When the world ends, the wish is rewarded at last

 ちりん。それは聞き慣れた音だった。その髪が揺れる度に跳ね、小さな、けれども響き渡るように聴こえてくる鈴の音。その音に促されるように、瞼を開ける。真っ先に目に入ったのは心配そうにこちらを覗き込んでいる鈴の顔と、月光に照らされて輝きを放っている髪に結ばれた鈴だった。

……っ!」

 その声に呼応するように、ちりんという音が再び鳴る。鈴は出会った頃からあまり言葉数の多い方ではなかった。そんな彼女の代わりに気持ちを伝えてくれていたのがこの音だった。そしてそれは今も変わることはなく、言葉にならないものを教えてくれる。だから、右手を伸ばして安心させるように鈴の頭を撫でるのだった。

「大丈夫なのか?」
「何の心配をしているのか分からないけれど、私は至って健康だし何の問題もないよ」
「呼んでも、揺さぶっても、全然起きなかった」
「熟睡していたからね」
「ひどい顔してる……どこか痛いのか?」
「今はどこも痛くない」

 脳裏にあちらでの出来事が蘇る。赤く染まっていく胸元と温もりが失われていく掌。意識を失うようにしてこちらに戻ってきたが、それが彼と同じようにスタート地点の再構築であったのかどうかは分からない。もしも自分があの場に留まることが出来ているならば、この身体が少しは止血の役割を果たしているかもしれない。もうどうにもならないのだと何度も言い聞かせて嫌という程に分かっているはずなのに、まだそんなことを考えていることに気付き内心で自嘲する。彼と彼女自身に限ったことではない。あちらに関する何もかも、最早確かめる術はなかった。『穴』は塞がったのだから。

「ほんとに大丈夫なのか?」
「大丈夫だよ、心配しなくていい」
「でも、泣いてる」
「……え?」

 鈴に指摘され、その時になって漸く頬を伝う滴について自覚した。未だ気遣うように覗き込んでいる鈴を前にして早く止めなければならないと思っているのに、意思に反してそれは止まることはなく次から次へと溢れてきた。ぽろぽろと溢れる涙を何とか止めようとしながら、その理由について考える。バスが崖から転落したことでこの『世界』が生まれた。ここが始まった時点で、もう助からないのだということを漠然と理解していた。しかし、頭では理解していても感情は追いついていなかったのだろう。処理しきれていなかった感情を押し留めていた理性が、彼の『死』という現実を目の当たりにしたことで決壊した。
 それはあまりにも突然過ぎる終わりだった。どうして二人だけを置いていかなくてはいけないのか、どうして他の皆にはこの先が無いのか。そう思いながらも自分自身については、どうせ後二年しかなかったのだからと、これまでこの結末を受け入れてきた。しかし、自分自身でさえ気付いていなかった本心があったのだろう。二年後には皆と別れることになってしまっても生きてさえいればまた会うことが出来る、いつかまた皆と過ごせる時間が来るかもしれない。けれども死んでしまえばそれも叶わないのだ。
 ――そう、誰だって本当は死にたくはない。もっと皆と一緒に過ごしたかった、もっと生きていたかった。そう叫ぶことは容易いが叫んだところで何も変わりはしないのだと分かっているからこそ、語ることなくその思いを秘めたまま二人のために『世界』を作ったのではなかったのか。それは今はもう『ここ』には居ない彼女たちも同じだろう。強くあれ、と二人を送り出すのだからこちらも最後まで弱さを、未練を、見せてはいけない。零れる涙を拭うと身体を起こし、ベッドへと腰掛けた。その隣へと鈴を座らせ、そして口にする。かつてと、そして昨夜と同じ言葉を、先ほどまでの涙などなかったとでも言うように何気ない調子で。

「今日は何があったのか、鈴の話を聞かせてくれるかな」
「…………」
「謙吾との野球の勝負の結果がずっと気になっていたんだよ。ねぇ、鈴」
「……はいっつもそうだ」
「性分なんだよ」
「あたしには何も話してくれない。あのときだって突然いなくなって、中学のときだってそうだ」
「そうだね」
「でも、いつも後からちゃんと話してくれる」
「うん」
「だから、あたしも今は聞かない。待ってる」
「……ありがとう、鈴」

 約束はきっと直ぐにでも果たされるだろう。だが、それは同時に全ての終わりも意味している。その時、鈴が何を思うかは今は分からない。ただ、全てを知っても先へと進むことは止めないで欲しいと、願う。そのために『ここ』はあったのだから。


