replicato is made again

 意識が覚醒する。辺りは暗闇に支配されていて、灯りといえば遥か頭上に見える点のような光だけ。それに手を差し伸べようとしてみたが、右腕は全く上がらなかった。思うように動かない身体、全身を刺すように襲う痛み。それらを意識したところで、この覚醒はこれまで繰り返されてきたものとは違う、紛れもなく『現実』での目覚めであると気付いた。何故こちらに居るのか、自分はあの世界から弾き出されてしまったとでもいうのか。色々な可能性が頭を駆け巡るが、それらを冷静に吟味して考えをまとめるだけの余裕はなかった。それは全身を取り巻く痛みが思考の邪魔をしていたということもあるが、辺りを見回さずとも分かる、この空間に満ちた救いようのない絶望というものを肌で感じてしまっていたからだろう。忘れていたわけではない。こんなにも酷い現実が待ち受けているからこそ、そこに彼らをたった二人だけで残していかなければならないからこそ、それでもなお前を見て生きていける強さを持って欲しくてあの世界を作ったのだから。あちらでの時間はこちらでは一瞬の夢の中のような出来事に過ぎず、時間の経過などあるわけもないのに、それでも改めて目の当たりにした現実は何処までも残酷で、絶望に満ちていて、その無情さに打ちのめされる。
 楽しかった時間はもう二度と訪れることはなく、全てが終わりを迎える。こんなどうしようもない世界に立ち向かって行くくらいならば、『あの世界』でいつまでも楽しく遊んでいる方がよっぽど良いのかもしれない。そう思ったことが一度でもないわけではなかった。だから、謙吾の気持ちも良く分かる。もしも『あの世界』が永遠に続くというのならば、それでも良かったのかもしれない。理樹と鈴が強くなる必要もなく、恭介が傷付く必要もない……皆がいつまでも笑っていられる世界。けれども、永遠なんてものは存在しないのだ。今でさえ『あの世界』は壊れかけている。『今がずっと続けば良いのに』。そんな願いを叶えてくれる神様なんてものは何処にも居ない。例え居たとしても、その神様とやらはモニターの前で居眠りでもしているに違いない。故に、自分の持てる力で、出来る限り足掻くしかないのだ。

 理性はこれ以上動けるわけがないと知っている。無駄に動けば死期を早めるだということも。それでも、辺りに充満する濃い油の匂いを無視することが出来なかった。これだけ濃い匂いであるということは、発生源は直ぐ傍にあるはずだった。片肘を支えにして身体を起こそうとしたが身体に力は入らず、仕方なく何とか首だけを巡らすことで、匂いの発生源であるバスを探す。恐らく転落時に投げ出されたのだろう、冷たい地面に横たわっている身体の上方にバスはあった。横転し、ほとんどの窓ガラスが割れているその様子を見れば事故の悲惨さがどれほどのものだったかが伺える。覚えているのは一瞬の浮遊感とその直後に訪れた叩き付けられるような衝撃。その結果、自分の身体がどれだけの怪我を負ったのかは分からないが、最早助かりようもないということだけは分かる。それでも、自分の足で立って歩くことが叶わずとも、この身体に出来ることはまだあるから。油の匂いがするということはつまり、ガソリンが漏れているということに外ならない。もしも引火するようなことがあれば、あの二人さえも助からなくなってしまう。
 何故こちらで目覚めることになったか。その原因は未だ分からないが、何を成すためにこちらに居るのかについては既に理解していた。右腕は使い物にならない状態であったが、幸いにも左腕は痛みにさえ耐え抜けば動く。バスが視認出来る位置に居るということは目指すべき場所もそう遠くはない位置にあるはずだから。そう自分を奮い立たせながら、あるだけの力を振り絞って身体を反転させると前進を始めた。

 左腕一本の力だけで身体を前へと進める、謂わば片腕だけで匍匐前進をしているようなものだろう。両手が使えず身体を前に運ぶだけの体力もほとんどないことから、ただでさえ僅かな距離しか進まないというのに、時折襲い来る激痛が意志に反してその進行を阻む。こんなことなら真人に倣ってもう少し筋肉でも付けておくべきだったかもしれないな、そんなことを言い出した日には理樹や鈴に頭でも打ったのかと心配されるかもしれないが。とりとめのない、けれども何よりも掛け替えのない時間を夢想することで動くはずのない身体を無理矢理に動かしながら、前だけを目指した――





