from the past to now
「きたぞ」
「いらっしゃい、鈴」
四月を迎えて進学したことにより前以上に頻繁に来ることの叶わなくなった恭介の代わりに、の元には鈴が訪れるようになっていた。初めて恭介が鈴を伴っての元に来てから鈴が一人で来れるようになるまでにはそれなりの時間を要したが、今では慣れたものだった。そのことに誰よりも驚いていたのは恭介であり、彼曰く、外出というのもまた鈴にとってはトラウマに近いものであったらしい。はここに居る鈴のことしか分からない。彼女がいつもここに辿り着くまでにどれほど勇気を振り絞って一歩一歩進んできているのかも知らないのだ。だから、何でもないような顔をして訪れる鈴をいつも笑顔で出迎えるのだった。
「今日はどうする?」
「それじゃあ、今日も鈴の話を聞かせてほしいな」
「いっつもそれだな。あたしの話なんかきいておもしろいのか?」
「面白いよ。私にとっては、すごくね。だから鈴が見てきたこと、聞いてきたことをおしえてくれる?」
「……わかった」
何となくではあるがの置かれている状況について理解しているからか、頼まれれば鈴も断るようなことはしなかった。それでも鈴が渋る様子を見せるのは、自分の話でを喜ばせることが出来るのかが不安だからだろう。ただでさえ他人と関わることが苦手である鈴が兄の恭介のように何気ない出来事を面白おかしく誇張することなど出来るわけもなく、話をするということは彼女にとってそれだけ不安を伴うことだったのだ。それでも、鈴自身から見ても面白いのか良く分からないような話をはいつでも楽しそうに聞いていたから。そんなが相手だからこそ、鈴は話をすることになると分かっていてもここに来るのだろう。
「またくる」
「うん。またね、鈴」
楽しい時間はあっという間に過ぎ去り、辺りが暗くなるよりも早く鈴は帰っていく。次はいつ来る、などという約束をしないのは恭介が一人で来ていた頃から変わらない。次を待ち焦がれるようになってしまうことがにとって望むものではないということもあるが、約束をしてしまうことで彼らの時間を縛ってしまうのも嫌だったのだ。それに、約束をしていなければ不意に来てくれた時の楽しみも増える。以前までは来訪者は恭介に限られていたが、今ではそこに鈴が加わり、更には二人が一緒に来るという可能性もある。その日誰が訪れるか分からないということもまた、楽しみの一つだった。それでも、ここ最近では日増しに『次』を待ち望むようになっていることに自身も気付いていた。『外』を目指そうと決めたあの日から、穴の存在を意識しない日はなかった。あの向こうには自分の知らない世界が広がっている。惹かれる気持ちは止めようもなく、彼女はいつしか穴から向こう側を覗き見るようになっていた。けれども、彼女に出来たのはそこまでだった。覗くことは出来ても、穴を抜けてその向こう側の世界へと足を踏み出すことは出来なかったのだ。恭介や鈴から色々な話を聞いてきたが、未知の世界へと一人で踏み込むには彼女は幼過ぎたから。いつか向こう側へと踏み出す自分を思い描きながら、は穴を見詰める。
+++
誰も訪れるはずのないの住む屋敷に、彼女の兄が訪ねてきたのはまた一つ、季節が終わろうとしている頃だった。連絡もない突然の訪問ではあったが、相手が相手であったからか無下に追い返されるようなこともなく、は無事に1ヶ月振りの兄との対面を果たしていた。
「お兄さま、になにかご用事ですか?」
「用事というほどのことはないよ。ただ、久々にの顔が見たくなったんだ」
「そうですか、私もお兄さまのお顔を見れて嬉しいです」
「ねぇ、。最近、楽しいことがあるみたいだね」
「いいえ、そのようなことは……」
「隠さなくていいさ。正月に会った時から気付いてはいたんだけど、あの場で聞くわけにもいかなかったからね」
「お兄さまの目はごまかせませんね」
「何がをそんなに楽しそうにしているのか、教えて貰えるかい?」
そうして促されるままに彼女は兄に全てを話した。穴のこと、恭介のこと、鈴のこと、そして『外』のことを。彼女が話している間、彼は妹の話に口を挟むようなことはせず、ただ相槌だけを打って静かに聞いていた。そうして一時間以上にも及ぶ彼女の話が終わったところで、彼は何気ない調子でこう言ったのだった。
「勘違いじゃないみたいで良かったよ」
「なんのことでしょうか?」