 +++


 また朝が始まる。けれども、それはこれまでとは同じ朝ではなかった。空は動かず、人も居ない。もう二度と、同じ朝が来ることはない。数日振りに制服をきちんと着こなすと、部屋をぐるりと見回した。満ち足りていた高校生活、確かに幸福であったと言えるその時間の一端をこの部屋が担っていた。誰かと共に生活するということは初めてのことだったから、部屋に戻ってくれば「おかえり」と言ってくれる相手が居るというそんな単純なことが、彼らと過ごす時間とは別にそれはそれとして自分にとっては価値あるものだった。今となっては同室相手にその思いを伝えようもないということにほんの少しの後悔を抱きながら、扉を閉める。そして振り返ることはせず、前だけを見て歩き慣れた寮の廊下を進む。行く先はもう決まっていた。会いに行こう、彼らに。



「君たちがリトルバスターズ? ぜひとも仲間に入れて貰いたいんだけれど」

 渡り廊下を通る彼らを呼び止めるようにして背後から声を掛けた。理樹を先頭にして、それに続くようにして鈴、真人、謙吾。そして一番後ろからついていく恭介。それは懐かしいとさえ感じてしまう光景だった。声を掛けた自身すらあの頃に戻ったかのような錯覚を覚える、遠い子供時代を思い出させるような、でもとても久々に目にする光景。唯一あの頃と違うのは、その問いかけに答えるのは理樹だということだった。

「そういうことなら歓迎だよ。みんなもいいよね?」
「うん、いいぞ。も仲間だ」

 誰よりも早く答えた鈴に間を置かずして残りの三人からもめいめいに賛同を示す声が上がり、それを受けて理樹は頷くと私の手を引いて輪の中へと誘う。これで元通り、みんなが揃った。理樹の表情はそう語っていたから、ただ笑顔を浮かべてそれに応える。そして理樹の手が離れると今度は駆け寄ってきた鈴が私の手を取り、引かれるままにグラウンドへと向かった。繋がれた小さな手の感触を忘れないようにと、ほんの少しだけ力を込めたことに鈴が気付くことはなかった。



「セカンド、謙吾!」
「任せろ!」
「ナイスピッチ!」

 セカンドの謙吾からファーストの真人へ、そして真人からピッチャーである鈴の元へとボールが戻る。外野守備に回った私は五人の姿を瞳に焼き付けるようにして眺めていた。ほとんどのボールは内野の守備で完結しているが、理樹が時折バットの芯でボールを捉えた時には外野まで飛んでくることもあった。本来ならば三人で行う範囲の守備を実質一人で行っているため反応しきれないこともあったが、それを責めるような者は一人も居なかった。それは私が全力でボールを追いかけていることを知っていたからだろう。遊びであっても全力で行う。それが昔から変わることのないリトルバスターズの在り方だったから、最後までそうあろうと決めていた。何よりも、六人でする初めての野球だったということもある。これまで謙吾と私のどちらか一方が居れば、もう一方は参加しないという状況だったために二人が共に野球に参加しているということはなかった。だから、これが最初で最後の、六人でする野球なのだ。そう思えば、悔いの残らないように自然と全力で白球を追い掛けていた。
 バッターボックスの方を向いているはずの彼らからは私のことは見えない。そのはずなのに視線を感じて周囲を見遣ると、三塁の守備に当たっている恭介と目が合った。血塗れの彼の姿がまた頭を過ぎるが、それを振り払って今『ここ』に居る彼の姿を見詰めた。互いに何かを口にすることはなく、ただ視線を合わせる。そして、すっと恭介が指を一本立てた手を掲げてみせたのを受けて、静かに頷く。終わりはもう直ぐそこまで迫っていた。

