he is strong, but

 彼と彼女、どちらにとっても忘れようのない思い出。
 それは柔らかな春の陽ざしが池の底さえも射抜いていた三月の出来事だった。

 二人が出会ってから幾つかの季節が過ぎ、の屋敷の庭には桜が舞うようになっていた。恭介がの元を訪れる間隔は短くても週に一度であったが、それでも回数を重ねればそれだけお互いのことを知る機会も増え、言葉に出さずとも伝わることもあった。この日もそうだった。いつものように穴を通り抜けて現れた恭介はの隣まで来ると、まずは今日あったことを彼女に聞かせて話す。いつも通りであるはずのその様子に、彼女は違和感を覚えたのだった。だから、聞いてみた。彼のことが心配だったから。

「恭介、なにかあったの?」
「なんでそんなこと聞くんだ?」
「だって、今日の恭介はなにかちがうから。つらそう? ううん、さみしそうに見える」
「……誰にも気付かれなかったんだけど、なんで気付くんだろうな」
「何か言いたいことがあるなら、私でよければ聞くよ」
「いいよ、別に。大したことじゃないから」
「よくない。そうやって恭介はぜんぶ一人でかかえこもうとする。話してくれるって言ったよ、外のこと」

 それとこれとは違うということは彼女も理解している。それでも、何とか彼に話して貰いたかったのだ。彼と出会ってから彼女は沢山のものを貰った。それは彼が外からお土産と称して持ってきてくれるもののことでもあるが、それ以上に形を成さない何かのことでもあった。それらは全て彼女が一方的に貰ってしまったものだから、少しでも彼に何かを返したくて、彼のために彼女も何かをしたかったのだ。視線を逸らすことなくじっと見つめてくるに折れたのか、ふぅっと溜息を一つ零すと恭介は視線をの方に戻して口を開いた。

「俺には妹がいるって前に話したよな」
「うん。名前は鈴だったよね」
「そうだ。で、その鈴なんだが、俺が一緒じゃないと家から出ようとしない。今はそれでもいい。でも、四月になったら俺はがっこうに行かないといけない」
「一人でのこしておくのがしんぱい?」
「あぁ。こればっかりはどうしようもないって分かってるんだけどな」

 恭介が兄である限り、年齢の違う鈴よりも進学は早くなる。それは小学校に限ったことではなく、これから先の中学校や高校へ上がる時も同じだ。どうあっても一緒には居られない期間が一年はあるのだ。かと言って恭介が一年進学を見送るわけにも、鈴が一年早く進学するわけにもいかない。だから、どうしようもないことなのだと恭介も言っているのだ。確かにそれは大きな問題であろうということはにも分かった。けれども、それが恭介の抱えていることの全てではないということも感覚的に分かってしまった。

「それでおしまい?」
「そ。四月からの鈴のことが俺の今のなやみだ」
「鈴のことを一人にしておくのがしんぱいなら、私のところに来ればいいと思う。あ、でも一人でここまで来るのがたいへんなのかな」
「いいのか?」
「鈴と恭介がかまわないなら。毎日というわけにはいかないだろうけど」
「かまわねーよ。むしろありがたいくらいだ」
「そう、なら鈴のことはかいけつね。それで、恭介が本当になやんでることはなに?」

 真っ直ぐに恭介の方を見ながらは再度問い質した。本当に話したくないことなら無理に聞き出さない方が良いのかもしれない。しかし、そうやって踏み込むことを躊躇っていたら恭介は大袈裟でなく一生それを一人で抱えて生きていくような気がした。それが出来てしまうだけの強さを彼は持っているから。だが、その強さは完璧ではないのだ。その強さを前にすると忘れてしまいがちなことではあるが、どんなに強くたって辛いことや哀しいことがあれば傷付く時もあるし泣きたい時もある。それでも強さ故にそれを隠そうとしてしまうから、彼女は外で辛いことがあるのならせめて自分にだけは話して欲しいと思ったのだ。外界から切り離された自分に出来ることなどそれくらいだろうから。
 手を伸ばさなくとも触れ合えるほど近くで対面している彼女の瞳の奥に宿るものを見て、これ以上の誤魔化しは無理だと悟ったのだろう。かなわねーなぁと苦笑を浮かべながら小さく零すと、恭介はごろりと縁側の上に横になって何かを思い出すように目を閉じる。そして、これまで誰にも明かしたことのなかった心奥を少しずつ語り出した。

「……今日な、命日だったんだ。父さんと母さんの」
「恭介のご両親?」
「生みの親ってやつだ。父さんの兄さんとその奥さんが俺たちのこと引き取ってくれて、それが今の両親で育ての親、になるんだろうな」
「そうだったの……」
「四歳の時のことだから俺だってせいかくには覚えちゃいないが、鈴のやつは覚えてすらいない。忘れてるんだ。今の両親が本当の両親だと思ってる。ただ、それでもその時のトラウマみたいなのは今も残ってるって話だ」

