boy meets girl
は六人の中では一番後に仲間になった。幼馴染の間では誰もがそのように認識している、恭介以外は。そう、彼女が『リトルバスターズに参加したのは』最後だった。けれども、彼と出会ったのは誰よりも早かったのだ。それはリトルバスターズが作られるよりも更に前の話だった――
広さだけはある屋敷と庭。そこでは一人で暮らしていた。身の回りの世話をしてくれる人は何人か居たので衣食住に不自由することはなかったが、家族と呼べる存在はそこには居なかった。両親も兄も、別の屋敷に住んでいるという話だった。それを彼女が寂しいと感じることはなかった。年に数回ではあるが会えば皆優しくしてくれたから、そこには愛情を感じられたから。何よりも、彼女は家族と引き離されて暮らすということがおかしいとは思っていなかったから。それが当然のことだと思っていたのだ。家族というものは共に暮らすのが普通のことだということを知らなかった。何故なら彼女の世界の全ては高い塀に囲まれた屋敷の中で完結していたから。その向こうに外の世界があるなんて、知りもしなかったのだ。自分の生きる世界はここが全てなのだと、疑いもしなかった。声はすれども誰とも顔を合わせることはない、彼女の世界には彼女一人しか居なかった。そんな彼女の閉じた世界に亀裂が走ったのは、一人の少年が目の前に現れた時からだった。
外界から隔離するような高い塀に一ヶ所だけ空いている穴。そう大きなものではなかったため広い庭に相応しく生い茂った種々の植物に隠れるようにして、それはあった。そこから時折ではあったが猫が入ってくることもあったから、何となく塞いでしまうのが勿体ないような気がして、は定期的に整備に入る業者の人に「直さないで欲しい」とお願いをしていた。果たしてその境遇を不憫に思ったからかは分からないが、幼いその願いは聞き入れられ、誰にも知られることなく穴は存在し続けていた。
ある昼下がり、日課の習い事を終えて縁側に座って枝に止まっている小鳥の囀りをがぼんやりと眺めていた時のことだった。がさがさっと葉を揺らす音がしたので、またいつもの猫だろうか、と思い彼女は何気なくそちらに視線を向ける。この時、体躯の小さな猫にしてはその音が大きかったということまで彼女の意識は回っていなかった。 だから、背の低い植え込みの間から覗く少年の姿を見ても、直ぐには状況が飲み込めなかったのだった。
「人の出入りがないからてっきりゆうれいやしきだと思ってたんだが、まさか住んでるやつがいたとはな」
勢いをつけて立ち上がったその少年が全身にくっついていた葉を払い落とした後にも、彼女は未だ何が起きたのか理解出来ていなかった。彼女の持ち得る知識の中には彼を表すような概念は存在していなかったのだ。彼は彼女が生まれて初めて見る他人だったのだから無理もないことだろう。
「おまえ、ここに住んでるのか?」
「…………」
「ひとりなのか?」
「…………」
「もしかして、しゃべれないのか?」
「……あなたは、何ですか?」
少年からの問い掛けの意味が分からなかったわけではない、それどころではなかったのだ。とにかく目の前の存在が理解出来なくて、考えた末にの口から出たのはそんな言葉だった。
「なに、とはまたてつがく的なしつもんだな。なまえをきいているのなら、俺のなまえは棗恭介だ」
「恭介さま?」
「さまはいらねーよ。恭介でいい」
「でも、だれかをよぶ時は『さま』をかならずつけなさいって」
「父親や母親でもか?」
「うん。お父さまとお母さまってよんでます」
彼女の世界では当然のことだったから、そう呼んだ。けれども、少年は驚いたように目を瞬かせるとその呼び方を否定したのだった。それだけのことではあったがにとっては天変地異にも近いことだった。こうして会話は成立しているものの、目の前の存在はやはり未知のものなのだと彼女は痛感する。自分がこれまで生きてきた六年間で身につけたものが一切通用しないのではないか、とそんな気さえし始めていた。それでも不思議と恐怖心のようなものは湧いてこなかった。むしろの中にあったのはこの少年に対する興味、好奇心だった。その気持ちを彼女が自覚したのは彼が帰った後のことだったから、この時の彼女の行動は無意識の産物だったのだろう。
板張りの廊下の曲がり角の向こう。長い廊下となっているその先から足音が近付いて来ていることに気付いた彼女は、急いで少年に縁側の下に隠れるようにと身振りで伝える。見付かったらどうなるのかなんてことは分からなかったが、誰かがこの家に入ってきていると知られてしまうのが良くないということは感覚的に分かっていたのだろう。彼女の意図を察した彼が縁側の下に潜るのと、足音の主が廊下を曲がってきたのは僅差だった。
「さん。今こちらで何方かお話をされていませんでしたか?」
「あちらの樹に止まっている鳥たちがとても楽しそうでしたので、お話しをしていました。いけないことでしたか?」
「いけないということはありません。ですが、このような開けた場所で軽々しく独り言を申されるのはお控えになった方が宜しいでしょう。いつ何時、誰に聞かれているか分かったものではありませんから」
