what the girl wished
繰り返される一学期。世界はまたその開始点へと戻った。この進まない時間の中でも変化が生じるが、これまではそう大きなものではなかった。そうした微々たる変化に対して、今回は比べ物にならない。何もかもが違うと言っても決して過言ではないくらいだった。世界を構成する人数が減って、綻びが生じつつあるというのもその要因の1つではあるかもしれない。ただ、それよりも先の世界での影響が大きいだろう。変わらないのは理樹と真人くらいのものだ。とて例外ではない。幾度も繰り返されてきた5月13日において、これまで一度も感じたことのなかった圧倒的なまでの違和感を彼女は覚えていた。その正体を彼女はそっと見遣る。頬杖をついて窓の外を見ている隣の席の人物、棗恭介を。いや、正確に言えば違和感を生み出しているのは自身に他ならない。理樹から距離を置くために、二年生ではなく三年生として過ごすという現実を歪めるような措置を彼女が取ったのだから。
ほんの数年前、中学年の頃まではこれが当たり前の光景だった。彼と同じ教室で机を並べて授業を受ける。 それが変わってしまったのは高校に入ってから、彼女が一年遅れて入学してからだ。もう一年早かったら、と考えたことがなかったと言えば嘘になるだろう。しかし、それは、それだけは有り得なかった。一年の間に最善を尽くしたという揺るぎようのない確信が彼女にはある。その甲斐あってもう一度だけここに戻ってこれたのだ、それも本来のとして。だから、今以上なんて望むべくもない、むしろ考えることですら高望みが過ぎると言っても良いくらいだ。そう、ずっと自分に言い聞かせてきた。それなのに――
向けた時と同様にはそっと視線を逸らす。錯覚してしまいそうになる。『この世界』の何処を探しても、彼女のためのものなど何一つとして存在していないのに。こうしてこの教室に居ることでさえ、間違っても彼女のためではないということを誰よりも理解しているはずなのに。そうあることを『二人のために』望んだのは彼女自身なのに。何かを伝えたわけでもないし、伝えられたわけでもない。ただ同じ教室に居るというたったそれだけのことで、これまで蓋をしていたはずの想いが止めどなく溢れてくるのを彼女は感じていた。昼休みを告げる鐘の音を聞くと即座に逃げるように教室を後にする、それが彼女に出来る精一杯の抵抗だった。
階段を降り、廊下を進んで通い慣れた一階の部屋へと入る。食堂から離れた場所に位置するその部屋は昼休みの喧噪とは切り離されており、静寂が支配していた。そこに並ぶ椅子の一つへと腰掛けると、は深く息を吸い込む。ここは誰も来ない、彼女だけの場所だ。現実世界において戻ってきた彼女が彼らと距離を置くために入った生徒会が、『ここ』での彼女にとっても逃げ場所となっていた。来て欲しくないと『思っている』から、ここには決して誰も訪れることはない。そう自分に言い聞かせることで漸く彼女は落ち着きを取り戻し、吸い込んだ息を全て吐き出すと、背もたれに身を任せるようにして脱力する。こんなにも、自分は脆かったのだろうか。内から沸き上がるその疑問を否定する術を彼女は持ち合わせてはいなかった。
何があろうともこの想いは決して明かさない。それこそもうずっと前から心に決めていたことだ、何も『ここ』に来てからの話ではない。けれども、これまでの十年間破られることのなかったそれが、彼女の意志に反して揺らいでいる。何を今更、と思う一方で、今だからなのだろう、ということに本当は彼女も気付いていた。これが本当に最後なのだと、知っているから。『今がずっと続けば良いのに』子ども染みた、けれども純粋なその願い、それさえも彼女には最初から許されていなかった。それでも良いと思っていた。ここに居られるだけで十分だった。だって、その先を願えば苦しくなるのは自分だから。
そこまで考えて、は自嘲めいた溜息を一つ零した。結局、物分かりが良いふりをしているだけで、その実怖かっただけなのだ。現実では先を知ってしまうことで別れが辛くなることが、『ここ』ではそれを願ったとして彼に拒否されてしまうことが。だから、二人のために行動しているのだと表向きでは自分に言い聞かせながら、ひいてはそれが彼のためになるのだとそんな風に考えていた。それすらも、自分の気持ちに蓋をするための言い訳に過ぎなかった。もしも彼女が一切の躊躇いを捨て、『ここ』で望むようにしていたらどうなっていだろうか。彼もまた彼女に好意を抱いていてくれているというのは、恐らく自惚れではないだろう。だから、少なからず彼はそれに応えてくれる、応えてしまうはずなのだ。そうなってしまえば残された二人がどうなるかなんて、考えたくもなかった。自分の願望がどんな結末をもたらしてしまうのかということを彼女は正確に理解していた。本当は逃げているだけなのかもしれない。それでも、自分勝手に全てを望んだために大切なものを何もかも壊してしまう、そんな結末だけはどうしても嫌だったのだ。
昼休みの終わりが近付き教室に戻る途中、はやるせないような顔をした理樹と遭遇した。彼は彼女の方を一瞬だけ見て何かを言いたそうにしていたが、開きかけた口を閉じると無言でその場を後にする。擦れ違う際、その瞳が自身を責める色合いを帯びていることに彼女は気付いていたが、敢えて触れることはしなかった。恐らく鈴のことをどうして放っておくのだと言いたかったのだろう。真人や謙吾と違い、は鈴から恐れられる条件を満たしてはいない。加えて、同じ女子寮で生活しているのだから男子である理樹よりも世話役としてずっと適任なのだ。にも関わらず、は鈴に対して何もしてやっていないのだ。鈴だけではない、恭介のこともある。彼があんな状態にあるのに、傍に居ようともしていないのだから。生徒会と僕たちとどっちが大切なの、と今にも聞こえてきそうだった。理樹の言いたいことは正しい、本来であれば彼女もそうしていただろう。けれども、今は理樹が一人でやることに意味がある。そこに彼女の手助けがあってはいけなかった。頑張れ、理樹。今はまだ小さいその背中を振り返り、心の中で彼女はエールを送った。自分の役目を見失わないように、その姿を目に焼き付けながら。
