the same morning
意識が覚醒する。自然に、というよりは外的な力によって強引に目覚めさせられたような感覚だった。暗闇の中で光を放つ枕元の携帯を見やれば、そこにはまだ深夜と言っても差し支えないような時刻が表示されている。の寝付きは悪い方ではない、ならば何故このような中途半端な時間に起きてしまったのか。5月13日――画面に表示されたその日付が全てを物語っていた。
「始まったのか……」
彼が帰ってくる、それは『ここ』での始まりの日を意味する。しかし状況を理解してもまだ彼女の意識は夢の中のような感覚に捕らわれていた。つい先程まで触れていたはずの温もり、抜け切らない有り得ない時間の残滓が瞼の裏にある。より正確に述べてしまえば今この瞬間ですら夢と大差はない、幾度も繰り返される『ここ』は言わば虚構世界だ。だから、全ては幻に過ぎない。あの腕の中の温もりも、この腕で抱き締めたあの背中の感触も、存在しない。 現実は救いようのない暗闇の直中に投げ出された瞬間から一秒足りとも進んでいないのだから。それでも、二人にだけは救いがある。『ここ』で何が始まって、何が終わろうとしているのか、そのことを明確に意識したことで彼女の意識は漸く現状を正しく認識するに至った。ほんの少し前まで傍にあったはずの温もりは、その名残諸共に今度こそ霧散した。
前の世界で二人の身に起きたことは、この世界でも大きな爪痕を残しているのだろう。それが幼馴染という輪にどんな影響を及ぼしているかまではの知るところではないが、鈴の気持ちを汲み取った上で今の彼女に相応しい環境を恐らく恭介ならば与えているはずだ。それに、鈴には理樹が居る。何よりもあの二人が、誰にも頼らずに自分達の力だけで乗り越えなくては意味がないことだから。そう考えて、は『ここ』での自らの立ち位置を決める。手は貸さない。ならば、距離を置いた方が良い。それも理樹が引き下がらざるを得ないような自然な理由であるのが望ましいだろう。 一つ一つ条件を当て嵌めていけば全てを決めるのにそう時間は掛からなかった。
遠くから喧騒が聞こえるような気がした。恐らく彼らは食堂に集まっているのだろう、日常を守る彼はこの状況下であっても同じ行動を取るはずだから。いつもならばもとっくに起き上がってその場に居合わせていた。けれども今回はその喧騒から耳を塞ぐようにしては布団を頭から被る。距離を置くとは、つまりそういうことだ。
二度目の覚醒はお世辞にも良いものとは言えなかった。気分に比例するように重たい身体を無理矢理動かして身だしなみを整えると、いつもよりも遅いくらいの時間には食堂へと足を運んだ。それとなく食堂内を見回して彼らが既に居ないことを確認し、適当に空いていた席に座って朝食を済ます。一人で食事をするのはいつ以来だったかな。そんなことを考えながらはいつもよりも味気ないように感じられる朝食を咀嚼する。そもそも食事に意味などないのだと割り切ってしまいさえすれば、それも直ぐに気にならなくなったが。そうして無闇に静かな朝食を終えてトレーを下げて、人通りの少なくなった渡り廊下を通り、下駄箱へ――
「そっちじゃないだろ、」
不意に背後から掛けられた声に呼応して伸ばしていた手が止まる。今正に自分が開けんとしていた下駄箱を確認し、その言葉の意味を理解したは静かに手を降ろしながら声の主を振り向いた。
「そうだったね。これでも気を配っているつもりだったのだけど、習慣とは怖い。そうは思わないか、恭介」
「その様子じゃ気付いてないみたいだな」
「何のことかな?」
「それ」
その指の先を辿ったところで、漸く彼女は彼の言わんとしているところを理解した。その首元には赤い、二年生であることを示す学年カラーのネクタイが結ばれていたからだ。
「……情けないことに、全く気付いていなかったよ」
「だろうな。となると、当然用意もしてないってことか」
「そうなるね。持ち歩いているのも、こちらの方だから」
そう言ってが鞄から取り出したのは同じく二年生のものであるピンクのリボンだった。常から彼女は男子用であるネクタイをしており風紀委員からそのことについて度々指摘を受けるも適当な理由を付けてかわして聞き入れることはなかったが、念のために持ち歩いてはいたのだ。しかしながら、この状況にあってはそれも意味を成さない。何故なら『この世界』における彼女の学年は三年生なのだから。