 最初は真人だった。一塁ベンチ側へと飛んでいったファール球を段差に躓いて転びながらも見事にキャッチしてみせた。いくら鍛えているとは言え、勢いでベンチの中にまで突っ込んでしまったのだから、全く痛まないということはないだろう。それでも真人は「平気さ」と言いながら立ち上がると、心配して駆け寄ってきた理樹と向き合った。何もかもを知りながら、それでもこれまで通りで有り続ける。口で言うのは容易いが実行するのは難しいそれを、最後まで貫き通した真人は私たちの中で誰よりも大人だったと思う。ルームメイトであった理樹は勿論、鈴にとっても真人は気兼ねなく何でも言える相手だった。そんな彼が変わらずに傍に居たからこそ、二人も変わらない日常を過ごすことが出来たのだ。二人だけではない。きっと他の皆にとっても、これまでと同じように馬鹿をやってくれている彼の存在は支えになっていたはずだ。そんな掛け替えのない友人が『ここ』から去っていくのを見届ける。
 残ったのは真人から受け取ったボールを手にした理樹だけだ。取り落としたバッドもそのままに、理樹は恭介へと走り寄り、縋り付く。理樹はこれまでのように優しく慰めてくれることを期待していたのかもしれない。けれども今にも泣き出しそうな理樹を前にして、恭介は淡々と真実を、この世界の秘密を語り始めた。修学旅行の途中でバスが崖から転落したこと、そして生き残るのは二人だけだという現実を。

「そんな事実を……とつぜん言われても……。でも……僕は……いかなきゃね……いかなきゃいけないんだよね……」
「そうだ、強く生きるんだ。いいか、絶対に泣くな。ここから先は絶対に泣くな。そんな弱さはもう許されないんだ」
「……ああ」
「さあ、鈴、再開だ」

 恭介が笑ってそう声を掛けると、鈴は不思議そうにしながらも理樹に促されるままにボールを投げた。それを見て、これまでを思い返すように目を閉じる。理樹は真実を前にしても折れることなく受け止めてくれた。そして鈴はその理樹を信じている。それが分かっただけで、もう十分だった。二人は強くなってくれた、きっと二人だけになっても理樹が鈴を連れてこの先への連れて行ってくれるだろう。閉じていた目を開けると、地面に手をつく謙吾が目に入った。今にも泣いてしまいそうな彼に対して「泣くことは許さないぞ。顔を上げて返してやれ」と恭介は言う。恐らく、こちらが弱さを見せれば二人もそれに引き摺られてしまうからなのだろう。謙吾も恭介の意図を理解しているからか、耐えるように拳を握り締めながら思いを語る。その慟哭は痛いほどに私に刺さった。幼馴染の中での謙吾と私の立ち位置は似ていた。謙吾には剣道が、そして私は三年間という制限があって、いつも彼らと一緒に居ることは出来なかった。本当はずっと一緒に居たかったのに、それをしなかったのは紛れもなく私たち自身の選択の結果だった。だから、『こんなことになるなら』という思いが他のみんなよりも強く、同じ立場であるはずの私が恭介の方針を指示することに納得がいかなかったのだろう。後悔は尽きない、それでも幸せだったと言い切れるだけの時間を貰った。最後にはいつも通りの彼で、理樹と握手を交わして謙吾は消えていった。
 謙吾が消えたことで自然と垂れ下がった手を前にしても、理樹はもう先ほどの真人の時のように狼狽えはしなかった。不思議そうにしている鈴に再び球を返すと「まだ続けるのか?」という問い掛けに無言で頷く。その瞳には今にも零れ落ちそうな涙が溜まっていて、それでも恭介との約束を守って泣かないようにと懸命に堪えているのが分かった。口元を硬く引き結んでバッターボックスへと戻った理樹がバッドを構えたところに、鈴が再びボールを投げ込む。ガィンという鈍い音がして高く、けれども詰まるようにしてボールは上がった。外野フライ、落下地点を見定めると私はグローブを構えて待つ。空に太陽はもうない、その眩しさで落ちてくるボールを見失うようなこともなくそのままグローブの中へと真っ直ぐにボールは落ちてきた。グローブからボールを取り出してそれを左手へと持ち変えると、こちらに近寄ってくる理樹の方へと向かう。遠くから感じるまだ小さな地鳴りのようなものを感じながら、残された時間はあと僅かだと理解していた。それでも走ることなく、歩いて向かう。私も最後まで『いつも通りの私らしく』あろうと思ったから。
 そうして歩みを進めて理樹と向かい合うことが出来たのは、奇しくもピッチャーである鈴の直ぐ傍だった。何かが終わろうとしている、そのことを少しずつ感じ始めているのか鈴の表情には不安が混じっていた。昨晩と同じように頭を撫でようとして、思い留まる。理樹と同じように鈴もこれからは強くなくてはいけないから、今ここでその弱さを受け止めるような真似をしてはいけない。そう自分に言い聞かせるようにして代わりにボールをきつく握り締めると、私は理樹と鈴の二人と向き合った。