 目覚めた場所は見慣れた、寮のベッドの上だった。

「戻ってきた……?」

 声に出してみるも、当然ながらその疑問に対する答えは何処からも返ってはこなかった。『戻る』というのならば本来居るべきはあちらであるのだから、『来た』と称するのが正確なのかもしれない。ほんの少し前まで全身を取り巻いてはずの痛みは全く感じられず、あれだけ力を入れても動かなかったはずの右腕もいとも容易く持ち上げることが出来た。夢みたいだ、と思うと同時に、夢なのだろう、と思う。起き上がり掛けた身体から力を抜き、再びベッドの上に倒れ込む。身体に傷はなく、疲労感があるわけではない。ただ、心が磨り減っていた。夢だと分かっていても柔らかいと感じられるベッドで休まなければ、もう気力は湧いてこなかった。そして覚醒時の習慣となっていたはずの枕元の携帯での日付確認もせずに、眠りに落ちた。





 何度目か分からない暗闇での目覚め。あちらで眠りについたはずなのに、気付けばこちらで目覚めている。そんなことを幾度も繰り返す内に、今がいつなのかということだけでなく、寝ているのか起きているのか、それさえも分からなくなってくる。呼吸をする度に胸元に刺すような痛みが走り、その痛みが『今』が現実であると教えてくれた。激しい咳と共に溢れた血を袖口で拭うと、再び腕を前へと動かす。

 覚醒を繰り返すことで一つだけ気付いたことがある。それは途中であちらへと戻ってしまえば、次にこちらで意識を取り戻した時には再び最初の場所に戻っているということだった。痛みを堪えながら、どんなに無様な姿であろうとも、それでもひたすらに腕を動かして進んだところで、一瞬であってもあちらへ戻ってしまえばそれは無かったことになる。『まるで賽の河原積みだな』。最初にそのことに気付いてしまった時にそう思ったのも無理からぬことだろう。一筋の光さえも差さないような暗闇の中で、ただ前に進む。目指す場所に向けて前に進むだけなのだから、行為としては単純なものだろう。それが微々たる進みであっても、痛みや孤独に耐えながら、僅かずつでも進んで行くことでいつかは目的地に辿り着くことが出来るはずだ。けれども、後少し、というところでその努力は全て無かったことにされる。努力の否定、繰り返される徒労。全てを『世界』の始まりへと戻そうとする修正力のようなものが働いているのかもしれない。だとすれば、そんなものに立ち向かおうと考えること自体がそもそも愚かなのだろう。

 ――それでも、進むことを止めなかった。もう諦めてしまおうか、そう思って全身から力を抜こうとした時に耳にその音が届いたから。ずるずると、全身を引き摺るようにして地面を這いずる音が。自分以外にも同じものを目指している人が居るのならば、その人に任せて自分は止めてしまえば良い。どうしてかそうは思えなかった。それが誰であるのか姿は見えずとも分かってしまったからだろう。そう考えれば、どうして私が『こちら』に来れるのか、この現象にも説明が付く。……いや、それが本当に『彼』であるかどうかは問題ではないのかもしれない。ただ、その願いが報われるまでは出来る限りのことをすると、そう決めたのは自分自身だったから。変わることのない一点の光を見上げることを止め、暗闇の先を目指して進み続ける。諦めさえしなければ、いつかは必ず辿り着けるはずだと信じて。



 コンコン、という硬い物を叩く音が聞こえる。それはこちら側では有り得ない、ノックの音だった。誰かが訪ねて来たのだろうが、今の自分の元に訪れる可能性がある人物など一人しか思い当たらない。部屋の鍵は閉めてある、このまま戻らなければ彼女は無駄足になってしまうだろう。せっかく彼女が来てくれたのだから、戻らないと。扉の前で一人で待っているであろう彼女の姿を思い浮かべながら、意識を切り替えた――

