It returns to all the beginnings
その日、目覚めた時から奇妙な感覚がの全身を取り巻いていた。それが何処から来るものなのか、セットしておいた目覚ましが鳴らなかったことで朝食を摂る暇もなく急いで教室へと向かうことになったこの時点では気付きようもなく、何があったのかを彼女が理解したのは担任が現れて出席を取り始めてからのことだった。本鈴が過ぎても未だ空のままである隣の席の主が何をしているのか、ぼんやりと考えていた彼女の耳に届いたのは「欠席は……棗との二人だな」という担任の言葉だった。それだけで、彼女は理解した。朝から感じていた奇妙な感覚の正体も、自分の身に起きている現象についても。そして、隣の彼がいつまでも現れない理由も。こうなってしまったからにはもうこの場に居る意味はないと即座に判断した彼女はそのまま席を立つと、何事もなかったかのようにホームルームの続く教室を後にした。誰一人として、彼女の行動に気付く者は居なかった。
この数日だけで現実世界以上に頻繁に訪れるようになり、最早定位置のようになった生徒会まで来ると、はこの二日間に廊下から見たグラウンドの様子を思い出す。一昨日この部屋に現れた謙吾はあの後中庭へと行き、最終的に彼らはグラウンドに出て四人でキャッチボールをしていた。鈴のノーコンを破天荒なプレイで泥だらけになりながらキャッチするという端から見たら馬鹿以外の何者でもないことを真剣にやる、そんなかつての姿を思い出させるような光景だった。身体の大きな二人を恐れていたはずの鈴も、キャッチボールを通して彼らへの恐怖心ではなくただ楽しいという感情が先行するようになっていたのだから大したものだ。恐らくあの瞬間、理樹はこのまま皆で元のような関係に戻れるのではないかと期待したはずだ。けれども、現実はそう甘くはない。昨日グラウンドに謙吾が現れなかったことからして、先に彼が降りたのだろう。そしてその話を聞いた真人も、最後にはグローブを置いて立ち去った。残された二人は何を思っただろうか。以前までの理樹であったら、あの局面で二人きりでも続けるという選択は出来なかっただろう。『ひとりになっても守り続ける』、少なくとも理樹はこの言葉を違えないくらいには成長している。それだけは、にも分かった。
ここからが本当の終わりと始まりだ。彼の作ったリトルバスターズは終わり、理樹が新たにリトルバスターズを始める。傷付いた鈴の手を引く役目は、かつては彼のものだった。それが理樹に代わっているということはその立場が逆転しているということだろう。だから、恭介は登校してこなかった。今も暗く閉ざされた寮の自室で、あの頃の理樹のように殻に閉じ籠っているのだろう。そして自身もまたあの頃に戻ったのだと考えれば、現状にも説明は付く。いずれはこうなることが分かっていたからこそ、彼女は『ここ』では自分を三年生としたのだ。単に距離を置くだけであったのならば、生徒会という口実がある限りは理樹たちと同じクラスのままでも何の問題もなかったのだから。この部屋に来る前に立ち寄ってきた理樹たちの教室でも、ホームルーム中であるにも関わらず乱入してきた彼女に誰一人として反応する者は居なかった。
誰からもその存在を認識されない。
それが今のに起きていることだった。
放課後、はグラウンドに居た。目の前には昨日と同じようにキャッチボールをする理樹と鈴の二人が居る。最初は昨日までと同じように廊下の窓から見ていたのだが、今の状況ならば或いは、と思い立ち外まで出て来ていた。グラウンドへと至る斜面に腰掛けている彼女から二人までの距離は30mにも満たない。それでも、二人は彼女の存在に気付くことはなかった。そうでなくては困る。本来ならば、彼女はこんなにも二人の近くに居てはいけないのだから。
「ねぇ、鈴」
「……ん?」
「楽しい?」
「もちろんだ」
「不思議だね、野球なんてまるで興味のなかった鈴が」
「自分でもふしぎだ」
「もしかしたら、小さい時に恭介とキャッチ ボールしてたんじゃない?まだ物心ついてい ない頃で、覚えがないだけで」
「いや、恭介とじゃない。理樹とだ」
「え……いつ……?」
「わからない。だから不思議だ。理樹……この世界は謎だらけだ」