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あれからは授業以外のほとんどの時間を生徒会室で過ごしていた。二日も経てば随分と慣れるもので、今はもう隣の席に居る恭介のことで動揺することもない。だから、生徒会室に居るのは単純に仕事するためだった。距離を置くための大儀名分が必要なだけであり、生徒会という場がありさえすれば良かったのだが、何もせずにただ無為に過ごすだけでは味気なかったのだ。それに、昼休みに理樹が訪れてきたことを考慮すれば、形だけでも生徒会という集団を成り立たせるこの行為は無駄ではなかったと言えるだろう。そんなことを考えながらかつて処理したものと寸分違わぬ書類を片付けていると、一際大きな音を立てて生徒会室の扉が開かれた。役員が出入りをする際にはいちいちノックなどはしないことになっているが、今し方響いてきたものは音からして違った。何かに怒りをぶつけるような、そんな乱暴な開け方だったのだ。間違っても理樹はこんな開け方はしない、昼休みの彼はきちんとノックをしてから入ってきた。それ以外でここを訪れるとなると、相手はほぼ一人に限られていた。は作業の手を止めて顔を上げると、こちらを睨みつけるように見ている謙吾を視界に入れる。
「ノックもなしというのはどうなのかな。ここは一応生徒会室なんだが」
「こんなもの、おまえの一人遊びだろう。何の意味もない」
「一人遊びとは言い得て妙だね。それを否定はしないけれど、これでも理樹に対しては意味があるんだ」
「来たのか、理樹が」
「今日の昼休みにね。キャッチボールに誘われたよ。昨日鈴と二人で始めたばかりなのに、行動が早い。感心したよ」
「それでおまえは――」
「行かないよ」
謙吾が全てを言い終わる前には即座に答える。こうして彼女がここに居ることが全てであり、それ以外に答えなどあるわけがなかった。
「理由は言うまでもない。分かっているだろう、君も」
「いいや、わからないな。どうしておまえはそこに居るんだ、」
「必要だからだよ、この先のために」
「……まだおまえはそんなことを言っているのか。この先なんてない。そんなものを目指したがためにあの二人がどうなったのか、忘れたわけじゃないだろう」
「忘れてなんかいないさ。忘れるわけがない」
「それでも、おまえと恭介は諦めるつもりはないのか」
「恭介がどうかは知らないよ。私はただ、自分の思うようにやっているだけだから」
「同じことだろう。おまえは恭介と同じものを目指そうとしているんだからな。だが、おまえは本当にそれでいいのか?」
謙吾は気付いているのだろう、彼女が距離を置いていたことには理由があるということに。それは似たような立場にあった彼だからこそ気付いたことだった。彼女が本当に望んでいることを見抜いた上で、自分と手を組まないか、と彼は訊いているのだ。その問い掛けは彼女の決意を鈍らせるものに成り得ただろう、昨日までならば。
「良いも悪いもないよ。私はね、謙吾。もう苦しんでいるところを見たくないんだよ。この選択は間違っていなかったのだと、成し遂げることが出来たのだと、そう思えるようになれたらそれで十分なんだ」
「そうか。結局のところ、おまえにとって一番大事なのはそれなんだな」
それに対しては言葉では何も返さず、ただ笑ってみせた。それだけで彼女の答えは明白だった。十年来の付き合いにもなるのだから彼女の想いも当然知っている。だから、そうまでして彼女が守りたいと思っているものを謙吾は否定しようとはしなかった。代わりに、どうあっても自分達は相容れないのだということを認めただけだった。
「これから行くんだろう?」
「あぁ。理樹には」
「伝えることはないよ」
「そうだったな。恭介には言ったが、後は俺の好きにさせてもらう。おまえたちがまた何かを始めるのならば、俺はそれを全力で止める。言いたいのはそれだけだ」
「そう。楽しんでおいで」
それで会話は終わりだとばかりに、は視線を手元の書類へと戻す。謙吾としても伝えるべきことは伝えたので、これ以上この場に留まる理由はなかった。彼女も言っていたように、これから中庭に行かなくてはいけない。理樹が鈴を迎えに行っているとは言え、それなりの時間をここで費やしたことを思えば、もうあまり余裕はないだろう。何事もなかったかのように作業をしていた他の生徒会役員の間を縫って、謙吾は出口へと向かう。扉を閉める直前見えた彼女の姿は、大勢の人間に囲まれているにも関わらず孤独に見えた。
謙吾が幸せになって欲しいと思っていたのは、何も理樹と鈴だけではなく、それはあの二人に対しても同じだった。今更そんなことを伝えたところでどうにもならないし、彼らはそんな言葉を望んではいないだろう。それでも、と思わずにいられないのは先ほど彼女が見せた笑顔が頭に残っているからだろうか。そこまで考えて、未だに彼らのことに気に掛けている自分が居ることに彼は気付いた。恭介は勿論としてに対しても怒りを抱いていたはずだったのに。そんな自分の矛盾している部分から目を逸らすように、謙吾は中庭へと向かって走り出した。未だ何も知らない二人が待つ場所へ、共に楽しいだけの時間を過ごすために。