「いらっしゃい、鈴」

いつかと同じ言葉と共に扉を開けて迎え入れると、鈴は突然開かれた扉に驚いたのか目を瞬かせていた。

「なんだ、いたのか」
「居ないと思っていたのにノックしていたのかい?」
「いや、学校には居なかったから、居るなら部屋だと思った」
「なら私が部屋に居て何の問題もないわけだ。私に用があるのだろう?」
「そうだ。あのな、あたしは思い出したんだ」
「そうだろうね」
「とらわれのお姫様は、だったんだな」
「君達があの頃の私をどんな風に呼んでいたのかは知らないけれど、そういうことになるのかな」

 今こうして彼女に私が見えている、その事実こそ彼女が思い出してくれたということを何よりも明らかに示していた。元より兆しはあったのだ、そこに何らかの刺激が加わったことで鈴の記憶は統合されたのだろう。それを口に出すことはせず、そわそわと所在がなさそうにしている鈴を同室相手のベッドに座るように促す。どうせ彼女は最初から『ここ』には居ないのだから、誰が座ろうと怒るようなこともない。そうして座る場所を得たことで少しは落ち着きを取り戻した鈴に、かつてと同じ言葉を投げ掛けた。

「鈴の話を聞かせて欲しいな」
「あたしの話よりもの話が聞きたい」
「話すようなことはないよ、何もね」

 話すことがないということも事実ではあったが、それとは別に話すだけの気力がないということもあった。こうして鈴と会話をしながらも、気を抜けば直ぐにでも意識を失ってしまいそうな感覚がある。それだけあちらでしていることは精神を削っているということなのだろう。しかし、そんなことになれば鈴に心配を掛けてしまうことになる。ここに居るのは外を知らない無知なであって、それ以上でもそれ以下であってもいけないのだ。だからあの頃と同じようにただ彼女の話を聞くことだけを望む。

「ねぇ、鈴。皆がどうしているか、知りたいんだ。話してくれないか?」
「知らないのか?」
「この部屋のこと以外、私は何も知らないよ」
「出られないのか?」
「私にその気がないからね」
「それは、あたしが来て欲しいって言ってもだめなのか?」
「そうだね。今は無理だ」

 前の世界で絶望を突き付けられ、理樹としか会話が出来なくなっていた鈴が、こうして理樹と離れて一人で私の部屋まで訪ねてきてくれた。その成長を思えば、今直ぐにでも頷いて安心させてやりたいと思う。それでも、私がリトルバスターズに加わるのは最後でなくてはいけない。条件を満たさない限り、他のメンバーは私を視界に捉えることすら出来ないのだ。だから今は、何を言われても仲間にはなれなかった。

「……わかった。が来るまで待ってる」
「ありがとう、鈴」
「それで、はあいつらがどうしてるか知りたいんだったな。まず、真人は仲間になった。謙吾は断られた。それと、恭介のやつは……幽霊みたいだった」
「そう、真人は仲間になったんだ。どうやって仲間にしたのか教えて貰えるかな?」
「うん! トラップを作ったんだ」

 理樹と一緒にどんな風に真人と戦ったか、楽しそうに語る鈴の話に耳を傾ける。こうしていると、本当にあの頃に戻ったような気がする。外で見て聞いてきたことを、何も知らない私に鈴が一生懸命に話してくれる、それを相槌を打ちながら私は楽しそうに聞く。恭介が小学校に上がってしまったことで一人になってしまった鈴が寂しくないように。それが彼女が私の元へと来るようになった理由であったが、鈴の訪問で慰められていたのは本当は私の方だったのかもしれない。けれども、あの頃から私は変われた。外を知って、強くなれた。だからきっと、鈴も変わることが出来るはずなのだ。だって、今の鈴にはあの頃とは違って『友達』が居たのだから。

「また明日くる」
「うん。またね、鈴」

 一通り話し終えた鈴が帰っていくのを見送る。「また明日」ということは明日の夜も同じ時間に来るということだろう。そう思って、今し方彼女が出て行ったばかりの扉に鍵を掛け直すことはしなかった。





