こちらが痛くないようにと、かなり注意深く気を遣って噛みくわえてくれているようだ。ぶらんとぶら下がるようにして手足が宙に浮く体験はこの姿でないと味わえないものだろう。多少首が締まっているのは止むを得まい。
ストレルカに連れられていく間、周囲の景色は飛ぶように過ぎていく。この姿になってからの視界は普段とは全く異なるため、知っているはずの場所もまるで見知らぬ場所のように見えていた。加えて、この速さで移動されては自分が今何処に居るのか、そもそもストレルカが何処を目指して走っているのかさえも分からなかった。
そして徐々に速度を緩めていったストレルカが完全に止まった時、漸く現在位置を把握することが出来た。
「うにゃ? (ここは・・・・・・いつも鈴が居る?)」
北校舎と南校舎を繋ぐ廊下。運ばれてきたのは鈴が猫達と時間さえあれば遊んでいる場所だった。随分と遠いところまで移動したように感じていたが、西園嬢が居る中庭からさして離れているわけでもない。頭の中に描いている地図と体感距離にかなりの誤差があったようだ。
ストレルカが此処に連れてきたのは、恐らく鈴と猫がいつも戯れている場所だと知っていたからだろう。此処に居ないとなれば、後は校舎内か食堂ということになる。
どちらもそう遠くはない場所にあることから、そうしたことも踏まえてストレルカが此処に連れてきれくれたのだと分かる。
しかし、ストレルカは私を口にくわえたまま動こうとはしなかった。その理由は彼女の視線の先が示している。
「こんな所で何をしているの、ストレルカ。いくらあなたでも、緊急時以外の校舎への立ち入りは禁止よ」
「クド公のわんこ? 珍しいね、いつもなら校舎近くまでは来ないのに」
「そうね・……口にくわえているのは、猫かしら?」
「えっ、まさか食べようとしてるとか? 狼みたいな外見してるし、遂に肉食になっちゃったんだ」
「そんなわけないでしょう。馬鹿ね、はるかは」
「ジョークですヨ、ジョーク。冗談が通じないなぁ、かなたは」
仲睦まじい。二人の様子を見て自然とその表現が思い浮かんだ。今の彼女達を表すものとして、大袈裟ではなく一番相応しいものだろう。いつか誰かが望んでいた気がする。
この世界でたった二人だけの姉妹が互いにいがみ合うことなくこうして穏やかに会話している、そんな光景を。
望んでいた、ということはこれが日常ではなかったということだ。私は覚えている。
目の敵のように厳しく当たる彼女の姿と、酷く苛立たしげにその背中を睨み付けていた彼女の姿を。
だからこそ、こうあれば良いのに。正にそんな誰かの願いが体現したような二人の姿は初めて見るものであった。
ああ、今の出来事で一つだけ分かったことがある。『ここ』は私の知らない世界だ。
思い返してみれば状況証拠は既に十分過ぎるほどに目の前に提示されていた。先ほどまで一緒に過ごしていた西園嬢は、その傍らにあの白い日傘を置いてはいなかったのだから。
私の知らない、これまでとは異なる世界。故に予想もし得ないような事が起きていても不思議ではない。
私の身に起きていることも、つまりはそういうことなのだろう。
ただ、それが分かったところで問題は何一つ解決してはいない。何故こんなことが起きているのか、何としても私はそれを突き止めなければならない。
だから、ここで彼女に捕まるわけにはいかなかった。
ストレルカにとって彼女は自分よりも格上の存在として認識されている。
今はまだ戸惑いが見られるが、彼女がはっきりと命令をすれば最終的には逆らうことは出来ないだろう。
そんなこちらの考えが伝わったのか、ストレルカは私を地面へと下ろしてくれた。自分に構わずいつでも逃げられるように、ということなのだろう。久々に踏みしめた地面は、猫になっていることもあってかなんだかふわふわしているように感じられた。
「さて、ストレルカ。もう一度言うわよ、直ぐに此処から立ち去りなさい」
「えーちょっと厳し過ぎるんじゃないの?」
「ヴルルル・・・・・・」
「私だって別に怒っているわけじゃないわ。ストレルカは実際に校舎内へ立ち入ったわけではないもの。でも、あなた達を放し飼いにしておくためにもこれは見過ごせないことなの。クドリャフカが確か中庭に居たでしょう? そちらで遊んできなさい」
「オン!」
一瞬だけ申し訳なさそうにこちらを見たが、やはり彼女には逆らえないのかストレルカはそのまま元来た道を走って戻っていってしまった。
恐らく彼女の指示通りに中庭に居るであろう能美嬢のところに戻ったのだろう。
ストレルカが校舎の影へと消えていったのを見送ると、改めて彼女、二木佳奈多嬢は私の方へと向き直った。
「それで、あなたは何なのかしら?」
「どこからどうみても猫でしょ、違うの?」
「そういうことじゃなくて。はるか、あなたはこの猫見たことがある?」
「んー・・・・・・あれ? 言われてみれば見たことないかも。鈴ちゃんの猫じゃないってこと?」
「ようやく分かったみたいね。棗鈴が猫を際限なく増やしていることも問題ではあるけれど、彼女はあれで一応躾というものはしているみたいだから。でも、彼女と関係がないところで猫が増えているとしたら何らかの対応を考えなくてはいけなくなるわ」
「なるほどー。でも新入りって可能性もあるじゃん」
「それは追々確かめるから。とにかく、ペットの類は校舎への立ち入りは禁止。あーちゃん先輩のところにでも連れて・・・・・・」
そう言いながらこちらに伸ばされた手をするりとかわす。半ば予期していた展開だったからこそ避けられたが、もう一度となれば今のように上手く避けられる自信はない。最後の手段として佳奈多嬢の手を引っかいて逃げるという手もあるにはあるが、流石にそれはあまり使いたくはなかった。しかし直ぐにでも再び手が伸ばされると構えていたこちらに反して、佳奈多嬢は伸ばした手を胸の辺りで握り締め、何やらぶつぶつと文句のようなものを呟いていた。
「・・・・・・猫に避けられるなんて、そんなに私って怖い顔してるのかしら?」
「おねえちゃん猫に嫌われてるんじゃないのー?」
「ち、違うわよ! だって前に校庭で木に登って下りれなくなっていた子猫は逃げたりしなかったもの!」
「はいはい、しょうがないなー。猫に恐がれてるかなたのために、私が人肌脱いであげますヨ。ほら、はるちんなら――」
葉留佳嬢の言葉を最後まで聞くことなく、私はその場から走り出した。此処に居ないとなればレノンは恐らく鈴のところに居る。もしも此処で彼女達に捕まってしまえば、校舎に入ることはまず叶わなくなるだろう。
校舎へと入る場所は何も此処一つではない。それならば一先ずはこの場所から離れた方が良いと判断したのだ。校舎からは遠ざかったことを示せば、二人がこちらを追ってくることもないはずだ。
必死に足を動かしてはいるが、それでも耳はきちんと背後のやり取りを拾っていた。そこから察するに、どうやら佳奈多嬢には相当に悪いことをしてしまったらしい。先ほどの様子からしてもそうであったが、こちらが思っている以上に彼女にとっては気落ちする出来事であったのだろう。もしも機会があれば何らかの形での埋め合わせを考えておくべきなのかもしれない。最も、それも元に戻ることが出来たら、の話であるが。
そんなことを考えながら、私はただ前へ前へと足を進める。