 唯一悲しみを分かち合えるはずの存在が忘れてしまっている、その心情はとても推測など出来るものではない。どうして忘れてしまったのだと問い詰めて、真実を語って聞かせてしまえるのならばまだ救われたかもしれない。けれども彼にとってその相手は守るべき妹だった。辛い過去を忘れてしまっているのならば、その方が幸せであるというのならば、そのままでいい。恐らく恭介自身もそのように考えたし、周囲も無理に鈴に真実を思い出させる必要はないと判断したのだろう。

「今のお父さまは本当のお父さまのお兄さんなんでしょう? 恭介と同じようにかなしんでいるんじゃないの?」
「……鈴がいるからな。あいつのいるところではそういう話はしないって決めてるんだ。俺がつらそうな顔してたら父さんも母さんも気にしてくれる。でも、鈴がそれを見たらどう思う? ずっと一緒だったはずなのに、俺だけが知っていてあいつが知らないことがある。それに気付いたらいつか思い出すかもしれないだろ」
「だから恭介はずっとがまんしてたのね」
「がまん、か。そういう風に考えたこともなかったな……」

 そこで恭介が黙り込んでしまったので、はそっと隣の様子を伺ってみた。泣いていると思っていたのだ。けれども、彼女の予想に反して彼は語り始めた時と同じように、ただ目を閉じていた。彼の抱えているものを少しでも軽くしたいと思ってのことだったが、もしかしたら辛い過去を思い出させただけだったのではないか。彼をますます苦しめるだけのことだったのではないか。にはそう思えてならなかったから。何か自分にも出来ることはないか。話を聞くことの他は何も出来やしないと分かっていても、考えずにはいられなかった。そんな無力な自身に対してもどかしさを覚えながらも必死に考えを巡らしていると、彼女の記憶を掠めるものがあった。それは滅多に会えない兄との数少ない思い出の一つであり、兄が彼女を励ましてくれた時のものであった。
 唯一思い付いた彼のために出来ること、それを実行するためには手を伸ばした。その感触で驚いたように開かれた彼の瞳を覗き込むようにしながら、かつて自分がして貰ったものと同じ調子で、安心させるように語り掛ける。

「おつかれさま。がんばったね」

 言葉としてはありふれたものだった。しかしそれは、誰にも気付かれぬように直隠しにしてきたものを認め、肯定するものだったから。何か特別なことを成したわけではない。彼はただ、妹のために兄として当然の務めを果たしただけであって、それは称えられるようなことではないし、褒めて貰うようなことでもない。彼自身そう思ってきていたのに――不覚にも、涙が零れた。

「……見るなよ」
「見ないよ。だから、好きなだけ泣いてもいいからね」

 の言葉には応えず、恭介は両目を腕で覆う。視界が閉ざされても暖かい手の感触は変わらなかったから、彼女がそこに居ることは分かった。止めどなく溢れてくる涙を感じながら、最後に泣いた両親が居なくなってしまった二年前の今日であったことを恭介は思い出す。意識を失っていた鈴が目を覚ましたのはその数日後で、その時には鈴は何も覚えていなかった。目の前で両親を亡くしたことでショックを受けて一時的な記憶喪失になっている、という話だった。けれども、どれだけ時間が経とうとも鈴が思い出すことはなかった。残っていたのは意識を失う直前の出来事、両親の元に行こうとして、危険だからと周囲の大人に押さえ付けられたことだけだった。恐らくこれから先も鈴が思い出すことはないだろう。それはすなわち、これから先も恭介はこの真実を抱えて生きていかなければならないということである。だからこの場で泣くことに意味などないと分かっているのに、

「たまには弱音をはいたって、泣いたっていいんだよ。それは弱さじゃなくて、きっとこれからの強さにかわっていくから」

 頭を撫でながら、まるで幼子を言い含めるかのように語るその声を聞いていたら、涙は止まらなかった。その後、恭介の涙が止まったのは周囲が薄赤く色付く頃になってからのことだったが、その間、暖かな手の温もりは片時も彼の側を離れることはなかった。そして泣き腫らした赤い目を隠すように顔を見せないようにして帰ろうとした彼に彼女が告げたのはたった一言。「またね。こんどは鈴と一緒にきて」それだけだった。

 何も出来ないと嘆いていた彼女は知らない。彼にとってこの日この瞬間がどんなに得難く、尊いものだったのかを。何も出来やしないと嘆きながらも彼のためを思ってした彼女の精一杯の行動が、どれほど彼の心に響いていたかを。それは間違いなく彼の心に変化をもたらしており、その変化は今日この場限りのものではなくこれから先もずっと、強くあろうとする彼の支えとなっていくものだった。けれども、それを知らない彼女もまた、この日ある一つの変化を迎えた。何処までも無力な自分に、ひいては自分の現状に対して、初めて嫌気が差したのだ。何も出来ないままで居ていいわけがないのだと、そう思うようになったから――彼女は『外に出る』ことを考えるようになっていた。

(2013.11.29)
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