「はい。以後気をつけます」
「暖かくなったとは言え、夕方になればまだ冷えます。そろそろお部屋に戻られては如何ですか?」
「もう少しだけしたら戻ります」
「くれぐれもお体を冷やさないように、お気を付けて下さいね」
「はい。わかっています」
の返答に満足したのか、最後にもう一度だけ庭の方を見回して不審な点がないかを確認すると、その人物は再び廊下の向こうへと立ち去っていった。足音が十分に遠ざかりもう安全だと保証出来る段階になったところで、彼女は自らの足元に居る少年へともう出てきても大丈夫だと伝える。そんなところに隠れさせてしまったことに対して申し訳ないという気持ちのあった彼女とは別に、今の出来事に対して彼は彼なりに思うことがあったらしい。何かを考えるように顎に手を当てた後、ほんの少しの躊躇いを滲ませながら彼は口を開いた。
「今の感じからして、箱入りってやつなのか?」
「箱入りって?」
「つまり、おじょうさまってことだ」
「おじょうさま、というのがよくわからない」
「じゃあしつもんをかえよう。おまえ、外に出たことあるか?」
「おかしなことを聞くのね、今もこうして出てるのに。だって、ここは外じゃないですか」
「そうじゃない、このへいの向こう側にってことだ」
「本家の大きなお家にはていき的に行きます」
「それ以外では?」
ひつようないから出たことはない。それが彼女の答えで全てだった。薄々予感していたことではあったが、今の遣り取りを通して少年の中でそれが確信へと変わった。そもそも彼がここを幽霊屋敷だと思っていたのは、この家の門から出入りする人間を一度も見たことがなかったからだ。当然ながら彼女が出歩くところを見たこともなく、その存在すらも知らなかった。その事実に先ほどまでの彼女の様子を合わせて考えれば、ある一つの可能性へと至る。確かめるべく投げ掛けた質問に対して返ってきたのは案の定その考えを裏付けるもので、つまり彼女はこの塀の中の世界しか知らない、ということだった。しかし、それを知ったところで彼女のために少年が出来ることはない。結局何も出来ないのならば知らないままで居れば良かったのかもしれない、それでも確かめてしまったのは何故なのか。
彼女は何も知らない。この屋敷以外の世界のことは勿論、自らの置かれた境遇が世間から見ればどんなものであるのかについても、何も知らないのだ。このまま知らずに居れば彼女は何の疑問も持つことなく与えられたものを甘受して生きていくのだろう。知らないままで居た方が幸せなこともある。それは少年自身も良く理解していることだった。けれども、何かを知ればその分だけ出来ることは増えて、選ぶことが出来るようになるはずだから。それは無責任なことなのかもしれないけれど、必ずしも実を結ぶとは限らないけれど、選択の自由くらいはあっても良いと思ったのだ。
「おまえ、なまえはなんていうんだ?」
「。」
「だな。なぁ、おまえは外に出たいと思ったことないのか?」
「外、というのは恭介さまが」
「だから恭介でいいって。あとですますもいらないからな」
「恭介、……が来たところ?」
「そうだ、あのへいの向こうにはもっとずっと広いせかいがある。知ってたか?」
「ううん。さっきあなたと会うまでは知らなかった」
「だろうな。今は行ってみたいと思うか?」
その恭介の問いに対してはふるふると首を横に振る。知った上でそれでも興味はないと彼女が思うのならばこれ以上は何を言おうとも無駄だろう。仕方がない、と恭介が諦めかけたところで「でも」という声が彼の耳に届いた。
「恭介とはもっと話してみたいと思う。あなたが外の話をしてくれて、それで楽しそうだと思ったら、いつかは行ってみたい。それではだめ?」
「だめじゃねーよ。今日はもう帰ったほうがよさそうだから、話するのはまた今度になっちまうけどな」
「また来てくれるの?」
「来ちゃだめだったか?」
再びは首を横に振ってみせる。気のせいかもしれないがそれは先ほどのものよりも何処か必死に見えて、その様子に恭介は何かを思い起こしたのか彼女の頭を数度に渡って叩いていた。叩く、とは言っても掌を軽く乗せる程度のもので、安心させるようとする意図が感じられるものだった。
「じゃあ。またな、」
「さようなら、恭介」
「そうじゃなくて、『またね』って返すんだよ」
「お別れの時は『さようなら』じゃないの?」
「それだともう会えないみたいだろ、それで本当に会えなくなったらさみしいじゃねーか。だからまた会えるように『また』なんだよ」
「そうなの。恭介は色々知ってるのね」
「が何も知らないだけだろ。ほら、もう一回するから今度はまちがえるなよ」
「うん」
「またな、」
「またね、恭介」
そうして茂みの向こうの穴へ向かっていく彼の背中が見えなくなるまで見送ると、彼女も自分に与えられた、必要最低限のもの以外何も置かれていない部屋へと戻っていった。
それが彼女と彼の出会いで、彼女が初めて『外』の存在を知った時のことだった。