「一先ずこれは外すとして、後で休み時間にでも購買で買うとするよ。三年が二年の物を着けているわけにはいかないだろう?」
「その必要はねぇよ。おまえなら大丈夫かとも思ったが、一応持ってきておいて正解だったみたいだな。ほら」
差し出されたのは碧い、三年生であることを示すネクタイ。恭介の首元には全く同じ物が結ばれていることから、恐らくその手にある方は予備か何かなのだろう。用意周到としか言い様がない。彼の相変わらずの準備の良さに感謝しつつ、ありがとう、と一言告げてはそれを受け取った。首元に巻かれているものを解き、新たにたった今受け取ったばかりの物を結ぶ。そして手元に残ったのは当初していた赤いネクタイ。さてこれをどうしようか、とは伺うように恭介を見上げる。碧い方と同様に、こちらも元はと言えば彼のものだ。洗濯もせずに返すわけにはいかないので流石にこの場でとはいかないが、返す必要があるか。それを問うつもりだった。しかし彼女が口に出すよりも先にその意図を察したのか、彼は首を横に振ってみせた。
「前にも言ったように、俺にはもう必要ないからおまえにやったんだ。つまりそいつをどうしようとおまえの自由ってことなんだが……まぁ、要らないってんなら返してくれても構わないけどな」
「いや、それならお言葉に甘えてこのまま私が預からせて貰うよ」
「なんかいつかは返すみたいな言い方だな」
「そういう意図はなかったんだが、気になるなら言い換えようか。『これはこのまま私が貰うよ、返して欲しいって言われても返さない』」
「あぁ、構わないぜ。好きにしてくれ」
それはおまえが持ってることに意味があるんだからな。続けて小さく呟かれた言葉が届くことはなく、その首元に新たに結ばれた碧いネクタイへと向けられる視線にも、自身の下駄箱を探すことに集中していた彼女が気付くことはなかった。例えどんなに小さな呟きであろうともこの距離で聞き逃すということは考え難い。だから、本当は彼女にも聞こえていたのかもしれない。でも、それを追究することは彼らの間には許されていなかった。何かを振り切るかのように瞳を一瞬だけ閉じた後、尚も下駄箱を探しているの隣へと恭介は歩を進める。
「おまえのはそこ、今通り過ぎただろうが」
「ん? あぁ、見逃していたよ。三年の方はどこでクラスが分かれているのかも知らなかったからね。ありがとう、恭介」
「礼を言ってる暇があったら、急いだ方が良さそうだぜ。予鈴までもうあんまり時間がない」
「それを先に言ってくれ」
「あまりに集中して探してるみたいだったんでな、邪魔するのも悪いかと思ったんだ」
「場所を知っているのならさっさと教えてくれれば良かったのに、と言っているんだよ、私は」
ほんの少し不満気にしながらも、手早く靴を履き替えて足早にその場を後にしようとしたところで、は足を止めて振り返る。その行動に疑問を抱きながらも、どうしたんだ、と恭介は問い掛けた。
「また教室でも間違えようものなら、それこそ眼も当てられないからね。君に先導して貰おうかと思って」
「そこまで自覚していたら間違えるわけがないと思うんだが……」
「万が一、ということもあるだろう? ついうっかりなんかで理樹の教室に行ってしまうわけにはいかないからね」
「そりゃそうだけどな」
「時間がないんじゃなかったのか」
その一言が駄目押しになったのだろう。仕方ない、というように肩を竦めてみせると、恭介は先に立って歩き始める。その後を追い掛けながらも、遠ざかるその背中にどうやっても追いつけないような、そんな考えがの頭を掠めていた。一歩分。意図的に彼女が空けたそれこそが、決して埋まることのない二人の距離そのものだったから。注視しなければ分からない程度に微かな笑みを浮かべながら、近くて遠い目の前の背中をはただ見つめていた。
やらなくてはいけないことがある。何を於いても絶対に成し遂げなくてはいけないことが。現実が何処までも無情であることは、これ以上ないくらいに理解している。それでも、存在し得ないはずの夢の続きに引き摺られているのは果たしてどちらなのか。