 腕を動かして身体を前へと進める。進んでいるのかいないのか、暗闇の中では周囲の景色は定かではない。いや、例え明るかったとしても判別は付かなかっただろう。この眼に映る全てのものは既に輪郭を失い、ぼんやりとしか捉えられなくなっているのだから。いずれにせよ、迷うことで手を止めてしまえばそこからもう一度動こうという気力は湧いてこない。だから、決して手を動かすことは止めてはいけなかった。痛みを感じられる内はまだ良い。痛みを感じられなくなったら、それは脳が耐えられないほどの痛みになったということであり、そこまでいってしまえば終わりが近いということだから。この身体にはまだ痛みがある、だから、まだ動けるはずなのだ。横転しているバスの周囲に沿うようにして進んでいく。あの角の向こう側へと行けばそこにあるはずなのだ、目指すべきこの臭いの発生源が――





「きたぞ、
「いらっしゃい、鈴」

 宣言通り、その晩も鈴が部屋を訪れてきた。昨日とは違い、鍵を開けておいたので鈴は自分で部屋へと入ってくる。ノックの音に反応して戻ってきたが、あと数秒でも遅ければ鈴からは私が突然部屋の中に現れたように見えただろう。恐らくあちらで動いている間はこちらに私は居ない。この世界は永遠の一瞬の狭間にしか存在し得ないものだから。その始まりの地点から先に進もうとしている私はその間はこちらには存在しないと考えられる。自分自身を客観的に捉えることは出来ないため実際のところどうなっているのかは分からないが、鈴に妙な不安を与えないためにも、一つの可能性として考慮しておく必要はあった。

「今日も何があったか聞かせて欲しいな」
「あのな、謙吾のやつは怪我してなかったから、やきゅーをすることになった」
「良く分からないけど、それは野球で対決するということかな?」
「そうだ。明日、理樹と謙吾が対決して、勝ったら謙吾は仲間になるんだ」
「野球は鈴の発案?」
「たぶん、そうなるな。野球がいいってあたしが言ったんだ」
「うん、私も野球が良いと思うよ」

 そうだろうそうだろう。と賛同を得て嬉しそうに頷く鈴を横目に、思い出す。泥だらけになりながらも、白球を追い掛けて居た日々を。いつも参加するのは最後の金曜日からで、それも途中から謙吾に譲ってしまったから、時間としてはそう長くはなかった。けれども、いつも遠くから距離を置いて眺めていたその輪の中に混じることが出来たあの時間もまた、大切な思い出だ。それがこの止まった時間の中で起きたことだろうと関係はない。それを鈴も覚えているのだろう。何もかも忘れてなどいない、忘れられるわけがない。

「明日が謙吾との対戦だというのなら、今日はもう休んだ方が良いんじゃないのかな」
「それもそうだな。けど、はそれでいいのか?」
「私のことは気にしなくて良いよ。頑張っておいで、鈴」
「頑張るのは理樹じゃないのか?」
「理樹だけじゃない、鈴もなんだよ」

 納得がいかなさそうな顔をしている鈴に「おやすみ」とだけ言って部屋から送り出した。明日、二人は謙吾に勝って彼を仲間にするだろう。そして理樹は、最後に恭介の元へと向かう。終わりの時はもう直ぐそこまで来ている。それまでにはきっと、あの場所へと辿り着いてみせる。





 同じ手順で、同じ行程を繰り返す。最早目を瞑っていても進むことは可能だった。閉じた瞳の中で色鮮やかな日々を思い返す。それは修学旅行に来るまでのものでもあったし、あの世界で過ごしたものでもあった。そして目を閉じることで、もう一つ感じ取れるものがあった。同じように這いずる誰かの音。何度リセットされようとも諦めないその音をより一層大きなものとして感じ取れるようになったから、ただ腕を動かす。前へ、前へと。
 再び見えてきたバスの角を曲がり、その向こう側へと身体を進める。それだけで濃厚なガソリンの臭いを嗅覚が感じ取った。これまでで一番近くに来ている……何処にある? ぼやけた視界でその場所を捉えようと、何とか顔を持ち上げる。そうしたことで、きらりと反射する何かが視界に入った。それと、何かにもたれ掛かるように座り込んでいる人影。あぁ先に辿り着いていたのか、これで大丈夫。そんな感慨を抱くよりも前に、それは目の前で起こった。