「は気にしなくていいよ。大丈夫、絶対に悪いようにはしないから」
安心させるような笑みを浮かべながらそれだけ言うと、最後にの頭を一撫でして彼は帰っていった。にとっての家族とは、年末年始に大きな屋敷で一同に顔を合わせる、そういう存在だった。会う時はいつも本家の屋敷であり、誰かが彼女の住む屋敷を訪れるということは一度もなかった。その日に限って兄が彼女の元を訪れたということの意味をもう少し考えるべきだったのだ、と気付いたのは後になってからのことだった。
恭介が来たのはその翌日のことだった。小学校に入ってからは月に一度程度にまで訪れる回数が減ってしまっていたから、彼の訪問もまたにとっては不意に飛び込んできた幸福であり、連日に渡る訪問者のお蔭でいつになく彼女は楽しそうにしていた。そんな彼女の様子に気付いた恭介は当然その理由を尋ね、そして昨日彼女とその兄の間にあった会話を聞いたのだった。それからの恭介の行動は早かった。彼女の両手を握ると、その瞳を正面から見詰めて確かめるように問い掛ける。
「、初めて会った時に言ってたよな。俺と話して、楽しそうだと思ったらいつかは外に行ってみたいって」
「うん」
「今はどう思ってる? 外に行きたいと思うか?」
「思ってるよ。外を見てみたいって」
「なら、俺が連れてってやる。行こう、」
「今から?」
「今じゃなきゃだめなんだ。次になったら多分もう……」
「もう、なに?」
「なんでもない。でも、おまえがいやなら止める。どうする?」
「恭介と一緒ならきっと大丈夫だから。私を外に連れていって、恭介」
繋いだ手を決して離さないように握り締め、それだけを頼りに少女は外へと踏み出した――
穴が塞がれて、兄が屋敷を出て行ったという話を聞かされたのはその二日後のことだった。
それからのことはにも良く分からない。気が付いたら彼女は七年間住んでいた屋敷を出て本家の屋敷に住むことになり、そして兄の代わりに跡取りになるように告げられたのだった。
生活は一変した。これまでのような習い事の時間は無くなり、それらは全て知識を蓄えるための時間となった。一般教養しか身に付けていなかったにとって、指示された通りにこなしていくことは困難を極めることだった。それでも朝から晩までひたすらに励み、漸く定められたラインに達したところで、彼女は今度は地域の学校へと通うように言われた。その時に指示されたことはただ一つ『男として過ごせ』だった。何故かと理由を問えば、いずれ一族を率いる立場となった際に女だからと舐められないようにするためだと言われた。理屈としては分からないでもないが、理解し難かった。しかしながら、その指示を守りさえすれば誰にも咎められることなく外に出られる。外に出られさえすれば、彼らにもう一度会えるはずだから。そう考えて、はその指示を聞き入れることにした。
再会はあっけなく訪れた。外に出てみれば彼らはちょっとした有名人であり、探さずとも直ぐに見付けることが出来たからだ。
「きみたちがリトルバスターズ?」
彼女が声を掛けると、五人の少年と少女がいっせいに振り返った。その中に見知った顔を見つけて、彼女は顔には出さずに安堵する。最後に会ってから随分と時間が空いてしまったが、顔を見れば二人とも変わっていないことが分かったから。会ったら言いたいことが色々あった。しかし、はそれらを全て呑み込んで、あくまで初対面の一人の少年として振る舞う。
「そうだが、おまえは?」
「最近この近くの学校に転校してきたんだ。それで、きみたちの話を耳にしてね。ぜひとも仲間に入れてもらいたいんだ」
「なんだ、そういうことなら歓迎だぜ。仲間は多い方がいいからな。俺は棗恭介。おまえの名前は?」
それからの日々はただひたすらに楽しかった。家に帰れば辛いこともあったが、彼らと過ごしている時間だけは何も気負うことなく、目の前のことを楽しむことだけを考えていれば良かった。小学校を卒業して中学校に入っても、それは変わらなかった。むしろそれまでは区域が異なるために一人だけ違う学校に通っていたも中学では同じ学校へと通うようになったことで、彼らと共有出来る時間が増え、より一層楽しいものへとなっていたと言える。その頃にはが男ではないということは彼らの知るところとなっていたが、それでも態度が変わるようなことはなかったということも、彼女にとっての幸福な思い出の一つだった。