理樹と会話しながらキャッチボールをしている鈴を見ながら、はこんな風な鈴を見るのはとても久しぶりであるような気がしていた。『この世界』が始まってからは鈴のことを遠目にしか見ていなかった。だから、彼女が最後に見た鈴は先の世界の、あのぼろぼろになった姿だった。あの時の傷は未だ完全には癒えていないはずなのに、それでも鈴は笑顔を浮かべている。『この世界』が始まってからそれほど日は経っていないということは、時間が解決したわけではなく、これも理樹が頑張ったからだろう。少しずつ、それでも確実に理樹は恭介の軌跡を辿っている。この閉ざされた時間の中でこれまで二人が経験してきたことは失われることなく、積もり積もって二人の中に根付いているのだ。『この世界』において自らの成すべきことを何であるのか、それを読み解いていこうとしている目の前の二人は『ここ』が始まったばかりの頃に比べれば強くなったと断言出来る。強くあって欲しい、全てを知ったその先でも笑っていられるように。には、いや他の誰であろうと最早ただ願うことしか出来ない。それを叶えていくのはあの二人しか居ないのだから。
「ねぇ、鈴」
「ん?」
「僕や真人や謙吾に出会う前の、小さい頃のことを思い出してみてほしんだけど……昔は、どこにいく時もいつも恭介に手を引いてもらっていたんじゃないかな」
「……んー……そうだったな、とらわれのお姫様に会いにいったりしてた」
「ゲームみたいだね」
「いつも会いにいってたんだ」
「そう」
が考えている間に理樹もまた自身の考えをまとめ、恭介がこの最後の世界で二人にやらせようしていることの核心部へと至っていた。その会話の内容は決して無関係なものではなかったことから、彼女の身体に微かな緊張が走る。事と次第によっては今直ぐにでもこの場から立ち去る必要もあるためだ。
「じゃあ、鈴。まず仲良くなったのは、真人と謙吾、どっち?」
「はいいのか?」
「がリトルバスターズに入ったのは僕よりも後でしょ。のことならわかるし、それに僕の考えている通りなら今は考えなくてもいいと思う。だから今は僕が入る前の、真人と謙吾のことが知りたいんだ」
「そうか。真人と謙吾のふたりだったな、またむずかしいことをきくな……んー…… 」
「キャッチボールしながらでいいよ」
「うん……。たぶん……真人だ。うん、真人だ」
理樹の言ったように、がリトルバスターズに加わったのは彼よりも後のことであった。それもあって恭介と同じ年長者ではあるが、彼女は真人や謙吾に対する牽制力は持ち合わせていない。勿論そこには恭介が『リーダー』であるという意味合いも強かっただろうが、自分たちよりも後に加わった彼女の言うことに従う気にはなれなかったという理由もあったはずだ。しかしそんな真人や謙吾の態度に反して恭介はのことを軽視しなかった。後から入ってきた者にも同じように接する、というのは恭介の元々の性質によるものだろう。しかし時期としては然程変わらずに入ったはずの理樹との間ですら何かが違っていた。そもそも他のメンバーは恭介が自ら選んで仲間に加えていったのに対して、は自分から仲間になることを希望して来たのだ。そんな相手を恭介は躊躇うことなく仲間へと加えた。来る者拒まずの精神があったのかもしれないが、それでもリトルバスターズという彼にとっても大事な場に彼女を加えることを即断に近い形で決めていた。つまり、彼にはそうするだけの理由があったのだ。
「他に思い出せることは?」
「うーん……ないな」
「そ……ありがと」
尚も会話とキャッチボールを続ける二人に背を向けるとはグラウンドを後にする。もうこんなにも近くで二人を見る機会は最後の時までないかもしれない。そう思うともう少しだけ二人を見ていたい気もしたが、危険を犯すわけにはいかなかった。今の会話で鈴が僅かではあるがあの頃のことを覚えていると分かったから。鈴の中で完全に繋がっているわけではないが、理樹の問い掛けに対して彼女の名前を持ち出してきたのは何か引っ掛かるところがあったからなのだろう。些細なきっかけであってもふとした瞬間に思い出すかもしれない、それは今この瞬間かもしれない。そうなれば鈴は彼女をその視界に捉えるだろう。もしも距離を置いているはずの彼女が二人の様子を見ていたとなれば、筋書きに大きな影響を及ぼしてしまう。その可能性が無いとは言い切れない限り、はこの場に留まることは出来なかった。
校舎へと続く道の途中、は一度だけ振り返る。夕焼け色に染まるグラウンドでキャッチボールを楽しむ、その穏やかな光景を目に焼き付けるために。「がんばれ」、と以前は声に出さずに理樹の背中に送った言葉を、今度は声に出して送る。言葉を送った相手には決して届くことはないと知りながら。