出会う
進む、進む。脇目も振らず、ただひたすらに何処までも進む。この手に握り締めたものを守り抜くためにも、立ち止まることは許されなかった。
立ち止まってしまえばその瞬間にもこの手からすり抜けてしまう、そんな強迫観念に支配されていたから。
後ろから追い掛けてくる存在には気付いていた。しかしこの両の手は既に塞がっており、差し出すべき手は残されていない。
それでも、この手がなくてもきっと追ってきてくれると、不確かながらに信じていたのかもしれない。
気付かれてはいけない。隠し通さなくてはいけない。そのために、此処に戻ってきたのだから。この一瞬を、今を掛け替えの無い宝物にしたかったから。
それさえあればこの先も辛くなどないと思っていたから。だから、この距離が最適解なのだ。近過ぎず、遠過ぎず。決して触れ合うことのない距離。どうしようもないことだと分かっているのに、それでも愚かな幻想を抱いてしまう。もしも『そう』であれば、もっと近くに居られるのに――
2階の教室から渡り廊下まで最短ルートで走り、先ほどは佳奈多嬢と葉留佳嬢に遭遇してしまい通ることの叶わなかった渡り廊下から中庭へと出る。数十分前には閑散としていたその場所には猫達が集まっており、銘々に日向ぼっこを楽しんでいるようだった。
その中から全身が真っ白な子猫を探す。一際大きい体躯をした最早猫であるかさえ疑問を覚えずにはいらないドルジの影に隠れるようにして、彼は居た。
「うにゃー(レノン)」
呼び掛けると、それに応えるようにしてレノンは首を傾げてみせた。そっと傍に近付いていくと彼はその身体を起こして金の瞳でじっとこちらを見詰め返す。あちらからは何の言葉も返ってこないけれども、不思議と不安は感じなかった。確信があったのだ。
その瞳を見ていたら口からは自然と別の名前が零れていた。
「……にゃー(恭介)」
その瞬間、音もなくふわりと身体が持ち上げられる。謙吾の時は背後からであってとは言っても彼の草履の音がしていたから相手が分かっていたが、今度は背後に人の気配がしなかったことに加えて相手が誰だか分からない。
猫の姿とは言え、見知らぬ相手に身体を触られるということに対する拒絶反応が形振り構わずに全力で暴れることを選択させる。がりっとその手を引っ掻く感触と共に身体に触れていた手が離され、その隙に腕から地面へと逃れることに私は成功した。
一体この人物は何者だろうと見上げたのと、耳に馴染んだ声が掛けられたのはほぼ同時だった。
「落ち着けって、俺だよ」
「うなー(恭介?)」
「そ、俺だ。まさか俺のことが分からなくなったわけじゃないだろう?」
「にゃ(それはない)」
「なら良かった。それで、お前はだな」
「んにゃあ(わかるのか?)」
「やっぱりな。思い当たる節もあったし、状況から考えるとそうでない限り説明がつかない」
話しながら恭介は優しい手つきで私の身体撫でているが、先ほどのようにそれを拒む気持ちは生まれなかった。その手の持ち主が、その感触が恭介のものであると知ったからだろう。
むしろ逆に、いつまでもこうしていて欲しいとすら思う心地よさがあった。知らなかったのだ、ただ触れるという行為がこんなにも心を揺さぶるものだということを。そんなことさえ私は知らなかった。
心地よさから首をもたげる眠気と合わせて、首を左右に振ることでそれらを意識外へと追いやる。休むのも全て、何もかもが終わってからでも遅くはない。そういえば、どうして恭介は私の言葉が分かるのだろうか。
「ん? あぁ、一度レノンを介してるからだな。レノンならお前の言葉も分かるから、それを俺の方に還元してるってわけだ」
「にゃー(レノンが通訳みたいなものか)」
「そういうことだ。ついでに言っておくと、今のお前はレノンと一緒だ」
「みゃ(どういう意味だ?)」
「つまり、お前自身が猫になったわけじゃない。が昨日自分の部屋で寝た記憶があるなら、お前の身体はちゃんと部屋にあるさ」
「うにゃー(それを聞いて安心したよ)」
猫の姿になってしまったというよりは、猫の身体に精神が移ってしまったということなのだろう。どうしてそんなことになってしまったのか。その答えはもう出ている。