片手に握り締められたものが、躊躇いなくその胸へと突き刺される。

 何が……起こった? 理解出来ない、いや、したくなかった。目の前の現実を受け入れられず動けずにいる間にも、泥に汚れてなお白いそのシャツが赤に染まっていく。染め上げるそれが何であるのかなんて考えずとも分かっていた。それでも目の前で起きたことを理解したくなくて、口からはそれを否定する掠れた声が零れる。どうして彼がそんなことをしなくてはいけないのか? あそこに留まらなくてはいけないからだ。向こうに戻ればこちらでの行いは全てなかったことにされてしまう。ではそのリセットを回避するにはどうすれば良いのか? リセットの起点となっている『死に場所』をあそこにすれば良い。理屈としては分かる、そうしなければいけないからそうした。だからってそれは簡単に実行出来るようなことであるわけがない。あっていいはずがない。

「恭……介……!」

 名前を叫ぼうにも、口から溢れてくる血がそれを邪魔する。強く握られていたはずのガラス片も手から零れ落ち、離れていてもその身体には既に意識がないことが分かってしまった。行かなければいけない……彼の傍へ。こんな状況になっても少しずつしか進めない自分が悔しくて、それでも必死に腕を、足を、動かす。もう無駄だと分かっていても、一秒でも早くそこへと行きたかった。
 漸く辿り着いた時には彼のシャツの左半分全てが真っ赤に染まっていた。あちらでは決して触れないようにしていたその手に触れると、その感触は人の温もりとしてはどうしようもなく冷たく、急速に体温が失われつつあるのだとどうしようもない事実を突き付けられる。

「きょう…すけ……ねぇ、きょ…す……け……!」

 返ってくる反応なんてないのだと分かっていながら馬鹿の一つ覚えのように名前を呼ぶことを止められない。もう助からない命なのだから二人のために使いたい。私だってそう思っていた。でもだからって、既に失われつつある命と、自分の手で終わらせる命では全く意味が違う。どうしてそこまでするのか、なんて分かりきっている答えだ。それだけ彼にとって二人は大切で、宝物なのだ。けれども、分かっていても問わずにはいられない。どうしてそこまで『出来てしまうのか』と。
 もう何をしても助からない。それは彼にとっても私にとっても変わることのない確定した未来だ。だから何をしたところで無駄だということは分かっていた。それでも、満足に動かない震える手で自分の首に巻かれているものを解き、その胸元を押さえる。元から赤いネクタイが一瞬でより深い赤へと染まっていく。……これでは足りない、もっと大きな布でないと。全身に襲い来る痛みを省みずに無理矢理上着を脱ぐと、折りたたんだそれをネクタイの上から重ねて押さえる。止血出来るだけの力がこの身体には残っていないことは誰よりも良く分かっていた。押さえているというよりも乗せているだけに等しいだけの力しか掛かっていない。全ては私の自己満足に過ぎなかった。そうだったとしても、こんな血塗れになっている彼を目の前にして何もせずにいるなんてことの方が私には無理だったから。
 なんでこんなことになってしまったのか、どうして彼がここまでしなくてはいけなかったのか。色んな考えが頭の中を駆け巡る。それら全てが誰のせいでもなく、どうにもならないことだったのだ、ということも一緒に。そして何よりも、そんな彼だからこそ私は今ここに居て、最後の瞬間まで付き合うと決めたのだということも……。もう一度その名前を呼ぼうとしたが、やはり口から溢れてきた血で咳き込んでしまって言葉にはならない。呼吸さえも溢れ出てくる血が邪魔をしていた。酸素が足りなくなってきたのかいよいよ朦朧としてきた頭で、彼の顔を見ていなかったことに気付く。こちらで顔を見るのはこれが最後になるだろうから、もう一度だけ、と気力を振り絞って顔を上げた。滲んだ視界の端に捉えたその顔は、口から血を零しながら、それでも何かを成し遂げたように満足そうだったから――――ばか。

言葉にもならないような小さな呟きを最後に、私の意識は途絶えた。

(2013.12.08)
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