しかしながら、幸福な時間の終わりは唐突に訪れた。『中学を卒業したら高校は指定の学校へと通ってもらう』『これまでの交友関係は一切絶ってもらう』卒業式も近い三月のある日、帰宅したに告げられたのはその二つの決定事項だった。ただ、それを受けて「はいわかりました」と簡単に頷けるほどはもう子どもではなかった。何も知らなかったあの頃とは違い、彼女はこの七年の間に自分の目で外を見て、人と接して様々なことを知った。ただ自分の無力さを嘆いた頃は最早過去のことであり、彼女は自分で選んだ道を掴み取るだけの強さがあった。だから彼女は卒業式の日「けりをつけてくる」という言葉だけを残して、彼らの前から消えたのだった。
一年を掛けては望むものを手に入れた。あの場所へと戻り、共に過ごす権利。男として過ごすなどという意味の分からない決まりも取り消させた。やれることは何でもやったし、交渉に使えるものは何でも使った結果だった。誰が見ても全力を、そして最善を尽くしたと評するだけのことを彼女はした。それでも、手に入ったのは高校を卒業するまでの三年間という期限付きの自由でしかなかった。
+++
あと二年。その時を迎えたらどうなるのか考えたくもなかった。例え生きていたところで、あってないような未来しか彼女には待っていない。そんなものに未練などあるわけもなかった。だからあの瞬間、むしろ大切な二人の未来のために今ここで捧げてしまうことがこの生の最後としては相応しいと、はそう思ったのだ。
「ここに居たのか」
背後から掛けられた声が、かつての幻想の狭間で揺れ動いていたの意識を、現在へと引き戻す。声変わりを迎えて初めてあった時よりも随分と低くはなったけれども、がその声を聞き間違えたことはなかった。
「恭介。気安く出歩いて良いのかい? 見られたら言い訳のしようもないよ」
「土曜日の放課後にこっちまで来る奴なんて居ないだろ」
「向こう見ずだね」
「そう思うならメールくらい見るようにしてくれ」
「メール?」
そう言われてが上着のポケットに入れっ放しにしたままになっていた携帯を見ると、確かに恭介からメールが届いていた。そういえば誰からも連絡が来るわけはないと思っていたから、昨日から携帯を一度も確認していなかったことを彼女は思い出す。未読のメールを開けば、そこには彼女を気遣う内容の文面があった。そんなことをしている場合ではないだろうにと思いながらも、緩みかける口元を彼に気付かれぬように引き締める。
「飯、食べてないんだろ」
「人の心配をしている暇があったら、まずは自分の食生活を何とかすることをお薦めするよ」
「」
「大丈夫だよ、私は。元々『この世界』で食事なんて必要ないのだと思えば、空腹も感じなくなったから。それよりも、真人はどうしてる?」
「……外に行こうとしていたのをさっき止めたところだ。今は体育倉庫だろうな」
「そう」
「様子、見に行くか?」
「止めておくよ、今の私では何も出来ないからね」
真人がどんな状態にあるのかには分からないが、恭介の様子からしても楽観視出来るようなものではないのだろう。本音を言えば気にならないわけがない。それでも、例外を除いては誰にも認識されない今の彼女が彼の所へ行ったところで、何一つ出来ることがないというのは紛れもない事実だった。顔を見て今の状態を確認したいと思うのは彼女のエゴにしか過ぎない。それが分かっているからこそ、は行かないことを選んだのだ。あの二人ならば乗り越えてくれると、全てを託して。
「そういえば……鈴も昔のことを少しは覚えているみたいだったよ」
「そうか。なら、あいつが見えるようになるのも案外早いかもな」
「だろうね。明日からは私も部屋で大人しくしているとするよ」
「大丈夫か?」
「大丈夫じゃない。とでも言ったら君の部屋に入れてくれるのかな」
「人を呼ぶような環境じゃないんだが」
「冗談だよ。言っただろう、私は大丈夫だよ」
今の彼女はあの日、彼と出会ったからある。それを感謝したことはあれど、後悔したことは一度もなかった。何故なら彼は世界はこんなにも楽しいものだと教えてくれたのだから。もっと話がしたいと思った。もっと一緒に居たいと思った。同じ場所で同じ時間を共有出来る、それだけで十分だった。これ以上なんて望めるわけもない。今ここにいる。それだけでこの願いは満たされているから、
その願いが報われる最後の時まで出来る限りのことをしようと決めたのだ。