この想いは例え何があろうとも表に出さないと決めていた、『ここ』に来てからそれはより一層深く沈めていたつもりであった。絶対に、何があっても邪魔はしないと決めたのだ。
そのためにも、私の「思い」で『ここ』を変えることなどあってはならないと、そう思っていたのに。完全には願望を押し止めることは出来ないということなのか。
「にゃあ……(済まなかった、恭介)」
「さっき引っ掻いたことか? そう深くもなかったし、俺は気にしてないけどな。鈴の蹴りの方がもっと痛いぞ」
「みゃ……(いや……うん。そういうことにしておくよ)」
「というわけで遠慮する必要はない。ほら、来いよ」
差し伸ばされた手を見れば、そこにはしっかりと引っ掻いた後が残っている。恭介が痛くはないと言っても私が彼を傷付けてしまったことは確かであって、その傷跡を目の前にして何もせずに居られるわけがなかった。
更に近付き、傷跡に未だに血が滲んでいるのを目にした時には自然と身体は動いていた。顔を寄せるようにしてぺろりと傷を舐めると、ぴくりと恭介の手が震える。この姿になって味覚も変化しているのか普段ならば口内に広がる鉄錆のような味はしなかった。
こんなものは所詮気休めに過ぎない。それを理解していないわけではないから、私は一通り傷口を舐めたところでその掌に一度だけ顔を摺り寄せて離れた。
「。分かってやってるわけじゃないよな……?」
「にゃ(なにがだ?)」
「いや、なんでもない。俺が勝手に考え過ぎてるだけだ」
「うなー(私からしてみれば、恭介にはもう少し色々と考えて貰いたいくらいなんだが)」
「……どういう意味だ?」
「にゃあ(言わない。自分で考えてくれ)」
恭介は気付いているのだろうか、今回の原因とその理由を。誰の「思い」がこの事態を引き起こしているのかを。気付いていたとしても、彼はそれを口にすることはないのだろう。それに触れてしまえば、今のままの関係ではいられないから。危ういバランスで成り立っている天秤が傾いてしまう。それは誰かにとっては希望かもしれないけれど、誰かにとっては絶望だ。そして自ら進んで絶望を選びたいと思う者は居ないし、私とてそんな結末を迎えたいとは思わない。
だから、本当は気付かないでいてくれることが一番良いのだ。それでも気付いて欲しいと思う自分が居ることも否定は出来ず、そんな風に考えてしまうこと自体がこんな状況になって少しだけ心の箍が外れてしまっているからかもしれなかった。もしもこの姿が願望の表出であるというのならば、幾らかは既に満たされていることになるだろう。今だってそうだ。
「さてと、それじゃあお前の部屋に行くか」
そうすることが当然であるかのように恭介は私を抱え上げ、そして私もそれを拒絶しようとは思わない。これまでの私達の関係からすれば「異常」の一言に尽きる。人と人ではなく、人と猫であるというだけでここまで変わるものだろうか。例え姿形が猫のものであろうとも私は思考するし感情もある。猫だから。それだけの理由で全てが許されてしまうのか。この手は、この指は、その身体に触れても良いと言うのか。それならばいっそ――
「みゃ(なんてね)」
「どうかしたのか?」
「にゃー(なんでもない。下らない妄想をしていただけだよ)」
「ふーん。まぁ下らないことなら俺も考えてたけどな」
「にゃあ(恭介も?)」
「そう。この姿のお前だったら何処でも簡単に連れて行けるのにな、ってな」
「……うにゃー(恭介と四六時中一緒だなんて命が幾つあっても足りなさそうだ)」
「聞き捨てならないな。俺だって命を危険に晒すような真似は流石にしてきてないぜ?」
「にゃ(どうだか)」
どちらも下らない妄想だ。実際には私も恭介も人であるし、取り巻く環境もまた苛酷だ。世界が優しさだけで出来ているなんて、そんなことは幸福な人間の抱いた幻想でしかない。この箱庭でさえそんな淡い幻想は存在しないのだから。
それでも『ここ』にはどうやら妄想の存在する余地はあるらしい。下らない妄想であったとしても、それは今、現実となっているのだから。幻想と妄想。いずれも淡い雪のように消え行くものだけれども、それでも存在しているのならば、この刹那を心に刻むことは出来るだろう。