「言いたいことは色々あるのに、いざこうしてみると何も出てこないものだね」
「……も、あの馬鹿ふたりみたいに居なくなるのか?」

 鈴のその質問には答えることはせずに、言葉を探す。言いたいことは沢山あるが、その全てを伝えている時間はない。だから、何よりも一番大事なことを大切な二人に伝えなくてはいけなかった。

「楽しかったよ、皆に出会ってからの毎日は本当に楽しかった。嫌なこともあったけれど、それも皆と一緒に過ごした時間に比べれば些細なことだ。だから、もっと一緒に居たくて、何を置いても戻って来ようと私は思ったんだ。……一年前、皆と再会した時、本当は泣いてしまいそうだった。嬉しかったんだ……変わらずに何も無かったかのように私を受け入れてくれたことが、本当に嬉しかった。あの時は言えなったけれど、ありがとう」

 入学式当日、突然現れた私に驚きながらも彼らは何も言わずにまた輪の中へと入れてくれた。聞かれなかったけれども一年間音沙汰がなかったことについて気に掛けてくれていたことは伝わってきたから、私も彼らにこれまでの事情を説明することに決めたのだ。その時に話したのは全てではなく、一部分――三年間という期限のことを除いたものだったが。私には最初から終わりがあったのだということは言わない。それはずっと決めていたことだから、この状況であっても変わらない。彼への想いと同じく、最後の時まで口にするつもりはなかった。

「それと、鈴。あの頃のことを思い出してくれてありがとう。せっかく待っててくれたのに済まないね。でも……これだけは覚えておいて欲しい。辛いことも哀しいこともあるけれど、楽しいことも嬉しいこともある。この世界は悪いことばかりじゃない、良いことだってあるんだよ。だからね、私は外に出れて良かったと思う。世界はこんなにも楽しいものだって知ることが出来たから、みんなと出会うことが出来たから……」

握り締めていたボールを、敢えて理樹と鈴の間に投げる。二人が一緒になってそれを捕ったのを見届け、

「大好きだよ。皆と居る時間が、この場所が、リトルバスターズが」

そう言って、私は『世界』から退場した。

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 言いたいことは伝わっただろうか、上手く笑えていただろうか。そんなことを考えながら私は校舎の階段を上る。本当は戻ってくるつもりはなかった。別れを告げておきながら、まだ『ここ』に居ることが分かったら彼らは何と思うだろうか。それでも戻ってきた、戻ってきてしまった。――やり残したことがあったのだ。どうしてもそれだけが心残りで、こうして舞い戻ってきてしまった。これは私の、この『世界』におけるたった一度だけの我が儘だ。輪郭の薄れつつある校舎の中を三階まで上がり、馴染みのある教室へと入る。そこは『最後の世界』が始まってから過ごした三年の教室ではなく、四月から理樹や鈴たちと共に過ごした教室だ。椅子を引いて自分の席へと座って、それを待った。
 窓の外にはもう何もなかった。中庭も木も空もなく、ただ空白が広がっている。そうして待っていると、程なくして誰かが入ってくる足音がした。やっぱり。そう思いながら、後ろの席にその誰かが座る音をそのままの体勢で聞く。学校という場所の中で一番印象に残るのは教室であり、それは多くの場合は自分の教室である。けれども、彼の場合は違った。休み時間には皆が集まってくだらない話をして笑い合う、窓から入ってきてはいつも当然のように彼はそこに混じっていた。そんな彼だからこそ、最後に来るとしたらこの場所だと思っていたのだ。椅子を引いた音が響いた後、今度はリノリウムの床を歩く音が響く。静寂に包まれた教室であるが故に思っていた以上に大きく響いていると、それらを発する私にも思えた。
 彼は――恭介は窓際の一番後ろの、理樹の席に座っていた。その椅子の背もたれに寄りかかるようにして立つ。

「……おつかれさま」
「あぁ……俺はやり終えたんだよな」
「そうだよ。君が最初に願った通りに、理樹と鈴は強くなって、そしてこの先へと向かった。成し遂げたんだよ、君は」
「そうか。それならいいよな、もう」
「うん。おつかれさま、がんばったね」

 どうしても言っておきたかったこと。それを言ってしまえば、後はもう何もなかった。ここに来て、今更思いを吐露することに意味があるとは思わない。だから、私も彼も、何も言わない。背中に微かに触れる体温を感じながら、そっと目を閉じて全てに幕を下ろした。

(2013.12.22)
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